第二話
外灯の灯りに、羽虫が当たっては弾かれた。特に意味もない行動を繰り返すその下で、私は思い切り不審そうな顔で彼を見る。白い光のせいじゃない、もっと深刻な理由で引き起こされていそうな真っ白な顔をした彼を。
「そ、そんなに睨まれるとちょっと怖いんだけど」
「睨んでません」
「睨んでるよ?」
「睨んでません。これは疑いの目です」
「それを睨んでるって言うんだと思う……」
ベンチの下から這い出てきたときこそぼんやりしていたけれど、あれがまるで寝惚けていただけだったかのように、今は口だけは元気そうである。口だけは。その顔色は表現しようもなく、いやする必要もなく、色が悪いとか具合が悪そうとかそんな生ぬるい形容を許さないレベルなのだが。
「とりあえず病院行ってください」
ため息混じりに、もう何回言ったか分からない台詞を繰り返した。
「だから、それだけは駄目だって言ってるじゃないか……」
ほっといてくれよ、と彼は頭を抱える。
「頭を抱えたいのはこっちなんですけど」
「僕だって頭くらい抱えたいよ。いい加減にしてくれ」
「頭痛がするんですか?病院行ってください」
何度言っても進展がないこの状況に投げやりな言葉を返した。何を言っても大丈夫だ放っておいてくれの一点張りで埒が明かないし、私は私でほとんど意地になっていた。
真っ白な顔を困惑に染めながら、彼は改めてまじまじと私を見た。瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「なんでそこまで粘るのかな」
絞り出すように口にしたのは、やっぱりその問いだった。
なんで、と言われても。
明らかに具合が悪そうなのに無理をするのは良くないし、ここで私が連れて行かなかったらどこかで倒れてそのまま死にそうだし、意地になられると私まで意地を張りたくなるし。
ひょろりと背の高い、細い身体。髪は少し長めで目を僅かに隠している。顔が異常に白いせいか、瞳がとても綺麗に見えた。
つまるところ、私は人恋しいだけなのかもしれない。この、気味が悪いけど人の良さそうな男性と話がしたかった。まだひとりにはなりたくないなんていう、そんなうざったい感情。
いいから放っておけと頑なに口にしつつも、その口調に嫌悪感は見られないからつい甘えている。病人に甘えるなんて最悪だとは分かっているけど。
それでもまあ、もちろん本当のことなど言うはずもなく。
「私、これでもそこそこアルコール入ってるので」
にっこりと極力極上に近い誤魔化しスマイルを提供してみる。
「……つまり?」
「酔っ払いに絡まれたら諦めるしか」
「マジかよ」
結果的にまたしても頭を抱えさせることになったが、それもまたよし。実際酔えば途端に絡みだすのは本当だからあながち嘘ではない。かと言って今そこまで酔っているかと訊かれれば、少しの嘘を交えなきゃいけないだろうけど。
もしかしたらこの人はそこら辺で野垂れ死ぬかも知れない、そしたら私の目覚めが悪いじゃないかと言い聞かせて、ついでに人恋しいだのなんだのといった不純な理由を心のどこかに押しやって、彼をもう一度見つめる。やっぱり酷い顔色だ。
「ほんとにさ、あの、心配してくれるのはとても嬉しいんだ。嘘じゃない。でも、僕はいたって健康なんだ」
「その顔色で?」
ぴくっと頬が引きつる。
「う、生まれつきなんだよ」
「嘘つけ」
「いやほんとだって。ほら、顔色はともかく言動は健康そうだろ?特に具合悪そうでもない」
「じゃ、仮に元気だということにしてもいいです。救急車は呼ばない代わりに、通報します」
「何故!?」
さらに絶望したような顔をする彼と、彼がホラー映画よろしく這い出てきたベンチを見比べる。
「……」
もう一度じっくりと見比べる。
「誤解なんだ」
「何がですか?」
「だからその、君がどう思っているかは分からないけど、とにかく僕は不審者じゃない」
本当は呼ばれても起きるつもりなんかなかったんだと、彼は小声で言い訳をしている。そもそも言い訳になっていないのだけれど……それにしたって、どうしてベンチの下なんかに潜っていたのだろう?
