第二話
じーっと。
じぃぃぃっと、私を見ている、目。
「あの、イオリさん?」
「なに?」
目を逸らしたくても逸らせないような重圧を持って、真向かいに座った彼女は頼んだコーヒーに口もつけず、ただ私を見つめていた。
いや、これは観察なのかもしれない。
「私、何を話したらいいんでしょうか」
「夜鳴のことなら何でも聞きたいよ」
「ええーっと……」
夜鳴さんのこと。
山ほどある。話したいこと、聞きたいこと。でも、それらは出口を見つけられず、形になれず渦巻いているだけだ。きっかけが見つからない。掴み所がない。
「夜鳴さんとは、まだほんの少ししか一緒にいませんから……だから、あんまり私に話せることはないですよ。話せるだなんて思ってもいないですし」
出会ったあの夜からまだ数日だ。まだ、沢村さんからの電話はかかってきていないけれど、それももう時間の問題となっている。今私は幸せだけど、これは盲目になれるような幸せではない。夢を見させてくれるような種類のそれではない。
「夜鳴さんは、臆病で優しいです。だから、ふっと掻き消えてしまいそうでいつも不安なんです。それくらい」
「そう」
イオリさんはやっと、コーヒーに手を伸ばした。
「確かに夜鳴は昔から臆病だ。臆病者だ。優しさは、残念ながら向けられたことないけれど」
「そうなんですか?」
彼なら誰にでも優しそうだけれど。
「優しいのと臆病なのはよく似てるよ、サツキ」
一見同じだ。
そう言ってから、また、イオリさんは微笑むような表情を見せる。
「いいや、根元は同じなのかもしれない。でも、その二つは明らかに違うものだ。サツキ、私には分かるよ。よく見れば誰にだって分かる。それが臆病ゆえの行動なのか、優しさゆえの行動なのか」
「私は……確かに、彼は臆病だと知ってますけど、同時に優しいことも知ってます」
「私は夜鳴の優しさなんて知らないよ。そんなもの、向けられたこともない。私にとっての彼は、ただの臆病な死体だ」
臆病な死体。
そう断定するような言い方に、私は少し壁を感じる。
「昔から夜鳴はそうだった。いや、昔はもっと臆病だった。私が夜鳴と出会ったのはアリ、とかいう人を失った後だったけれど、当時の彼は誰のことも信じてはいなかったし、何より自分を許してしまっていた」
「有理を失って……それで、自分を許せるのはいいことなんじゃないんですか?」
「人間、何もかも自分のことを許してしまったら終わりだと思っているよ。そんなわけないのに、それでも許してしまうのは逃げているんだ、サツキ」
臆病なんだ。
それは少し、厳しいような気がするのだけれど、それはもしかしたら私が甘いのかもしれない。夜鳴さんの話だからかもしれない。
私は夜鳴さんを語るには適していない人間だ。
「サツキ、私は夜鳴のことをとても偏った目で見ている」
「偏った……偏見ってことですか?」
「そうとも言える。私は私に向けてくる夜鳴の姿がすべてだと思い込んでいる普通の人間だから、別の彼の姿が知りたいんだ」
「どうしてですか」
私だって、自分に見せてくれる夜鳴さんの姿しか見ていない。私やイオリさんに限った話じゃなくて、もっと大きく言えば人間みんなそうだ。目の前にいる人がどんな顔を持っているのか、全て知ることなんて不可能に近くて、その上である意味どこかで盲目になりながら付き合っていく。
勿論、少し違う視点から見てみようとすることは無駄じゃない。けれどそう思い至るには、何らかの理由がある場合が多いと思う。
「私はね、夜鳴を人だと思っていないんだ」
手の中でコーヒーが熱を失っていく。まだ温かい、まだ温かいと留めるように、私はカップを手で包み込んだ。
「死体と生きている人は違うと思ってる。でも、サツキは夜鳴を人だと思っている」
知りたいんだ。
イオリさんはそう繰り返した。
「夜鳴が本当のところ、私にとって人なのか知りたい。話を聞いてもなお死体のままなのか知りたい。私があれを人と思えるのか、知りたい」
微 笑んだイオリさんの、その完璧な人間らしい温かみのある表情を前にして、私はふと、見たこともないはずのそれに懐かしさを見出していた。
どこかで見たような。そんなはずはないのに。
「お話、しましょうか。悩み相談みたいになっちゃいそうですけど」
「私はまさにそういうのが知りたいんだ、サツキ」
「何を考えてるのかわからないんですよ」
「私を見ていながら、どこかずっと、遠くばかり見てるんです。私はそれが哀しくて」
