見えない糸
拝啓、私へ
私は今日も、食い入るようにニュースを観て。
私は今日も、この両手を見つめて。
まだ、暗がりばかり歩いて。
夜の音だけに、耳を澄まして。
大切なものがあったのに。
失ってもまだ、のうのうと生きて。
やっと見つけた、唯一の全てを。
今でもまだ、追い求めているでしょ。
それが多分、生きるということ。
許せない私を、誰か許して。
その日、私はまた日野に呼び出されて、近くのカフェで昼ごはんを食べていた。
目の前で彼はまだ熱いコーヒーを啜りながら、パスタを食べている。私はそれをどこか夢見心地で見つめている。
陽のあたる、明るいテラスだった。
今日は約束の日。
「沙月、食べないの?」
「ああ……食べるよ。ぼーっとしてた」
「そう」
目の前にはサラダだけが置かれている。私はレタスにフォークを突き刺す。口へ、運ぶ。
「沙月、また痩せただろ?」
「え、そうかなぁ」
惚けて見せたけれど、体重が落ちているのは事実だった。緩やかに痩せていっていることは間違いない。なんだか食欲がいつも無くて、胃の中は空っぽなのに食べなくてもいいような気分になる、不思議な感覚だった。具合が悪いわけでもないのに、ただ食欲がない。
「ただでさえ沙月は痩せ気味なんだからしっかり食べないとダメだ。不健康だよ」
「いや、健康だって」
日野はいつも通り、口うるさい。
最近、このお節介な男が私を食事に誘うことが増えた。大学が休みの昼に、バイト上がりの夜に、私の時間が空いている時を的確に狙って連絡してくるのだ。日野とやり取りをしているSNSのアカウントの履歴は、彼からの食事の誘いでいっぱいだった。
逆に言うとそれ以外のやり取りはほとんど無かった。会えばそれなりに世間話はするけれど、文字でのやり取りは業務連絡並みに簡素なものだ。日野らしい、と言えばその通りなのだけれど。
「僕は心配しているんだ、沙月」
「心配って、何を?」
「うまく言えない」
理論を重んじる彼にしては珍しい、歯切れの悪い言葉だった。
「どうしたの?」
フォークを置いて、眉間に皺を寄せる日野の顔をじっと見る。ほら、私はこうして微笑むことだって出来るよ。
だから何も心配要らないよ。
「前に感じたみたいな、嫌な感じだ」
嫌な感じ、嫌な予感。
それは。
「沙月、君はおかしいよ。前の君じゃない」
「……もう、日野ったら、人間は変わるもんでしょ。ずっと同じだなんて、まるで生きていないみたいだよ」
酷い皮肉だった。私は生きている。
それなのに。
「そうだよ」
日野は頷いた。
「君はまるで、ゆっくり死んでいくみたいだ」
「気の所為だよ」
「いいや違う。僕は怖い。あの日……夜の駅前の公園で君を見かけた時と同じ不安がある」
その瞳には私が映っている。いつもと変わらない、でもほんの少しやつれた自分自身が。
「沙月、しっかりして」
彼は何度も繰り返した。本当はよく分かっている。日野は本気で私を心配しているし、恐れているし、留めようとしている。
「私は大丈夫だよ、日野ったら心配性なんだから」
「僕はそんなことを言わせたいんじゃない!」
がたり、と日野が座っていた椅子が大きな音を立てた。彼は少し腰を浮かせて、テーブルの上に置いていた私の左手に手を伸ばしかけていたのだ。
私は呆然と、それを見ている。
「頼む、沙月。僕は……!」
その手が、私の手を掴む。
「離して!」
咄嗟に振り払ったせいで、日野はほんの少しだけよろめいた。
「……沙月?」
「ごめん、日野。私ダメなの」
ダメって何が?
