第二話
「殺してあげる」
僕はずっと死にたかった。
もう死んでいるのに死にたいだなんて、おかしいと思う。でも、やっぱり僕は死にたかった。終わりにしたかった。前へ進みたかった。
そう思っていたのに、僕はいつまで経っても有理を愛していて。
大好きで。
だから僕は、死ねなかった。
「こ、殺すって……そんな、一体……ミツギさん」
「気にならない?俺と君は、もう死んでる。2回目死ぬには、どうすればいいのかな」
強く、強く肩を掴まれている。僕は必死にミツギさんの目を見つめて、やめろ、と言った。やめろ、やめろ。
でも、瞳孔が開き切った瞳は何も反応してくれない。真っ黒なその向こうに吸い込まれてしまいそうだった。
一度死んだはずなのに、死んだ時のことは思い出せない。ただ苦しくて、悲しくて、虚しくて、恐ろしかった。死ぬことに慣れるわけがないのだ。だって、これでも僕は、僕を人間だと思ってる。
人間は、死に慣れることが出来ないんだ。
「一足先に、行っておいで。有理のところに、行っておいで」
沙月さん。
もう、音に耳を傾ける余裕もなかった。君が泣いているのかどうなのかすら分からなくて、耳鳴りのようなものが世界を満たしている。僕がここで死んでしまったら、沙月さんは一体どうなるのだろう。ミツギさんは彼女を、実の娘をどうするのだろう。
そんなことを考えながら、僕は、ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出す従兄弟を眺めていた。
死ぬのか。
死んでしまうのか。
いいや、死ねるのか。
この前沙月さんに見せたように、僕の目から涙が零れてほしいと願った。
その時だった。
「ただいまー」
その場に似合わない脳天気な声が、玄関の方から聞こえた。ミツギさんが口の端を持ち上げて笑う。
「おかえり、イオリ」
「ただいま」
かつこつ、とヒールの高い靴を脱ぎ捨てる音がして、すぐ、僕の後ろに彼女は姿を現した。イオリだった。すぐ後ろからのんびりと、いつものようにどこか一本調子な口調で、当然のように彼女はこの場に存在している。
まるで自分の家、みたいに。
いいや、ここは彼女の家なのだ。帰宅しただけ。同居人と客人がいただけなのだ。それでも、僕は一縷の望みをかけてイオリの帰宅を迎えた。
「お取り込み中のようですね、ゴトウ」
「まあね。そうだイオリ、手伝ってよ」
「いいでしょう」
それも、この一言で消えていく。
「イ、イオリ」
「どうしたの、夜鳴」
助けてくれないのか、と聞こうと思った。でも、出てきた言葉は違った。
「僕を助けてくれたのは、ミツギさんに言われたから?」
「そうだね」
「この街に有理に似た人がいるって教えてくれたのも?」
「そうだね」
なんて往生際の悪い質問だろう。でも、信じたくなかった。ただ一人この世界で隠れながら生きていくのは不安で、苦しくて、それでもここまでたどり着いたのはイオリのお陰だったからだ。
それが、こんな理由だったなんて。
こんなことに、なるなんて。
「もういいかい?私、待ちきれないんだよね」
イラついたように言い放たれたその言葉を聞いて、やっと僕の目から涙が出る零れた。
冷たい、冷たい涙が。
「そういうことで……」
ゆっくりと僕とミツギさんに、彼女は近付いてくる。いつも通りの無表情で。紅い眼鏡のレンズの奥に、微動だにしない瞳を宿して。
「やっと、ですね」
そして彼女は、後ろに回して隠していた右手の包丁を、素早く、ミツギさんの腹に突き立てた。
「……イオリ?」
ミツギさんは自分の腹に刺さる包丁のその柄を見つめて、心底不思議そうに首を傾けた。無意識のうちだろう、僕の肩を掴んでいた力が弱まる。
その隙を逃さず今度は大きく振りかぶって、彼女は左手に握っていたものをミツギさんの首に思い切り突き刺す。また、包丁だ。
そこでやっと、彼が大きな悲鳴を上げた。
「やっぱり痛覚は無いんですよね。なんで痛くないのに悲鳴を上げるんですか?」
腹と首に刃物が突き刺さった状態で、ミツギさんはがくがくと震えたかと思うと、フローリングに足を滑らせて尻餅をついた。
「流石、死体。流血は無し、と。ところでどうして震えているんですか?寒い……ってことは無いですよね。何か感じますか?もしかして僅かでも痛覚が残っているんですか?有り得ない話ではないですよ、触覚があるんですから」
必死に逃げようとする彼を追い詰めるように、イオリは矢継ぎ早に質問を投げつける。その姿の異様さに、僕は後ずさりをする事しか出来なかった。
「ああ、喉に刺しちゃったから喋れないんですね。これは失礼しました」
そう言って、ミツギさんに馬乗りになるような形で押さえつけると、何の躊躇もなく首の包丁を引き抜いた。
そして、引き抜いた包丁を舐めるように観察する。
「少量ですが体液が付着してます。やっぱり、血液は流れてなくても何かしらが、その身体を維持するために……あら、大変。気道に穴、空いちゃいました?」
私としたことが、と眼鏡の弦を押さえている。
なんだ?
