第三話
私がいるのは決して小さな公園ではない。イチョウが並ぶ大きな道もあれば噴水を中心にした広場もあり、昼間はそこそこの人で賑わう。昼食をとったりランニングをしたりと、色んな人がいろんな思いで過ごす場所だ。
だとしても、死のうとする人が過ごすここが同じ公園だと言えるのだろうか。座標は同じだ。間違いなくここは公園だ。
でも、私にとって公園は自殺するための場所ではない。
「死のうとしていた……?それってどういうことですか」
「それはこれから話すよ。言ったろ、突拍子もないことを話すからって。とりあえず最後まで聞いてくれないか」
ベンチに向かって語りかけていた彼は、ちょっと後ろを向いて私を横目に捉える。どこか焦点が合わないように思えた瞳は、相変わらずくすんだままこちらを見つめている。
口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「僕はこのベンチの下で死んでしまおうと思っていた。蹲って、じっと動かずにね……朝になれば嫌でも誰かが僕を見つけて、救急車なり警察を呼ぶだろう。その流れに流されるまま死のうと思っていた。でも、案外上手くいかないものだね……死のうと思えばいつだって死ねると、こんな簡単なことはないと思っていたのに、いざ本気でやろうとしたら失敗した」
ひょいと肩をすくめるその仕草が、妙に人間くさく思えた。あまりにも顔色が悪いからかもしれないけれど、普通の人らしい行動に違和感を感じる。
「君は僕を見てもパニックには陥らなかったし、声をかけた。いいや、もしかしたらその場合も有り得るとは想定していたよ。でも、よりによって発見者は君だった」
「私が、何かしました、?」
「君はごく普通に振舞っていたと思うよ。でも声が……声があまりにもあの子に似ていたものだから」
つい反応してしまった。
彼はそう言って笑った。何だか今にも泣きそうな顔で。
「起きろって言われたら起きなきゃなって、そう思ってしまったんだ。失敗だった。一度動いたのを見られてしまえば終わりだ」
「言ってること、全然わかんないです」
無意識のうちに右足を引いて、私は逃げる態勢に入っていた。
だって、本当に意味が分からない。
死ぬって言ったって、ベンチの下で寝てたくらいで死ねるなら誰も苦労しないじゃないか。この人の話は明らかにおかしい。どうやって死のうとしたのかが語られていない。
朝になって誰かが彼を見つけたって、病院に搬送される途中で生きているとバレてしまうだろう。そりゃあ顔色は殆ど死体レベルで悪いけれど……そんなもんで騙せるわけがない。
もしかしてこの人、頭、おかしい?
だとしたらマズい。人のいない深夜の公園で頭がおかしい人と二人きり。犯罪の気配しかしない。
でも、逃げるわけにはいかなかった。
「どうやって死のうとしたんですか、ここで」
最後まで話を聞くことに承諾したんだから。戯言だろうと、逃げるなら聞いてからでもいい。
私の問いにほんの少しだけ目を見開いて、彼は笑った。
「その答えはもう、知っているんじゃないかな」
彼が身体ごとこちらを向いて、ゆっくりと私の手を掴んだ。何かを考える前に鳥肌が立った。冷たいなんて、温度があるような言葉では言い表せない。単に冷えているとかそんなんじゃなくて、それは手の形をしているけれど、彼の意思で動くけれど、同じ形と役割を担った別物のように感じた。
「や、やっぱ病院」
「病院は必要ないんだ」
彼は自分の右手首を差し出し、動脈の辺りに私の指を押しつけた。強すぎず弱すぎず、丁度脈を感じられる程度で。
なのに、脈がない。
焦って、気持ち悪さを忘れて自分で押さえ直すけれど、どんなに確認しても駄目だった。待っても待っても脈打つことはなかった。
「なん……なんで、何が」
「心臓の方も確認しておく?」
手を離し、腕を迎え入れるように広げておどけて笑う。声を出す余裕もなくて、ただ首を振って断ることしか出来なかった。
何なのだろう。
これは、何なんだ?
どうして脈がない?
脈がないってことは心臓が動いていないってことで、それって生きていないってことで。
でもこの人は動いている。笑う。話す。それは生きてる人にしか出来ないことで。
「ふ……」
「ふ?」
「不整脈?」
「ぶっ……」
彼は吹き出して笑った。顔色が悪いだけで元気そうである。
「じゃあもう一度確かめる?僕は何時間だって構わないけど、脈打つことはないと思うよ、きっとね」
「じゃあ、手品かなにか?」
「君に対して手品をする意味が分からないし、仕掛けがあるように見える?」
頭をよぎったのは、昔読んだ小説にあった、脇の下にボールのようなものをうまく挟む原始的な手品だった。もちろんそんなものはないし、何か他の仕掛けがあるようにも見えないのだけれど。
彼はにこにこ笑っている。
「……もう降参、分かんないです。一体どういうことですか」
「脈がない、体温もない。簡単だよ、僕は死んでる」
「はあ」
「信じてないだろうなあ」
答える代わりにちょっと肩をすくめた。正直信じてなんかいないけれど、最後まで話を聞くとは言ったのだ。
続けてくださいと先を促す。
「まあ、いいよ。どんなに下手な医者だって僕を死体と言うだろうし、僕自身もそう思ってる。君が信じようと信じまいと現実は変わらないからね……どうして動けるのかも分からない、動けたから動いているというただそれだけの理由しか、生憎持ち合わせていない」
「だって、こんな突拍子もないことを信じろだなんて――からかってんですか?」
「いいや。もう一度確かめる?」
「それは……」
必要ない。
そんなことは分かっている。どうして体温が、脈がないのか、その理由を見抜けない限り信じるしか道はないのだ。分かってはいるけど、どうしてそう容易く受け入れられるだろう。
死んでいるけど動ける?