「君があのまま見逃してくれるか、あるいは悲鳴の一つでもあげてくれればよかったんだ。君が呼ぶから、つい反応してしまった」
「いやおかしいでしょう、その言い訳」
「知り合いの声にそっくりだったんだ、仕方ないだろ」
心底困り果てたようにため息をつく。
「ええと、じゃあ今からでも悲鳴上げて119番しときます……?」
「あ、や、やめてもう駄目なんだ」
言葉を交わす前に病院に行きたかったってこと?さっぱり意味が分からない。
もう何度目か分からないため息と共に頭を抱えて、私を非難するように睨む。
もう随分押し問答をしている気がする。彼が現れてからどれくらい経ったのだろう、確認するのも億劫だけれど。
「死体、とは思わなかったの?」
「え?」
絞り出したような声で問われた。
どうだろう。
こうやって面と向かえば顔面蒼白、まだ少し焦点の定まりきらない目をしているし、そりゃあ今にも死にそうな人だなとは思うけれど……ベンチの下でうずくまっている彼を見た時、私は。
「酔っ払いかなって」
「それは君だ」
そうですよね。
「まあその通り私が酔っ払ってたので、色々鈍ってたんでしょうね。声かけりゃあ起きるかなって」
君って結構適当だねと呆れられた。死にそうなくせに病院に行かない駄々っ子に言われたくはない。
まるで弁明をするようだけれど、そりゃあ一瞬くらいは死体かなと思わなかったわけではないにしても、うっかりヤケになって夜の公園をぶらついていたら死体を発見しましただなんて、そんなショッキングな事件に巻き込まれたくない。だから例えベンチの下に人がいたって、死体だと思うわけがないじゃないか、思いたくないんだから。結果的に呼んだら起きたのだから大当たり、思い込みも捨てたもんじゃなかった。
「……で、なんでベンチの下に挟まってたんですか」
「挟まってたんじゃなく潜り込んでたんだ」
「やっぱり自分から入ったんだ。もしかしたら気絶してる間に無理やり、とか思ったんですけどね」
「しまった……」
今度はため息ではなくゆっくり息を吐いて目を閉じた。次に目を開けるまで、私は羽虫の音に耳を澄ます。なんだか祈っているみたいに見えて、私は一瞬だけ見蕩れる。
「君、酔ってるんだっけ」
「ええ、ヤケになってそこそこ引っ掛けてきましたけど」
「そっか、どうしようかなあ」
そう呟いて目を開けた。足元でちいさな黒い影を落とす小石を見つめている。
何をそんなに悩んでいるんだろう。悲しそうに、自嘲気味に、でもどこか照れたように。その複雑な表情をどんなに見つめたって、彼がベンチの下にいた理由なんて一ミリも見えてこないのだけれど、分かっていながら目が離せなかった。
ついさっき感じた彼の手の冷たさを、いや、一切の温度のないそれを忘れたわけではないのに。
――忘れかけてたけど。
ああもう、こんなに気になる事を忘れそうになるなんてどうかしている。やはり酔っ払っているんだろうか。
彼はぐっと伸びをして空を仰いだ。星もないのっぺりと黒い夜空と無機質な光。上を見ることで隠そうとしてるみたいだけれど、笑われている。
どうしてだろう。
「あー、久しぶりにおかしい。案外起きてみるもんだね。君があんまりにも昔の知り合いに似ているもんだから、つい楽しくなるな」
誰かを思い出して、彼は笑う。まるで夢が叶ったみたいに。ちなみにこの人は知り合いの誰とも似ていない。元彼にも似ていない。もう少し粘着系かつ冷めていたら多少は共通項もあったんだろうけど、あの根暗な男はこんな風に活き活きと笑わないし、もっと死んだ目をしている。どっちが死体なんだか分かったもんじゃない。
なんて、嫌なことを考えてしまった。
「そうだ、君、年はいくつ?」
「22ですけど。あなたも同じくらいですか?」
そんなもんかなと曖昧に流された。フェアじゃない。
彼が、じっと私の目を覗き込む。
「ほんとのとこ、声をかけられた時から分かってたのかもな。君はあまりにもあの子に似てる。今が起きる時だって身体が判断したのかもしれない。なら、話すべきなのかもね」
ふっと口元が緩んだ。何がなんだか分かってない私を見て、どうしてか彼は優しく笑う。
「酔ってるならさ、酔った勢いで話を聞いてくれるかな。僕はもうどうせ終わりにしようとしてたところだし、もういいんだ。だから聞いてくれる?」
「全然わけ分かんないですけど、まあ……」
「ありがとう。今から突拍子もない話をするからね、とりあえず最後まで聞いて」
頷くことしかできない。
彼は、さっきまで自分が下にいたベンチに近づいて見下ろした。心なしか楽しそうにも見える。
「僕はね、ここで死のうとしてたんだ」