「問いかけても、尋常じゃない目をして、それでも何でもないって言うんです。嘘をついているのが分かるけど、それに踏み込めるわけがない」
どうして?とイオリさんが訊く。
「大切だからです」
「私にとって夜鳴さんが、何より大切だからです」
「彼を失うくらいなら、何も知らなくていいと思うくらい。でも知りたい。つらくなるんです、いつも」
話して欲しいと思う。どんなにつまらないことだっていい。どんなに、重いことだっていい。それがどんなものであれ、私は知りたかった。
でも、それで彼を失うのが怖くて、口を噤んでなにも聞かない。
それが、どれだけ私の腹の底に暗い影を生むことか。
「夜鳴は昔から多くを語らなかったよ」
「そうなんですか?」
「いつも自分の中で完結しようとしていた。昔、どうして誰にもなにも話さないのか聞いたことがある」
あれのことを死体としか見ていないくせに私も大概だな、と彼女は寂しそうに笑った。
「話すべきことは話している、と言われたよ」
話さなくていいことは話さない。
その自己中心的な考えに溺れている。
「自己中心的だ、と私は言った。悪い癖なんだ。思ったことをその場で言ってしまうのが、私の長年の悪い癖。夜鳴は笑った。多分傷ついたんだろう」
「それで、彼はなんと?」
「僕が言わなくていいことだと判断したことを知らないままで、それで何か悪いことでもあるの?って」
あれが人間だとしたら大したやつだよと、イオリさんは皮肉っぽく言った。
私とイオリさんは真正面から見つめ合う。お互い少しずつズレたことを語り合いながら、どこか意識しないところでお互いの言いたいことを知る。
「死体が歩く、とは、話すとは、笑うとは、なんとも不思議な現象だね、サツキ」
夜鳴さんが歩んできた、死体として歩んできた20年を思う。20年より前、まだ彼が生きていた時のことを思う。
「私は夜鳴のことを支援しながら、かの死体のことを研究してきた。あれが何をエネルギー源にして稼働しているのかが分からない。水と油を摂取するだけで、もう20年もの間、劣化せずに動いている。多くの不思議を解明することが出来ずに夜鳴は2回目の死を迎えようとしていた。結局サツキのおかげでまだ動いているわけだけれども、おそらくこれからも分からないと思うよ。ずっと、このままではね」
それでもひとつ予想しているんだ、とイオリさんは言う。
「言わなくていいことだと判断したことを知らないままで、それで何か悪いことでもあるの、と夜鳴は言った。とんでもない話だ。とんでもない、独りよがりな話だよ」
「ええ……そうですね」
「そんなふうな身勝手、死んでいるのと同じだわ」
だからあれは死体なんだわ。
その言葉が私を貫く。深く、深く。
夜鳴さんを愛していることは間違いだと言われているようで、どこかで納得している私はより傷つく。
それでもやめようとは思わない馬鹿な人間を目の前にして、イオリさんはどう思っているのだろう。
「分かっている?サツキ、あれはそういう考えを持っているものだ」
「もちろん。それで苦しんでいるんですし」
「夜鳴の自業自得で、あれはああなったと私は勝手に思っている。これからも変わらないよ。何より変わろうとしないだろう。夜鳴は過去を見つめながら、もう20年に渡って現実を見ずに、何も見ずに、愛してくれる人を愛さず、過去に愛した人を探し続けたのだ」
はっとしてイオリさんを見つめた。
「あの臆病者は変化を恐れ、現実を恐れ、自分の犯した罪を恐れては殻に籠り、自分の今を受け入れている顔をして何も受け入れちゃいなかった。まだ動いているくせに、未来を考えようともしなかった」
時間が止まってしまったかのような、存在。
「いいかいサツキ、凝り固まった独善的な心があれを死体にさせたのだと考えてみれば、分かるだろう。あれはサツキを見てないよ。あれは、アリを見ているよ」
今でも、ずっと。
「そうとは、限らないですよ」
私は微笑むことが出来ているだろうか。
「それならいつか、夜鳴さんは、死体じゃなくなるかも知れないじゃないですか。いつか、過去を清算して」
「サツキ、それではサツキがもたないだろう」
「いいえ。私はイオリさんがどういう人かやっぱり分からないですし、イオリさんと夜鳴さんの関係も分かりません。でも、ひとつだけ言えるんです」
夜鳴さん自身も言っていた。彼が死体である以上、私たちの関係に未来なんてものはないと。
分かっても、まだ信じてる。
「独りよがりな死体に付き合えるのは、私くらいだって」
サツキ。
イオリさんは初めて、泣きそうな顔をした。
「君たちに未来が、あるといいな」