第三話
「罪悪感に苛まれているんだ、いつも、いつも」
ぼんやりと彼は言う。
「有理と離れ離れになったのは僕のせいなんだって分かっている。ユキさんが亡くなったのも、君が、今こうであることも」
「こう?」
「僕みたいな、関わっちゃいけない人間に傾倒している現状のことだよ」
「つまり、私が夜鳴さんのことを好いているこの現状のことですね」
夜鳴さんはそれに答えず、少し顔を逸らした。
「分かってる。言われなくても、良くないことをしていると、そんなことは昔から。でも、でもね、分かっていてもこのままでいいかなんて思う屑みたいな自分がいることも知っているんだ」
僕は屑だ。
そう何度も、言い聞かせるように呟く夜鳴さんを、私はじっと見つめている。見れば見るほどその中の、どうでもいいような人間的な部分まで見えるんじゃないかと想像してみる。私は特に洞察力に優れているわけでもないから、本当はそんなことないんだけど。
だからかも知れない。
見ても見ても、見足りないのだ。まだこれっぽっちも足りない。
「よくないよ」
「何がですか?」
「僕を好きなんて、よくないよ」
「生きてる人間からよくないことを奪ったら、何に幸せを感じて生きていけばいいんですか?」
「それじゃあまるで、死体が綺麗だとでも言いたげだよ、沙月さん」
死んだって人間同じだ、動いて考えて、そうして人間しているあいだは、生きていようが死んでいようが変わらず人間なんだ。
私は死んだことがないからわからないけど、夜鳴さんがそう言うのなら、やっぱりそうなのだろう。死ねば救われるなんて、そんなことを考えていた時期もあったけれど。
冷たい。
何もかもが冷たい。
段々、私まで死んでいくようだと思った。こうして死体に抱き締められるのは、なんて苦しいのだろう。そう強い力を込められているわけではない。それなのに、息をすることすら苦しくて堪らない。
熱が奪われていく。服を通してどんどん、奪われる。
それが幸せだった。
「僕が……」
今、電話が鳴ったらどうしよう。
多分それは沢村さんからの電話なのだろうし、夜鳴さんが追い求めている有理のことを伝えるためのそれだ。
今だけは鳴らないで。
そんな嘘をついた。永遠にならなきゃいいのにという本音を隠した。
「僕が君が好きだと、そう言ったら、おかしいだろうか」
立ったまま、頭の重みを私の肩に預けるように抱き締めている夜鳴さんが、そんな優柔不断なことを吐く。そんなどうでもいい言葉が、どうも、愛しくて仕方がなかった。やはりなんだか、生きている感じがする。
不思議だ。
私はいつだって考えるくせに、いつまで経っても、一番自分が理解出来ない。
あなたを引き剥がすように軽く押し退けて、その、虚ろな瞳をのぞき込む。そこには私が映っている。映っていると信じたくて、すぐ後ろにある壁に設置されている、部屋の電気を消すボタンを押した。
ふっと全てが飲まれて見えなくなる。私はただ寒くて孤独で恐ろしい。何か得体の知れないものが、私の腰に緩く腕を回している。
しばらくして、カーテンを開けたままの窓から月明かりが差し込み始めた。殺風景な部屋をぼんやり浮かび上がらせる中で、依然夜鳴さんの顔は黒く塗りつぶされている。それなのに、小さな煌めきが見える。あれがきっと瞳。そこには私が。
私がきっと……。
……分かっている。私はこの暗闇の中で有理になっている。
現実から目を逸らすつもりが、さらにどうしようもなく現実を突きつけてくるなんて。
なんて私は愚かなのだろう。
「勿論、おかしいですよ、そんなのは」
息を吸う必要なんてないくせに、あなたは人間みたいに息を呑む。
「それに、あなたが好きな私もおかしい。おかしくて仕方が無いですが、お互いに咎めなきゃいいんですよ」
「咎めなきゃ、いい?」
「そうです。誰が咎めたって、私たちがお互いを咎めないように、咎められないようにすればいいんです。私は夜鳴さんが好きなので、あなたに咎められなければそれでいいんです。好きって多分、そういうこと」
「周りの目が気になるだろ?沙月さんには色んな人との付き合いがあるんだから」
「そりゃ、ありますよ。正直言えば気になります。でも、全部取ることは出来ないから。私の中で考えて、視線は確かに気になるけれど、それよりも夜鳴さんがいないと寂しいなと、そう思ったんです」
いないと寂しい。
最初は誰でも、何でも良かったのだ。不審者だろうと犯罪者だろうと、死体だろうと、一緒にいてくれるならなんでも。ある意味投げやりだった。
