第二話
夜鳴さんはどうやら、怒っているようだった。
「沙月さん、一体1日、どこに行っていたんだ!」
「ご、ごめんなさい」
ユキと遊びに行くと告げて、昨日、私は夜鳴さんに留守を頼んだ。彼をひとりにしたくないと思う私だけれど、ずっと一緒というのも息苦しいかという気遣いのつもりでもあった。
私の部屋には大したものがない。最低限の物しかない殺風景な部屋だ、沢村さんのおかげで生きていられるという意識から部屋は禁欲的だけど、同時に思い入れもないのだった。出会って数日の人に留守を任せるのに嫌悪感はない。
そして今日の朝一番、ユキの訃報が届いたのだ。
その後のことは、突然世界がぼんやりとし始めた気がしてよく覚えていない。どうやら私は、ユキが死んだということを夜鳴さんに告げて、それだけを言い残して家を出たらしい。
「心配していたんだぞ……どこに行ったのかと」
「ごめんなさい」
「無事なら良かったんだ。でも、」
ユキさんは本当に亡くなったのか。
私はその問いに、ただ頷いた。
「殺されたんです」
「殺された……!?」
がた、と夜鳴さんの手に力が入って、テーブルの上のカップが音を立てる。
「犯人は捕まりました」
「……そう」
私は確信するかのように、ユキを殺したのはあの男に違いないと思っていた。
でもどうしてまったく別の人間が犯人として名乗りを上げているのだろう。
そして私は、夜鳴さんにユキとあの男のことを言わなかった。
言えなかった、というのが正しいだろうか。
ユキを助けられたのは私だけだったのに、そのチャンスを逃した自分が情けなくて。
「僕のせいだ」
「……え?」
「僕のせいだ。分かっているだろ、僕のせいなんだよ」
「夜鳴さん?」
「全て僕が招いている。どうしてこんなに早く追い詰められているのか不思議だけど、でも間違いないんだ。君も危ない」
僕のせいなんだ、と彼は静かに言葉を紡ぐ。確かに、そうだ。理由は分からないけれど、夜鳴さんが来てから何かがおかしい。
死体。
夜鳴さんを探しているあの男も気になる。いや、もう見つかっていて、私たちの見えないところで追い詰められているような感覚。
「夜鳴さん」
「なに?」
「ユキはもう、動かないんですか」
何を言っている、と言いかけて、はっと夜鳴さんは口を噤んだ。死んだからって、殺されたからって、動かないとは限らないのだ。
そう。
あなたがいるから。
「だ、駄目だ、ユキさんは動かない。そもそも僕も、どうして自分がこうなのか分からないんだ。分からない現象をどうこうできないよ」
「そう、ですか」
そもそも死んでいた人がこうやって起き上がって、ごく普通に笑い、生活するなんて聞いたことがない。死んだ人がみんなこうなるのなら、もっと公に、大事になっていいはずなのに、そんな話はこれっぽっちも聞かないのだ。
私は頭を抱えた。
ただじっと、頭を抱えた。
「ごめん」
なんで夜鳴さんが謝るのかが、分からない。
「僕のせいだ」
なんであの妙な男に追いかけられているのかが、分からない。
「長くここに留まったから」
なんでユキが殺されたのかが、分からない。
「有理のことを夢見たりするから」
なんで夜鳴さんだけが特殊なのかが、分からない。
「だから」
なんで。
「さようなら」
なんで私は、あなたの服の袖を掴んで、部屋を出ていこうとするのを留めたんだろう。
夜鳴さんと、何か特別なことを話した覚えはない。他愛もない話ばかりをして、沈黙も多かった。私はそもそも、あまり話す方ではない。
彼に何か救われたわけでもないような気がする。私もあなたも、特別なことなど何も無かった。あんまりに普通だった。この出会いと時間があっても無くても同じくらいに。
それなのになんで、私はあなたに固執するのだろう。
どうして、なのだろう。
「沙月さん?」
私の人生は平凡で、毎日毎日、同じことの繰り返しだった。あなたに会うまでは。
