第一話
拝啓、私へ
やっと見つけた、唯一の全てを。
眠った気は、しない。
多分寝はしたのだろうけれど、頭のどこかはずっと覚醒していた感じがする。
布団の中は私ひとり分の温もりと、そして、隣には夜鳴さん。私を緩く抱き締めたまま目を閉じていた彼は、一見眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。私の小さな身じろぎで、彼は当然のように顔を上げる。
「おはよう。寝れた?」
「はい……」
まだぼんやりとしている。少し目を閉じて、襲ってきた軽い頭痛をやり過ごした。
「ごめんね」
ほら、また謝る。
何人かの男性と付き合ってきたし関係を持ったけれど、手を出さないで謝られたのは初めてだった。それが悪いとも思っていないし、不満でも不服でもないのだけれど。
謝られる筋合いなんて、ないのだけれど。
何度も何度もキスをしたし抱き締められたけれど、その先はなかった。それでいいと思った。
夜鳴さんは、そう思っていないようだが。
「夜鳴さん、私は貴方が好きですよ」
「うん、僕も……」
「そうじゃないですよ」
彼は少し目を細める。
「貴方のすべてが好きなんです。貴方がどうであろうと、好きなんです」
「でも僕は死んでる。沙月さんと違いすぎるし、それは絶対にいいことじゃない」
「それがどうしたっていうんです?悪いところがあったっていいじゃないですか。悪いところは悪いところですけど、貴方という人が好きな私にとって、それは貴方を嫌う理由にはならない」
混乱したように眉をひそめた夜鳴さんは、やがて力を抜いて笑った。
「よく分からないよ」
「分からなくていいです」
私も夜鳴さんのことよく分からないですから、とそう言って、私は身体を起こした。
既に朝は訪れている。息を潜めたくなる朝が。
世界から隠れていようという、抑えきれないワクワク感。私と夜鳴さんのことは、この世界には秘密だ。
「さて、起きなくちゃ」
毎朝一応何かを口にする私は、自分の分だけ朝食を用意して、夜鳴さんの前にはコップを2つ置いた。水と油をそれぞれ注いだものだ。まだ不明瞭な頭を引きずるように、機械的に食べ物を口に運ぶ私を、貴方は興味深そうに見つめている。時折コップに口をつけながら、脈絡なくふっと笑う。
「どうしたんですか?」
「いいや、なんでもないよ」
なんでもない、なんてことは人間には有り得ないと思っている私だけれど、敢えて深く突っ込まずに微笑んだ。そうですか、とただ一言だけ言って、またレタスを食む。
惰性でつけたテレビで、昨日までに起こったニュースが語られる。それを静かに眺めていて、時折私がああだこうだと口を挟む。
私は昔からかなり、自覚できるくらいは面倒な性格だから、相手に慣れるまではそういう話をしないように気をつけている。そのせいで変に気を遣って、ついつい静かになってしまうのだ。五月蝿い方ではないけれどそれなりに話すことが好きな私は、夜鳴さんの前では、ごく自然に言葉を吐いていた。
苦しくない。
話すことが苦しくない。
日野は私と似ていて何かと面倒な性格なものだから、気を遣わないのは当たり前なのだけれど。
夜鳴さんは微笑んでいる。
「今日はどうする?どこか、外に行こうか」
今日は少し淀んだ曇り空だけど。
「いいですね、そうしますか!」
「準備するか」
夜鳴さんは伸びをする。本当は彼に、そんな人間ぽい行動なんて必要ないのかもしれない。
「顔洗ってくる」
いってらっしゃいと声をかけた。
今日はどうする、なんて。
こんな幸せな問いが、今まであっただろうか?
夜鳴さんはこの前買ったばかりの新しい、紺色のシャツを着て、ベージュのズボンに、私がプレゼントしたベルトをつけた。私が顔を洗って着替えている間にリビングで変身していた彼は、私が戻るなり立ち上がって、「似合う?」と笑った。似合うに決まってますと答える。
事実、何を着ても似合う彼はその服とベルトも着こなしていた。少し長い前髪の向こう、瞳孔の開ききった瞳が嬉しそうに細められている。
「なら良かった。雨降るかなぁ……傘、持った方がいいね」
彼が少し窓を開ける。雨の匂いがするよと言っている。確かに、雨が降る前は湿った土のような香りが鼻をつくけれど、今はまだ、私では分からなかった。
今日の彼は、帽子を被らない。
「曇りの日もいいね」
「そうですね」
どんな日でも、私はきっと幸せなのだろうけれど。
外に出て、鍵を閉めて、扉の横に引っ掛けてあった没個性的なビニール傘をさり気なく夜鳴さんが手に取る。
「一つでいいよね」
と、そう言われて頷かないわけも、やっぱり私が持ちますよと言えるわけもなかった。こういうあたりがこの人の狡いところだなと、上手いところだなと思うのだけれど。
「どこに行こうか?何かいい案ある?」
「ええっと……」
「……じゃ、ひとつ隣の駅に電車で行こう」
人通りが少ない方がいいのかなとか。
あなたは何をするのが好きかなとか。
退屈させたら申し訳ないなとか。
そんなことを考えてしまうから、自分の意見を言うのが苦手だ。自分の意見であなたの1日を決めてしまうのが怖い。一方私自身は、確かに人混みは苦手だけれど、あなたと一緒なら苦手なものだって楽しめるちょろい人間だから、尚更、こういうお手軽さは自分特有だと分かっている。
言えない。
考えるのが怖い。
決めるのが、怖い。
不安になる。
「僕はずいぶん遠くから来たからさ、ここら辺のこと全然知らないんだ。隣町、面白いとこありそう」
「私もあんまり行ったことないんです」
「そう?じゃあ楽しみだね。探検だ」
探検。
お互い知らないところを、知らない者同士で探検する。
大丈夫だよと言われてる気がして、気が抜けたように笑った。
「夜鳴さんとなら絶対楽しいですね」
「僕も、沙月さんとならどこに行っても楽しい」
その一言が私を救う。救われている。
そうやって小さな救いが、ここにいていいんだという安心に変わっていくのだ。
街を歩くあいだ、私はどうでもいいことを話す。本当は会話をすることが大好きだし、私が見ている世界はいつも不可思議に溢れていた。立ち止まって眺める、無効に伸びた横断歩道にも、等間隔で並ぶありふれた街路樹にも、見慣れているはずのビルの窓ガラスにも、それはあった。いつだって解決したい曖昧な謎が隠れていて、私はひとりで見て見ぬ振りをする。
気兼ねなく話せる相手といると、そんなことをしなくてもいいという満足感が確かにあって、夜鳴さんは、そんな私が不思議に思って仕方が無いどうでもいいことを、本当だ、気が付かなかったと目を見開いて、心底楽しそうに思考した。
どうでもいいじゃん、なんて投げたりしない。
分からない、と流したりしない。
時に二人ともそれらしい答えに辿り着かなくて、途中から妄想を始める。終わらない、どこに着地するかも分からないような妄想を。
それが堪らなく楽しかった。
「ねえねえ、こう、たったひと駅だけの移動って、なんだか贅沢してるみたいな感じしない?」
「分かります、何があるでしょう、楽しみです」
「うん、僕もだ」
急ぐでもなく、ゆるゆると改札を抜ける夜鳴さんの背中を追いながら、その頼りない背にふっと微笑んだ。