そんな顔をさせたいわけでは無かった。私にとって、日野は大切な友人だ。そう、ユキと同じくらいに。確かに私は変わっただろう。親友を喪ったことを現実として受け止めたのもある。あの惨劇が目の前で繰り広げられたこともある。だけど、それだけじゃない。
「生きてる人間の体温、苦手なんだよね」
去年買った軽自動車に荷物を積み込むと、1時間ほど走らせる。山道を進む。悪路で一応敷かれているアスファルトもぼろぼろなもんだから、車は激しく揺れる。最初、この道を運転するのは免許を取ったばかりの私には怖くて、慣れるまでに時間がかかった。
今はもう、何度往復したか分からないくらいだから、流石に大丈夫だけれど。
木漏れ日を浴びながら1時間経つ頃、やっと私は車を止めた。林の奥に伸びる獣道が、消えそうになりながら続いているのを見て、私はふと、その向こうに微笑んでみたくなった。籠に入れた線香と2本の大きなペットボトル、それに途中で買ったお供え用の花を抱えて、ゆっくりと歩き出す。
「僕は心配なんだ」
ついさっきかけられた日野からの言葉が脳裏にこびり付いている。手にはまだ、体温が残っている気がする。
「心配ないよ」
ひとり呟いた答えは、降り積もった葉と落ちた枝を踏む音にかき消されていく。
「お母さんに会いに行くだけだもの」
そう。
私はやっと、自分の母親が眠る墓に通えるようになったのだ。
林の奥は緩やかな坂道になっていて、体力のない私には少し堪える。墓参りと一言に行っても、荷物はそれなりに必要なのだ。大切な大切な、唯一血の繋がった家族がいる場所なのだから綺麗にしてあげたいし、きちんとお供え物もしたい。そうなると必然的に、荷物は多くなってしまうわけで。
木漏れ日が揺れている。
この山は沢村さんの私有地だ。奥の奥にひっそりと、木々に抱かれ隠されるようにして有理の墓はあった。元々近くにあった集落の墓地だったそこは、過疎化で住む人がいなくなって以来、少しずつ寂れて今ではもう、手入れされているのは有理が眠るそれしかない。彼女を死後安らかに守るには絶好の土地だ、と沢村さんは言っていた。このご時世、持っていても大した役に立たない山にやっと価値が生まれたのだと。
ここは有理のための場所。
私がいつか入る墓がある場所。そこでやっと、お母さんに会える。
彼女を愛した人が、用意した終の住処。
地面に割れたコンクリートの破片が目立つようになる。そのうち、壊れた墓石も。
その先にひとつ、ぽつりと有理の墓はあった。
立派な、大きな墓だった。周囲は石が幅広く敷いてあり、私は、その隙間から顔を出している雑草を丁寧に抜きながら近付く。花を入れ替え、墓石を磨く。そして、いくつか個包装になっているお菓子とお茶を供えて、線香を備えた。
手を合わせて、耳を澄ます。
「ちょっと、来るのが遅くなっちゃいました。ごめんなさい、最近忙しくて」
しゃがんで手を合わせたまま、俯きながら語りかける。
「最近はまた日野が五月蝿いんですよ、全く心配性で敵いません。私は大丈夫なのに、困ったもんです」
他愛もない世間話を。
「でも、大丈夫。私は大丈夫です。元気ですよ」
その時だった。
へぇ、それは良かった。
そんな声が。
「勿論。元気なのが取り柄ですから」
元気ならいいんだ。
「うん。心配いらないですから」
そうして私は、手を合わせたまま話を続けた。最近あったこと。今の自分のことを、静かに語り続けた。そうしているうちに日が少しだけ傾いて、風が僅かに冷たくなった。
「さて、そろそろ帰らなくちゃ。今度はもう少し早く来ますね」
待ってるよ、とくぐもった声が返す。
そうして私は手を伸ばして、俯いた視線の先、コンクリートの地面に手を当てた。ひんやりとした温度が体温を奪っていく。私は地面を温めることなど出来ないし、ただ、ただ奪われていくのだ。
この向こうに納骨室がある。
温度が心地よかった。手のひらの先には一筋の光もない真っ暗闇があるのだと想像するだけで、私は、あの人と歩いた夜の路地裏を思い出す。世界から隠されていた秘密の関係。この温度を愛している限り、忘れない限り、私は向こうの夜と繋がっていられるのだ。
その事実が見えない糸となって私とあなたの小指を結ぶ。
誰がなんと言おうと……永遠に、だ。
籠の中から、それぞれ水と油が入った2本のペットボトルを取り出して墓の隣に置くと、そこに並んで置いてあった空になったペットボトルを同様に2本、回収して籠の中に入れた。
「さようなら、またね」
木のさざめきと共に、声が私にさようならを返した。からり、とあなたが骨を抱きしめる音と共に。
さようなら、沙月。またね。
君が生きているうちは僕も君を愛している。
ずっと、ずっと待っている。
だからお願い。
君が終わる時、必ず僕のところに帰ってきて。