なんなんだ、これは。
「やだ、女性が上に乗ってるのに暴れる馬鹿野郎がどこにいるんですか。いい大人なんだから空気読んでください」
そう言って、せっかく抜いたその包丁を、立ち上がろうと床をのたうち回るミツギさんの左手に突き刺した。
「ああああああああ!」
「五月蝿いですよ。夜なんですから、近所迷惑になるじゃないですか。恥ずかしいなぁ」
「き、君は、なぜ、」
「別にゴトウじゃなくても良かったんですけどね」
ふっと息を吐いて、イオリは僕を見た。間抜けな顔をして今にも腰を抜かしそうな僕を。
「私、ずっと解剖したかったのよ」
そう、言った。
解剖。
されてもおかしくない存在だということは分かっている。僕は、いや僕達は、この世の道理にそぐわない不条理な存在なのだから。解明されるべき存在なのだから。
ぶるぶると震えているミツギさんの上で、彼女はゆっくりと首を傾げる。
「でも、二体もいるならどちらかだけ解剖したいわよね。だって、切り開いたら流石にもう、動けなくなっちゃうでしょ、ずっとずっと悩んでいたの……ゴトウにするか、それとも夜鳴にするか」
「そ、その為に、近くにいたって、言う、のか」
「そうですよ、ゴトウ。あなたを崇拝していただなんて、神として見ていただなんてとんだ勘違いです。私にとってのゴトウは、単なる死体」
傲慢な死体だ、と。
腹に突き刺さった包丁を勢いよく引き抜きながら彼女は言う。
「サツキにも聞いたの。サツキは夜鳴を人間として見ていたから、もし意見を聞けば私も夜鳴を人間として見るようになるんじゃないかって。同時に、ゴトウの傍に群がって神だなんだと崇める連中にも近付いたわ。そうしたら、ゴトウが神に見えるかもってね。でも、ダメだった。夜鳴もゴトウも、ただの死体。過去に囚われて自己完結してしまった愚かな存在。だから、本当に悩んだのよ」
「なら……どうして、僕を助けたの」
「ゴトウが優勢だったから、夜鳴を解剖しようと思った。でもその時、あなた、泣いたじゃない。悲しくて虚しくて、怖くて泣いたじゃない。そうやって泣くのは人間だけ、でしょ?」
私、人間は好きよ。
そう言って、手にした包丁をミツギさんの鼻先に突きつける。
「私の知識欲の犠牲になって下さいね」
「いや、だ、イオリ、」
「つべこべ言わない。ほら、夜鳴もぼさっとしてないで、やることやれば」
イオリはやっぱり冷たい目で僕を見る。何度も彼女に救われた。そして、最期にこうして助けられるなんて僕はなんて幸せ者なのだろう。
震える足を叩く。これは驚いただけだ。僕は行かねばならない。
僕の友は、微笑む。
「お前の終わりを、私に見せてくれ、夜鳴。かつて人間で、今も、死んではいるが人間であるお前なりの終わりを、どうか見せて」
僕は頷いて、一歩、また一歩と踏み出した。ミツギさんのうめき声に耳を塞いで、イオリが刃物を肉に突き刺す光景から目を背けて。
ただ、君だけを見ている。
「沙月さん」
僕は感じている。きっと、僕が終わる時に呼ぶのは君の名前だと。
何故なら僕は、僕の終わりを自分で決めることが出来るからだ。君は死ぬ時に終わるしかないけれど、僕がいつ終わるかは僕が決める。
最期にその名を呼んで終わるのだ。
有理じゃない。
君の名前を。
「沙月さん」
椅子に座って背中を折って、頭を抱えるようにして震えている彼女の肩に触れる。僕のこの体温では、温めることなど出来ない。何も与えてあげられない。
それでも僕は呼びかけるし、君は応えてくれるのだ。
「沙月さん、ごめんね。混乱しているよね。怖いよね」
大丈夫だなんて言えない。それなのに、沙月さんは震えながらも顔を上げた。
「ここを出よう。2人きりで話がしたいんだ」
真っ赤な目はどこか焦点の合わないままに僕を見上げて、その一秒が永遠のように思えた。
「わかり……ました」
「ありがとう。立てる?」
彼女の肩を支えるようにしていたけれど、これだけの惨劇を前にして尚、沙月さんは自分の身体を自力で支えていた。僕なんて必要ないくらいに。
行こう。
そう声をかけて、今にも腹を切り開かれそうになっている死体から目を逸らしながら扉へ向かう。
「沙月……お父さん、を、たすけて。俺は、沙月の親なのに、愛して、いるのに」
死体は娘に手を伸ばす。無駄に動かないでくださいよう、とイオリが刃物を再び振り下ろす前に、僕の愛する人はそれを制した。
「ひとつ分かったんです」
強く言い放たれたその言葉が、解剖医の、死体の、僕の動きを止める。
「私の親は……有理と、沢村さんだってこと」
「でも、俺は、」
「血が繋がっていても、私、あなたからは何も受け取ってない。あなたは何一つくれなかった。有理と沢村さんは私に人生をくれたから、だからあの二人が親なんです」
沙月さんは俯いている。声は震えていない。冷たいくらいの穏やかさを感じたけれども、唯一僕だけが零れた涙を知っている。隣にたっていたからこそ知っている、恐らくそれは温かい、僕なんかよりずっと人間らしい涙だった。
涙を流すのは人間の証。
温かい涙は、生きている証。
「もう、終わり。あなたなんて知らない。愛しているなんて、その言葉は私じゃなくて有理に言ってください」
あの世で。
そう言って、彼女は僕より先にこの悪夢のような家を出た。不甲斐ない僕はその後を追う。
「精精良い終わりを、夜鳴。私はこれからお楽しみだから」
「うん……またね、イオリ」
「また会いましょう」
そんな会話を遺して。