第三話
真実は喉を絞める。
真実は死の味がする。
まず息が止まって、喉の奥が苦しくなって。
奥底で血の味がする。
僕は息なんて、出来もしないのに。
それなのに真実が。
とうに喪った、生きているって感覚を。
僕に。
僕は。
イオリに指定された場所はいわゆる、ごく普通の民家だった。何の変哲もない、目立つところなど何も無い風景の一部みたいな一軒家で、唯一、表札は取り外されていた。
僕はぼんやりと、ぴしゃりとカーテンまで締められた窓を見上げながら、ドアノブに手を伸ばしてやめた。ここに沙月さんがいる、とイオリは確かに言っていたし、この張り裂けそうな苦しさと心配に任せて乱暴に扉を開いてしまっても良かった。
でも、普通の家だった。
廃墟でも、なんでもない。なんなら生活感さえあって、カーテンの隙間から灯りが漏れている。
そんな民家を前にして、例え非常識な事態でも非常識に振る舞うことを躊躇ってしまったのだ。
チャイムを押す。
ぴんぽん、と、あじさい荘のチャイムよりいくらか安っぽさが拭われた音が響いた。
数秒の間が空いて、はい、とかそんな返事も無しに、扉は突然開かれる。
「どうぞ、入って」
僕は目を疑って、現実を疑って、結局、何も言えなかった。
「ミツギ……さん?」
「久しぶり、だね。入って、待ってた」
20年前のことが僕を飲み込む。
後藤ミツギ。
僕に、家を捨て戸籍を捨て、有理と共に全てを投げ出して新しい生活を始めようと提案してくれた人、その人だった。
かつて親を亡くした僕は幼い弟達と妹を抱えきれなくて、重圧が苦しくて、逃げ出してしまいたくて、そんな終わりの見えない地獄の入口にミツギさんはいた。
いらっしゃい、と。
従兄弟である後藤ミツギは僕を迎え入れた。
家を捨て、戸籍を捨て、死んだこととして消えてしまって、新しい、全く別の人間として生きる世界を提案されて、あの時の僕は縋るように盲信した。
これこそが、僕の生きる世界。
本当の世界だって。
苦しむばかりのいままでの現実を捨てて見たこともない世界に飛び込むことは、当時の追い詰められていた精神にあまりに甘美だったのだ。
唯一失いたくないと思っていた有理を連れて、僕は迷いなくミツギさんの後を追った。
結果、僕は死んでしまったけれど。
沓脱ぎにはいくつか靴が脱ぎ散らかされていて、女性物も男性物もあった。その中で唯一、きっちりと揃えて置いてあるものがあった。
沙月さんの靴だ。
僕はその隣に、ほんの数センチの隙間を空けて自分の靴を揃える。
「ミツギさん……」
「やっと、話ができるね、夜鳴藍人くん」
「……どうして」
「どうして?」
何がだい、とミツギさんは僕に背を向けたまま問う。
「どうして、今まで僕のことを追いかけてきたんですか。最初は嘘だと思った。まさかミツギさんじゃないだろうって、そう思った。だって、僕が死んでから何年かは音沙汰も無くて、きっとあなたはどこかで生きているんだろうって思っていたから」
僕のことなんて、忘れて。
失敗してしまった僕なんて忘れて。
「それなのにある時、僕を探し回っている男が現れた。僕は怖かった……死体だと知っている人間が彷徨いているなんて、怖くて、怖くて」
僕は逃げた。
どこまでも逃げて。
どこまでも、男は追いかけてきた。
「いつだっただろう、とうとうあなたを見かけた時は、どうすればいいか分からなくて。どうして今更あなたがいるんだろうって。ねえ、どうしてですか」
どうして、今更。
僕を探すの。
追いかけてくるの。
僕が有理を追い求めたように、あなたは僕を追い求めるの。
そう問うと、ミツギさんはゆっくりと僕に身体を向けて、口の端だけを少し持ち上げて笑った。
「分からない、かい?」
「え、?」
「見て分からない、かい?」
見て、分かる?その全ての理由が?
「リビング、行こう。沙月さんも、いるよ」
「さ、沙月さんが?」
「もちろん、だよ。イオリが、そう言っただろ」
一体イオリとどんな関係なんだ?