もしかしたらまだ平凡の中にいるのかもしれない。他の人から見たら、いやいやいつもと変わらないじゃないかと言われてしまうのかもしれない。いつも通り生きて、いつも通り失敗して。
でも私にとっては明らかに違う日々なのだ。私の日常は、あの日の夜の公園で、夜鳴さんがベンチの下から這い出て来たあの時に終わっていた。
ユキが死んだ。
正直なところ実感はない。多分しばらくの間、私はそれを正しく認めることが出来ないだろう。
そしてそれは本当に、夜鳴さんのせいなのかもしれない。この人が去れば、この妙な出来事の数々は終わってくれるのかもしれない。言ってしまえば、出会わなければ、私の人生を、あるいは人生観を何度も救った主人公、ユキは死ななかったのかも。
今、天秤にかけているのだ。
ユキと夜鳴さんを。
「夜鳴さんがいなくなれば、もう何も起こらないかもしれないんですよね」
「……僕は、少なくともそう思う」
「そう。なら、私は益々、手を離すわけにはいかないです」
どうして、と。
あなたは心底不思議そうに聞いた。
でも、私にとってはその問いが不思議だった。答えなんて分かりきっているのに。
「私、夜鳴さんのことが好きだからだと、そう思います」
好きならば、その人が好きならば、その人が連れてくる不幸を、苦しみを嫌うはずがない。
それすらその人が生きた証。
それすらその人が死んだ証。
「だって、それはおかしいよ、待って。多分沙月さんは冷静じゃない。僕は君に何もしていないし、好いてもらう理由なんてない」
「そうでしょうか?」
いや、確かにそうだ。
「そうとは限らないんじゃないですか?」
いや、そうに決まっている。
「私、昔からよく考えるんです。色んなことをよく考えるのが好きなんです」
「じゃあ、もう一度考えて、」
「考えた結果、夜鳴さんが好きだとそう思いました。理由は、あなたの存在が私にとってプラスだからです」
「……プラス、?」
「はい。いくら不幸を連れてきても、苦しみを味わうことになっても褪せないくらい、あなたといると、私、生きている感じがするんです」
夜鳴さんは反論の言葉を息と共に飲み込んで、なんとも言えない、泣きそうな顔になった。ある意味絶望しているようにも見えた。
生きている感じ。
それは、夜鳴さんが私に言ったことだった。死体だ死体だと言う彼に生きている感じを与えられるのは、他のどんな言葉より重みがあると受け取った私だったけれど、やっぱり、生きている人間の生きている感じは、何より、当然生々しい。
「それ、は、理由になっていないよ、理論的じゃ、ない」
「確かに理論的じゃ、ないですね。不思議ですよね。いつだって考えると、最後の最後には生きたいとか死にたいとか、そういう、根本的な、原始的な感覚に行き着いてしまう」
でもそれは、単なる「なんとなく」で包括出来るような感覚的に言う感覚じゃない。突き詰めて考えて考えて、その末に様々な言葉が昇華されて認識した感覚は、考えることを放棄したそれよりもずっと、ずっと命に近い、キリキリと痛むような言葉だ。
「いいこと教えてあげます。私、前は日野と付き合っていたんですけど」
夜鳴さんは食い入るように私の目を見つめている。私も、彼の目を逸らさぬように顔を上げる。煌々と部屋を照らす電気が、逆光で彼の顔を暗く影の中に塗り込んでいる。その中でも、夜鳴さんの瞳孔が恐ろしいくらいに開いているのを見ていた。
「日野、私にいいところはひとつしかないって、ずぅっと言ってたんですよ」
「それは、何?」
「言葉です。私、言葉だけは日野に認められていたんです。彼は私の言葉に惚れてくれたんです。魔法みたいだって。呪いみたいだって」
なんだか全く異質なものに掻き乱されている感じがするんだ、と日野は言った。
そのくせ心のどこかで納得してしまうような、魔法のような呪いのような言葉だ、と。
「夜鳴さん」
依然、出ていこうと扉の方へ僅かに身体を向けている彼の服の袖を、私は離さない。
「逃げちゃ駄目ですよ」