第二話
大して大きくない駅に、そこそこの人通り。
ほんの少しだけ俯きながら、夜鳴さんは私より僅かに前を歩きながら進む。
「大丈夫?」
「はい、私は大丈夫」
確かに人混みは好きではないけれど、あなたと一緒なら悪くない。そんな私だから自分のことを気にした方がいいのに、それなのに夜鳴さんは大丈夫かと問う。
そんな小さな優しさが身に染みる。
もし日野なら?
いつもちょっぴり顔をしかめたような表情で、彼は私の顔を何度も見た。人混みの中で、人気のない公園の隅で。そうして「疲れたな」と一言。少し休もうと言うのだ。日野がそういう時は大抵私が疲れている時で、救われているっちゃあ救われているのだけれど。
「駅の周りは、結構賑わっているじゃないか」
夜鳴さんの言う通り、駅の外に出た瞬間、背の高いビルが私たちをぐるりと取り囲んで見下ろす。確かにここだけ切り取るとそうだけど。
「ちょっと離れると住宅街なんですよ。主に賑わってるのは私が住んでる街ですから」
「へぇ、住宅街か……なんか面白いものあるといいね、公園とかありそう」
楽しみだね、と。
微笑むあなたがいるだけで、私は。
結構色んな店があるじゃんと見上げながら私たちは駅から離れていった。そんなに目新しいものもなかったけれど、それに、私なんかよりずっと夜鳴さんの方が色んなものを見てきたはずなのだけれど、彼は目を輝かせながらゆっくりと歩いた。何度も何度も、そうですね、と返事をする。
「こういうのって楽しいよ」
何を見ても楽しいよと、だからやめられないよねと言う。何をやめられないのかは聞かないかった。
それはきっと、生きること。
死んでいるのに生きること。
私と歩いている時にやめられないと感じてもらえるのなら、どこだって、あなたが知っているところ、知らないところの全てを一緒に歩いてみせるのに。
「お、いよいよ住宅街に突入だ。のんびり行こうね、沙月さん」
「はい」
曇り空はまだ泣き出さない。もう少し頑張ってと小さく呟く。あと少し頑張ったら、もう泣いていいよ。
私もそうだけれど、夜鳴さんも植物に詳しくはなかった。
「これで僕が博識だったら格好ついたんだろうけどなぁ」
立ち並ぶ一軒家を取り囲む塀の上から零れてくる色々な植物の花を、葉を見上げて、照れたように笑う。
「私も全然詳しくないんですよね……これでさらっと植物の名前でも答えられたら、ちょっとは落ち着いた女性に見えません?」
「落ち着いた女性、ね」
「何笑ってんですか」
「いや、なーんにも」
言いたいことはよく分かるから言わないでよろしい。
「でも、僕の方がずっと長く人間やってるのにな」
長く生きてるのにな、と言わないところに慎重さを感じるのは私の考えすぎだろうか?
「教えられたら、かっこよかったかな」
別にそうじゃなくても充分かっこいいですが。
……でも。
私は上を見上げて、どこかで必ず見たはずの、名前も知らない植物を見つめる。その葉の裏側、特徴的な花の形を見つめても名前なんて欠片も思い浮かばない。誰かがどこかで言っていたっておかしくないはずなのに。
「知らないのも、なんだかいいですね」
「……そう?名前がわかるとすっきりしない?」
「そりゃすっきりしますけど、知らない方が、なんていうか、夢があるじゃないですか。うまく言えないけど限定されてないっていうか。これはどこどこ原産のなんていう花だよって言われたら、ああそうなんだって知識としては覚えますけど」
これは名前のない花。
あなたと見たというだけの、花。
それでもいいじゃないかと、思ってしまう。知りたくないとさえ。
なんとも的を射ない不明瞭な説明だったけど、夜鳴さんはじっと私の瞳をのぞき込んだ後、ふっと笑った。
「分かるよ」
そしてまた花を見上げてもう一度、分かるよ、と言う。
その一言だけでいいのだ。
「そろそろお昼時だから、どこかお店に入ろうか。駅に戻ってもいいけど……ほら、向こうに店があるみたい」
「でも夜鳴さん、何も食べないですよね」
「僕はいいんだってば。行こう」
住宅街のど真ん中にひっそりと佇むイタリアンのお店だった。中には、ここら辺に住んでいる人だろうか、お客さんがちらほら見える。
「これも探検、探検」
私より楽しそうに、夜鳴さんは店へと向かう。
結果、あなたはなにも頼まずに水を美味しそうに飲んだし、料理はとても美味しかったのだけれど。
何もしない時間を共有出来る人間は、多分、そんなにいない。
日野はどうだっただろう。あいつはとても優しい人間だと思ったし好きだったけれど、いつも私たちは世の中の理不尽とか、あるいは自分に降り掛かったありふれた不幸を語っていて、沈黙している時間は少なかった気がする。それはそれで楽しくて、なんだか世界が開けたような気分になっていたのだけれど。
私は話をするのが好きだ。
でも、苦手だ。
そんなありふれた人間だから。
「あ、見てよ沙月さん、公園だ」
しかも少し大きいよ、とはしゃいだように夜鳴さんは言った。見れば、背の高い木々が葉を茂らせているし、いくつかベンチと、小さいながらも噴水のようなものが見えた。
「結構綺麗じゃないか。少し休もう」
「本当だ、明るい感じですね」
人の姿はない。遊んでいる子供も犬を散歩させている人もいない、静かな公園だった。
そこに足を踏み入れた時、夜鳴さんの冷たい手が私の右手に触れた。
底なしの冷たさに内心驚いたけれど、最初に彼に触れた時のように、手を引いたりはしなかった。
あなたがゆるく、本当にゆるく指を絡める。冷気と手を繋いでいるようだと思った。本当はちょっと、偶然手が触れてしまっただけなんじゃないかとか、その偶然が連続しているだけなんじゃないかとか、そんなふうに思いたくなるほど頼りない手の繋ぎ方。
「冷たいかな」
「冷たいけど平気です」
手のひらと手のひらの間にある空気すら冷えていくような感覚。でも私はもう、それが気持ち悪いとか、そんな風には思えなくなっていた。
心地いい。
この温度は夜鳴さんだけのものだ。
「あんまり強く握ると凍えちゃうからね」
いたずらっぽく笑う夜鳴さんに、心の中で、凍えてもいいんですよと呟く。むしろ凍えたかった。でも、そんなことを言ったら消えてしまいそうで、それが怖くて何も言わなかった。
公園は静かで、葉が擦れる音だけが聞こえた。私は、私の呼吸音が、心音が耳につく。五月蝿い。
消えてしまえばいい。
このまま消えてしまえばいい。
「座ろう」
ひとつ、木陰に埋もれるようにあった一際目立たないベンチを見つけて、夜鳴さんは手を離した。こんなにゆるく手を繋いでいたら、お互いが繋がっていることすら希薄だ。いつ離れたって、消えたっておかしくない。それなのに、手のひらには冷たさが残っている。空気が目に映らず動くように、あなたは離れる。
「どうしたの?」
座りなよ。
そう夜鳴さんが笑う。
「隣どうぞ?」
「じゃあ失礼して」
遠慮して少し空けた空間を見て、どうしてそんなことするのと怒ったふりをしたあなたは、寄り添うようにその不自然な間を埋めて私に近づいた。
私と違って自然に動ける夜鳴さんに、今日1日で、一体どれだけ救われているのだろう。不器用に接することしか出来ない私は、一体。
「さて、話をしよう」