血が身体を巡っていないのに動けるだなんて、電気もないのに稼働する機械と同じ。気味が悪いし有り得ない。
「そう簡単に信じてくれるなんて思ってないよ。ただ僕は、君にとって重大な事実を伝えたいだけ」
彼は少し決まり悪そうに目を逸らした。
「僕が黙って蹲って動かなかったら、本当にただの死体だ。誰かが僕を見つけても死体として処理をするんだろう。君がどう思うかに関係なく、そう、公園で不審死していた人間としてね。ところで君は僕と随分長く話しているけれど、話せば話すほど目撃者も増えるよね」
今度は私が青ざめる番だった。
「だ……駄目駄目駄目、死なれたら困る!」
「いや、もう死んでるんだけど」
呑気な反論に付き合ってる余裕はない。
大変だ。
「私、私殺してない……!」
「知ってるよ。というか、声が大きい」
「うう」
困ったように笑いながら、彼はちいさなため息をこぼした。
「悪いのは僕だ。つい動いてしまって、話までした。ここから遠いところで死ぬしかないし、もちろんその点において君に迷惑をかけるつもりもないけれど――だから言ったのにな、放っておいてくれって」
こんなに重要な意味のある言葉だなんて気付くわけ無いじゃないか!病人だと思ったんだから。
「ごめんね」
彼は泣きそうな顔で謝った。
頭1つ分くらい高い位置にある彼の顔。長めの髪が僅かに瞳を隠している。よく見ると瞬きの回数が異常に少なかった。呼吸もしていないのだろうか、胸や肩が一切上下していない。
でもその目は、確かに「ごめんなさい」と言っていて、心の底から申し訳なさそうに私を見ているのだ……巻き込んでしまった、僕のせいでと。
どうしよう?
私はどうすればいい?
そもそも、本当にこの人のせい?
違う。彼はただ眠ろうとしていたのに、私が声なんかかけたせいだ。酔っ払いが不用意なことをしただけ。彼はつい動いてしまっただけ。私が絡んだだけ。
そして、しまいにはこう言った――私殺してない。
これって、なんて考えなしな言葉。
彼の言うことを信じ始めていると気付いていた。自分が殺人犯になるかもしれないという焦りから始まって、罪悪感で固められた。でもそんなことよりも、彼の顔色が、拍動が、体温が、私が確認した全てのことが告げている事実から目を背けることをやめただけなのかもしれない。
言っていることは突拍子のないことでも、目を見れば感じてしまう。嘘を言っているようにはとてもじゃないけど見えないのだから。
「――ねえ、いつ死んだんですか」
私の問いに、彼はちょっと目を見開いた。そして静かに微笑む。
「20年前、いや、もうそれ以上経ったのかな。時間なんて正確にはわからないくらい」
信じられないだろと笑う。
そりゃそうだよ、こんな話。でも、いい。
私は酔ってる。
酔っているんだから。
「どうしてずっと生きてたんですか。そんなに長く……死んでるのに」
「人を探してるんだ。昔の友人をね」
「見つからないから20年も?」
「うん。でももう無理だと思って眠ろうとしていた。なかなかしぶといだろ、20年だぞ」
「そのお友達、女の人?」
「ああ」
「ロマンチックですねえ」
「ホラーだろ……」
昔の友達が死んでも20年ずっと探し続けてるんだからと、自嘲的に笑う。奇妙な会話だった。舞台を眺めているようだった。でも、私もそこに立っていた。
「私、手伝いましょうか」
「――は、?」
思わず気の抜けた声で呆れられた。
「訳分かんないことを言い出すね、君も……」
「だって面白そうじゃないですか、死体が友達を探して彷徨ってる」
「人の壮絶な人生を面白そうで片付けるな」
んふふ、と楽しそうに笑ってみせた。
私殺してないだなんて言ってしまった事実を上書きするために、罪悪感を消し去ってしまうために言ったことでも、それを悟られてしまわないように。そしてもっと根底にある感情……独りが寂しいというわがままを埋めようとしているだなんて、悟られないように。
さっきまでは病人に甘えていたはずなのに、いつしか死体に入れ替わっていた。私の節操なしにも流石に呆れる。
それでも一人でいるよりかは、脈がないだなんて、体温がないだなんて、全て些事だから。
「いやあ、ロマンチックですねえ……」
「どこがだよ、ホラーだろ……面白がるなってば」
「愛ですかね」
「憎しみかもしれないぞ?」
「愛憎劇……」
「やめろ」
酔っ払いって怖い、なんて呟く彼の声を無視して、私はにっこりと笑ってあげることにした。
独りは寂しいから、せめて少しだけでも話をしよう。
「私、後藤沙月っていいます」
ゴトウ、と彼が呟く。少しおぼつかない発音だった。それに、もう何年も声を発していなかった人が口にしたかのような、頼りなくて震えた、ひび割れた声。
後藤、沙月。
彼は私を呼んで、寂しそうに笑う。
「僕は夜鳴藍人っていいます。よろしく、沙月さん」