第一話
拝啓、私へ
今でもまだ、追い求めているでしょ。
「沙月さん、うろちょろしないで」
一人暮らしを続けてきた私が住む部屋のキッチンは、2人が並んで立つには少し狭かった。結果、私は座って待機することを命じられ……たのだが。
待機、出来ない。
いや、そもそもなんで、好きな人が自分のために料理をしているのにゆっくり休んでいられるんだ?普通、いてもたってもいられないものなんじゃないのか?
で、立ち上がってそろりそろりとその背中に近付き、何をしてるのかなーと心の中で呟きつつ手元を覗き込み、
「だから、座って待ってなよ」
怒られる。
そんなことを言われましても。
「なに、僕の料理が心配なの」
「そんなわけないじゃないですか、夜鳴さんの料理が美味しいのはもう分かってます」
「じゃあなんで」
「いやー、なんか手伝おうかなぁって」
「いいから、座ってて。テレビでも観て、待ってて」
分かってる、これじゃ単に邪魔してるだけだ。
でも、無理。
何度追い払われても諦めずにふらふら近付いてくる私を見かねたのか、夜鳴さんはため息をひとつついて、刻んでいた人参を脇に避けて玉ねぎを取り出した。
臆することなくまな板の上の玉ねぎに向かい合い、トントントンとリズミカルにみじん切りにし始める。
「うぎゃあっ」
「どうだ、参ったか。大人しく座っててね」
そっか、死んでるから硫化アリル攻撃が効かないんだ。
自分は食べられないくせに料理をして、貴方は笑っている。それが本当のところどんな気分なのかは分からない。多分一生それを知ることはないのだろう。そんな穏やかな贈り物を受け取る資格が、私というどうしようもない人間にあるのだろうか。
教えて欲しいと、そう思う。
何度でも、何度でも。
お互い大切なものを見失わないように。本当に心から大切なものなら口に出さなくても伝わるし廃れないなんて、そんなのは夢物語だ。どんなに思っていたって色褪せるものは色褪せるし、だから、何度でも塗り直すことを躊躇ってはいけない。
怠ってはいけない。
「沙月さん、ひとつだけ分かっておいて」
逃げるのは狡いと思う。狡いのが人間で、逃げるのが人間だ。
でも、逃げないように自分を律する人が、私は好きだ。何より人間らしくて。
「僕は君が好きだということ」
目を逸らしたい気持ちを律して、夜鳴さんは真っ直ぐに私の目を見る。
「こんな僕だけど。未来もない人間、だけど。本当は良くないんだ、僕と一緒にいると君の人生まで潰してしまうって理解してる。そんなことしたくないのに、分かってるのに、離れて欲しくないって思う。僕はとんでもない人間だ」
こんなの酷いワガママだ。
そう。
「そうですね」
その通りだ。
貴方は私の言葉に、動じない振りをしている。落ち着いているふうに装って、表情を変えないように気をつけて。
でもその瞳の奥で怖がっている。確かにどうしようもない怖がりだ。勇気があるようでないし、落ち着いているようで、そんなふうに繕っているだけ。
逃げたい。
変わりたくない。
そんな甘え。
その昔、今は隠せているその甘えで誰か傷つけ、誰かを失ったのだろう。もしかしたらそれは有理であるかもしれない。私を見る彼の目が少なからず何かと重ねて見るような色をしていることを、私は知っている。
有理。
あなたはこの人を許しているでしょう?
そもそも呪ってなんていないでしょう?
今なら分かる。どこまでもついて行ってやがて消えた彼女が、一体どんな気持ちだったのか。
「確かに貴方は甘ったれで、どうしようもないかも知れない。勿論私も人のことは言えないけど」
でも。
「そんな甘えた人間に付き合えるのは、私くらいですから」
その日私は、ひとりで外に出た。
日差しは柔らかい。ぼんやりと、部屋に残してきた夜鳴さんを想う。何をしているだろう。何もしてないのかな。どんな事を考えているのか、知りたい。
でも知ることが出来ない人間という生き物が、美しいと思う。
買い物に行こうと歩く道が、いつもと違う違って見える。ひとりで歩いている点は同じくせに、一丁前に。
何人かの人とすれ違って、何台かの自転車とすれ違って、またひとり、女性とすれ違おうとした時だった。
「あら、久しぶりだね、サツキ」
人の名前を口にする時だけ不自然に、どこか言いにくそうにする独特の話し方。背は高くて上下黒の服、赤い縁の眼鏡。
「ええと……」
「イオリ。私、イオリ」
「そう、イオリさん、お久しぶりです」
「久しぶりだねサツキ」
口角が僅かに持ち上げられた。笑っているのかもしれない。
「なんだか顔つきが変わっているね、サツキ。何かあったの」
「え、そうですか」
「うん、なんだか深刻になっているよ」
何が深刻なのかは聞かないでおきたい。答えに困ってイオリさんの顔をじっと見つめていると、彼女達も1ミリも視線を逸らさずに「いい天気だね」と言った。
確かに雲は晴れていい天気、だけど。
「夜鳴はどう、元気かしら」
その人の名前に、私はどうしてだろう、僅かに動揺するのを隠せない。でも、極力表に出さないような気をつけて、慎重に頷いた。
「はい、いつも通りです」
「そう。まあ、夜鳴に変化があったら腐り始めてる合図だものね、良かった」
そういえば服屋でこの人に声をかけられた時、夜鳴さんのことを死体だと言った。本人以外の人の口から直接、はっきりと死体という表現を聞いたのはイオリさんが初めてだった気がする。ドア越しに語りかけてきたあの得体の知れない男は勿論ノーカンだ。
「本当に死体……だったんですね」
「信じたんだ、サツキ、偉いね」
「偉い……ですか?」
「真実を真実として認識できるのは、偉いよ」
サツキは偉いね、と繰り返す。
偉いだなんて、そんな褒め方はされたことない。
私は元々いい子ではないのだから。かと言って、親のいない私は昔からいい子でも悪い子でもない、ただの子供だった。やがて成長して自分を客観的に判断できるようになってからは、やっと悪い子だと見解を下した。それも、自分が自分にだ。
他人からそういった評価を受けることはなかったから。
だから、なんだか胸の奥が痛い。
「サツキ」
呼ばれて、私は改めてイオリさんを見た。
あまり表情に変化のない彼女のその瞳が、なんだかいたずらっぽく光っている。
「夜鳴とは長い付き合いなんだけど、まだまだよく分からない男だ。ちょっと、やつについて話を聞きたい」
「え、いや、私そんな知らないですよ」
「サツキ」
見透かしたように。
「それでも構わないよ、立ち話もなんだしどこかに座ろう」
「それはまあ、いいですけど……」
「ほら、私も一応人生の先輩だから。なんでも話してご覧。カフェ、この近くにあったよね」
そう言って彼女は颯爽と歩き出す。ぴんと伸びた背筋が美しいと思った。どこか晴れやかで。
でも。
「サツキさん、方向、逆です」
「おっと失礼」