第三話
夜は深まって、ただ点々と外灯が並ぶ住宅街を並んで歩いた。孤独だとは感じなかったけれど、救われている感覚もなかった。僕らはただの、人間だったのだ。ただただ無力で、沙月さんにかける言葉ひとつ見つけることが出来ない。
「ずっと、夜が好きでした」
だから彼女が静かにそう言った時、やっと息が吸える心地がしたのだ。実際、呼吸なんてしないのだけれど。
「昼より夜が好きでした。人の多い大通りより路地裏が好きでした。騒がしいのが苦手っていうのもあるかもしれないけど……何より、私はいつも後暗かった」
「どうして?」
「愛されていないと思っていたから」
その言葉の重みを、知っている。
「誰かに愛されていないと生きていちゃいけないみたいな、そんな感じがしていたんです。愛されている人間しか陽のあたる場所を歩いちゃいけないとか、そんな風に。でも、それは勘違いだった」
愛されていない人間などいないと、そう言うのだと予想していた。
「愛されていない人間でも、生きることくらいは許されるんですよね。誰かが誰かを愛する、そのお零れみたいなものを拾って生かされてる。丁度、沢村さんが有理を愛するが故に私を助けてくれたみたいに。夜鳴さんが私の呼ぶ声を有理だと思って目を開いて、この関係が始まったみたいに」
それで生きてこれたのなら、出会えたのなら、悪いもんでもないなって。
彼女は笑って、見えない不幸を吐いた。
「普通に生きてこれた。日野やユキと出会って、そうして生きてこれたんです」
「うん……」
「なら、悪くなかったですよね?これはこれで、いい人生でしたよね?」
勿論だよ、と言いたかった。でも声は出なくて、仕方なく無言で頷く。確かに悪い人生ではなかったかもしれない。でも、幸せな人生だよなんて口が裂けても言えないのは、僕が、そのありきたりでそこそこ恵まれた沙月さんの人生を構成するひとりでもあるからだ。僕が彼女にとってそこそこ良いものとして認識されている事実は身に余る幸福だけど、その出会いは徹頭徹尾、有理に対する不動の愛に裏打ちされていたのだから。
後暗いのは、僕だ。
道の先は暗かった。延々と続いているように見える道を、僕らは行く。沙月さんを家まで送っていくつもりだ。
「でも、もうこの人生も終わりですね」
「……終わり?」
「はい、終わりです」
僕の終わりは僕が決める。
沙月さんの終わりは、死ぬ時に訪れる。
その言葉が蘇って、僕は思わず足を止めた。
夜鳴さん、どうしましたか?と彼女は笑う。これ以上誰かの命が失われるのは耐えられない。
「あはは、大丈夫ですよ、死んだりしません。でも、こんな人生は終わりです。そういう意味では、私はここで死んでしまうのかも」
そうだ。
そういうことなら、僕が彼女を殺すのだ。
「二人きりになったから、もう話してもいいよね。僕が今、一番君に言いたいこと」
僕は微笑む。微笑むことが出来る。体温がなくても、呼吸が必要なくても、泣くことと笑うことが出来るのだ。
「誰より君を、沙月さんを愛しているということ」
有理のことが好きだ。やっぱり忘れられない。
でも、今は沙月さんのことを大切にしたかった。だって、僕がかつて愛した彼女は既に死んでしまっているのだから。他の人を愛して、愛されて、それでも満たされずに死んでいった。もう誰も彼女を殺すことも、満たすことも出来やしない。死体である僕でさえ、だ。
僕は沙月さんを満たしたいと思う。
彼女のために何かをしてあげたいと思う。
彼女が幸せであればいいなと思う。
その強い幸せが、僕を理由にして生まれればいいなと思う。
満たされない人生を、終わらせてやりたいと思う。
僕の一番は、唯一は、目の前にいるこの子のために捧げたいと思うのだ。こんな死体を受け入れてくれたこの人に。
「誰がなんて言おうと、この事実は変わらない。確かに僕らが出会ったのは人為的なものだったかも知れない。僕が君を好きになることは、必然だったかも知れない。でも、全ての事実を知って尚こうして君を愛しているということは、どんな運命だって左右できないことだろう。少なくともそう信じている」
「そう……それなら、私の人生はここで終わり、ですね。お零れで生きながらえるのはここまでで、これからは、あなたに愛されて生きていく。そうでしょう?」
「そうだよ。君がどんなに辛くて悲しくても、僕は君だけを愛してる」
やっと告げることが出来た僕は、恐らくとても幸せなのだろう。
しかし、沙月さんはふっと顔を曇らせた。
「有理を探して、ずっと彷徨っていたんでしょう?どうするんですか?」
「彼女は見つけた。僕の、死体としての人生は終わりだ」
そう、手に入らないものを探して這いずり回るのは、もうやめよう。
「でも僕はね、このままではいけないと思うんだ。僕のこの身体は有理を探すために存在していたような気がする。何故って、僕は死体だから。死体は、生者とは違うんだ」
「違う……?」
「そうだよ。僕らは凝り固まった人間なんだ。ある一つのものに固執してやまない、罪深い人間だ。一方君は生きている。これから多くの出会いもあるだろう。愛する人が出来るかもしれない。なんてったって、未来があるんだ」
これから彼女は長い人生を生きていく。生者は生者と関わっていくのが正しい姿なのだ。僕を抱えて……死体を抱えて生きていくだなんて、土台無理な話なのだ。
「私は夜鳴さんが好きですよ。本当に、本当に好きなんです」
「かつて僕も生きていたから分かるよ。生きているってことは、移ろうことだ。変わることだ」
「あなたは……私がいつか別の人を好きになるって、そう言いたいんですか?」
「それだけではないよ。色んなことがあると、生きている人間は変わる。そういう、抽象的なことを言ってるんだ」
有理を泣かせることはとても辛かったけど、今は沙月さんに涙を流させることが何より辛い。その、僕がどんなものより欲しい温かい涙がアスファルトに落ちるのを、堪らなく哀しく思う。
「でもね、大丈夫だよ」
そう、大丈夫。
「僕は君の人生を邪魔したくない。だけど大丈夫。僕はどこにも行かないよ。君だけを愛して、君だけを待っていることにするんだ」
「どこにも行かないって……本当に?」
「どこにも行かないっていうのは少し的確じゃなかったかな。実は行きたいところがあるんだ。ここからそう離れていない……と言っても、車がないとちょっとキツい場所なんだけどね、そこなら君が思えばいつでも会えるし話だって出来るよ。勝手にいなくなったりしないから、そこで君の未来を祈っていたい。会いたい時においで。僕はいつでも、沙月さんだけを待ってる」
君は泣いた。
泣いて、泣いて。
「もう……それじゃあ、私に都合が良すぎますよ」
「そんなことは無いよ。君が僕を忘れてしまったっていい。他の誰かを愛していい。その代わり約束してね」
「君が終わる時、必ず僕のところに帰ってきて」