「夜鳴さんにも他の人にも、その人だけのいいところが、魅力がかならずひとつはあります。私は夜鳴さんの中にあるいいところを見て、思ったんです。あなたを逃したら、もう二度と、あなたの魅力だけが持つ安心感に安堵することはないんだろうって。それは他の人が持つそれより、私にとって異質に見えた。一番奇妙で、特別に見えた」
「奇妙で、特別に……」
「終わり良ければすべて良し、です」
この、あなたを安心させたい一心で浮かべた笑みがあなたに見えているのかは分からない。それでいい。
「沙月さんの終わりは、いつ来るの?」
「勿論、死ぬ時ですよ」
「死ぬ時……」
「そ。私はあんまりいい性格じゃないので、好いてくれる人は貴重です。ああ夜鳴さんを逃さなければよかったーなんて思わないようにしたいですね。死ぬ時に後悔しないようにしたいんです」
「じゃあ、僕の終わりはいつ来るんだろう」
「いつにしますか?」
夜鳴さんが僅かに身じろぎをした。真っ直ぐに私を見る。こうして至近距離で向かい合うとすぐに分かるのだ、彼が呼吸をしていないことなんて、すぐに。
「夜鳴さんは死体なんですから、終わりを自分で決められるんですよ、良かったですね」
死体だって涙を流すのだと、私はその時、初めて知った。思わず指で拭ったその水は驚くほど冷たい。
涙はどこからただの水になるのだろう。その頬を流れ落ちた時だろうか。それとも、その温度を失った時だろうか。人の哀しみや喜びを纏ったその特別な水は、床に落ちればなんの意味も持たなくなる。感情をそこに見い出せる間は涙が涙でいられるのなら、いつ、そこから感情は消え失せてしまうのだろう。
温度が無くても、それは涙だった。間違いなく涙だったのだ。
「まだ、もう少し……」
彼は最後にそう言った。
まだ。
まだ、もう少し。
もう少しだけ。
それがユキに対してなのか、有理に対してなのか、その他、私の知らない誰かに対してなのか、はたまた夜鳴さん自身に言ったのかは分からない。もしかしたら私に言ったのかも知れない。分からないけれど、なんとなく、まだもう少しどうしたいのかが私には分かった。
「いいですよ」
「……え?」
「貴方がそうしたいなら、私が代わりに許してあげます」
自分を許せない貴方の代わりに、私が。
大丈夫ですよ。
そう言ったつもりだった。
彼の冷たい手が、私の背を撫でる。何度も何度も、上下に往復する。幼い頃に、誰かが誰かにやってもらったように。
でもそれは、夜鳴さんが自分を落ち着かせるためにやっているような気がした。
「僕には体温がない」
彼は言う。
「でもね、こうして沙月さんの体温に触れていると、無くしてしまった僕の体温がそこにある気がするんだ」
僕にない体温が君にある。
それが堪らなく哀しくて悔しくて嬉しいんだと夜鳴さんは言う。私はそんな彼を欲している。それは恐らく、私にないものが彼の中にあるからだ。それが哀しくて悔しくて嬉しくて、だから手に入れたくて一緒にいたいと思うのだ。
こつり、と。
貴方の額が私の額にくっつく。熱が奪われていく。私だけが呼吸をするものだから、なんだか自分ばかり酷く俗物じみたもののように感じてしまう。
「ごめんね」と、夜鳴さんの凍えるような唇が私の口を塞いだ時、抑えきれない寒気が、恐ろしさが私を意識を不明瞭にした。氷のような刺すような冷たさではない。
ただただ、そこにあるのは底なしの柔らかな恐怖と満たされることのない凍えで、それをなんとか満たそうとしているうち、いつしか私が、その冷たさに飢えていく。口内に侵入してきた優しい舌が、その温度が、感じたことのない違和感を植え付ける。
おかしいのは貴方?
それとも、私?
私の温度を求め続ける彼を受け止めることが、今、この瞬間を生きている私の意味だ。私は貴方のために生きている。舌を絡める度、私は私の居場所を見つける。
「思うんだ、これは運命だって」
キスの合間に、彼は呟いた。息を乱しているのは私だけだ。
「……運命なんて、信じてるんですか?」
「勿論。これは運命だ。決まってたんだ」
夜鳴さんがどんな人生を送ってきたのかは分からない。分からないけれど、私の平坦な人生は、とても運命的とは言えなかった。
今だって。
「運命じゃ、ないです」
私は告げる。
「夜鳴さんが決めて、見つけたんです」
そうかもしれないと曖昧に言って、貴方は強く私を抱き締めた。