その質問を投げつける前に、ミツギさんはするりと僕に背を向けて近くの扉に手をかけた。20年前もどこか幽霊じみた空気があったけれど、何も変わっていないみたいだった。
「この、向こう」
そう言われて、僕は思わず頷いた。
20年の月日がまるで無かったかのように。
「沙月さん!!!」
くったりと項垂れてリビングの椅子に座っていたその背中を見つけて、僕は思わず叫んで駆け寄った。
その肩を掴みかけて、慌てて、力を緩めてそっと揺する。なんだか壊れてしまいそうで。
「沙月さん?……沙月さん!」
「……ん…さい」
「え、?」
「ごめ、ごめんなさい」
「何を言って」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
耳を澄ましていないと聞こえないような声で、小さく繰り返している。
髪に隠れてしまってその顔は見えない。思わず強く肩を掴み直すと、やっと顔を上げた。
目が合う。瞳は濡れていて、恐れるように、こちらを見上げる。
「沙月さん……?大丈夫なの?何か、されたの?」
「ごめんなさい」
「怪我はしてないの?どうしてミツギさんと君が一緒にいるの?」
「ごめんなさい」
「大丈夫ならいいんだよ、ミツギさんと何を話したのか教えて?僕も、言いたいことがあるんだ。言わなきゃいけないことがあるんだよ」
「ごめんなさい……」
「沙月さん、どうして、君が謝るんだ?」
彼女の見開かれた目に涙が溜まって、最後の問いと共に流れ落ちた。僕はその美しい水の膜を通して瞳に映る自分の姿を見ている。酷い顔だった。酷い、顔色だった。死んでから極力、鏡を含めて自分の顔を見ないようにしていたことを、今更のように思い出した。
「嘘をついていたんです」
僕は謝りたかったのに。誰より早く、君に。
「有理が死んでること、最初から知ってたんです。何となくしか知らないなんて、嘘をついてた」
君に謝らせる前に。
「知ってたのに……あなたを、引き留めたくて、ひとりになんかなりたくなくて、もう、誰でもいいから、何でもいいから傍にいて欲しくて、私、嘘をついたんです」
嗚咽が、君を不明瞭にしていく。
「知らないはず無いじゃない……私の、母親なんだから」
「知ってるよ」
君は決壊して吐き出しそうになった言葉を一気に失って僕の目を食い入るように見つめた。
「ごめん、さっき沢村さんから電話があって……全部聞いたんだ。有理と君の関係も、君と沢村さんの関係も、」
「やめて!」
そんなに大声ではなかったかもしれない。でも、その叫びの悲痛さに僕は言葉を切らずにいられなかった。
「言わないで……お願い」
「どうして。気になっていたんだろ?知らない方がいいなんて言いながら、なんで沢村さんが自分を助けてくれるか……」
「知りたいわけ無いじゃない!だって、だって知ってしまったら、私は、」
愛されているのは有理だって、分からなきゃいけないから。
私じゃないんだって。
「いつだって、嘘は、許されない」
一瞬が永遠に思えた。僕の脳は焼き切れたみたいに真っ白になって、何も考えられなくなって、そうして生まれた空白に響いたミツギさんの言葉が、驚くほど染み込む。
この場を支配する。
「嘘は、良くない。沙月は、嘘つきだ。だから、謝らなくちゃいけない、そうだろ」
俺はそう言っただけだよと、彼は言う。沙月さんは背中を丸めて泣いている。
「ミツギさん……やっぱりあなたが、有理の……」
「ダメだよ、そこは沙月さんのって、言わないと」
彼は微笑む。20年前みたいに。
あの時から時間が流れていないみたいに。
「沙月は僕の娘、だし、有理は僕の妻、だし。単なる、それだけのことだよ。君は、死んだから関係ない、だろうけど」
「そんな……あれだけ僕は有理を探したんだ!なのに見つからなかった。まさか、あなたが隠していたんじゃ、」
「人聞きの悪いこと、言うなよ。そんなの、今となっては、真実なんて分かるものか」
そうだろう?
ミツギさんはゆっくりと沙月さんに近づいて、その背をさすった。止めたいけど止められなかった。まるで、父親が娘を慰めているようで。
沙月さんは震えるように嗚咽を激しくする。
どうしてそんなに泣いているの?
何がそんなに悲しいの?
そう一瞬でも思いかけた自分が嫌いだ。
「夜鳴藍人くん、君も、沙月に、ごめんなさいをするんだ」
「それは……あなたなんかに言われなくてもします」
目を閉じて、息を吸った。なんだかもうずっと呼吸なんかしていなかったから、吸い込んだ空気が肺を締め付けて気持ちが悪い。
「沙月、ごめん。君のお母さんを、有理を苦しめたのは僕だったんだ。僕のせいで、結果的に彼女は自殺してしまったと言っても過言じゃない。長く君を苦しめた。僕が、元凶なんだ」
ごめん、と繰り返した。
ごめん、本当に、ごめん。
許してなんて言わないけど、僕はようやく自分の罪に向き合った気がするんだ。許されないことをしたって、君の涙を見て思えたんだ。
「ダメだよ、そうじゃ、ないだろう?」
「え、?」
ずっと謝りたかったことをようやく口に出来たのに、ミツギさんは微笑んだまま咎める。
何故?
「ちゃんと、ごめんなさい、しなさい。愛していたのは有理で、沙月じゃなかったって、嘘ついてごめんなさい、しなさい」