第一話
拝啓、私へ
失ってもまだ、のうのうと生きて。
「これでもまだ、一人で外に出るのか」
「日野……」
どうしてこう、一番会いたくない人に会ってしまうんだろう。
がりがりと頭を掻いて、日野は私の隣に座る。まだ私たちが付き合っている頃、何度も何度もこうして並んで座ったけれど、その度、私はなんだか嫌だった。
日野が見ている景色と、私が見ている景色。
彼は頭がいいから、多分まったく違うものを見て、まったく違う考えで解釈しているのだろう。そう思うと、私は私の見ている世界に自信が持てなくなったものだ。
でも今は、助けて欲しいと思ってしまうからタチが悪い。私の悪いところを表に出させないでと、場違いな怒りを感じてしまうほどに。
私の世界は今、恐ろしく無意味だ。空虚で、どうしようもなくて救いようもなくて。
あなたに見えている世界はそうじゃないんでしょう?
だから言ってよ。
君は馬鹿馬鹿しいと、いつものように。
「犯人捕まったって」
「あの人でしょ、ユキの彼氏」
「彼氏?あいつ、付き合ってたのか」
ダメだった。
日野は淡々と、事実を話す。逃げ道はない。そんなもの、あるはずがなくて。
「中年の男性だと聞いたが」
「そう……じゃあ、違うね」
「どうしてその、彼氏が犯人だと思った?」
「それは、」
それは。
通り魔事件のすぐあと、あの男性に会った。死体を探している、およそ普通とは思えない空気を纏った若い男性。そして恐らく、昨日のあの人、ユキが恋したという男性も同一人物だった気がする。
そしてユキは、死んだ。
昨日のあのとき、夜鳴さんが一緒なら違ったのだろうか。ユキに注意を促すことくらいは、出来たんじゃないだろうか。
そもそも確証もないくせに、私は勝手にそう思っていた。
「なんとなくだよ、別に理由とかないけど、なんか怖い人だったから……」
「そうか、でも、犯人は捕まったんだ」
分かってるよ、と投げやりに答えた。
ユキは一人暮らしだけど、隣の県に家族がいる。今頃みんな、彼女の元に集ってきているだろう。私は付き合いが長いけれど、とてもじゃないけれど、合わせる顔もなければ、顔を合わせる気分でもなかった。
私には、今回のことを阻止できるチャンスがあったはずなのに。つくづく、決められたレールの上を走っているだけのような気がするのだ。
「僕は危惧している」
日野がぽつりと呟く。思わず零したように思えるその言葉だが、私の耳は敏感に、絞り出すように酷く苦労して発したものだと聞き取った。
「最近、通り魔事件もあっただろう。ついにユキが死んだ。2つの事件に関連性は、ない。ないはずだ。だからこれは僕の、根拠のない心配だけど」
心配なんだ。
「何か、普通と違うことが起きている気がする。ユキはそれに飲まれた」
「日野……?」
「僕は何かを見落としている。何かに、気付いていない。目の前で起きている大切なことを、みすみす見逃しているような不安感があるんだ。どうにかしなきゃと気を張っても逃げられてしまっているような感覚。これは一体、なんだと思う?」
僕は何を見逃しているんだ?
そう彼は繰り返した。それは多分、私が抱いているのと同じような感覚。私は、私を何度も救ってくれた親友を見殺しにした。
親がいないこと。
ずっと一人で生きてきたこと。
そんなありふれた不幸に飲み込まれずに生きてこれたのは、いつだってユキのおかげだったはずなのに。
私は何を返しただろう。
「僕は思うんだ。今まで僕達はとても、とても普通だったはずだ。なにも変わったこともなく、毎日を過ごしていたはずだ」
日野が何を言わんとしているのか分かってしまう。分かるということは、私も疑っているのだ。
「沙月」
もうやめよう。
「あの気味の悪い男を、まだ家に置いているんだろう。彼が来てからなんだかおかしいんだ」
「そんなこと……ないよ」
「本当にそう思ってるのか?僕はあの時、駅前の公園の暗がりであの人を一目見た時から嫌な予感がした。予感だなんて、まったく理論的ではないけど」
「理論的じゃないの、嫌いでしょ。嫌いなことは言わない方がいいよ」
分かるよ。
分かってる。
死体は理論で、語れない。
生死の壁は本能的な、感覚的な、精神的なものなのだから。これ以上なく物理的なのに、不思議なことに。
日野は静かに私を睨んでいる。それに気づかない振りをして、ただぼうっと前を見つめた。
「僕と君では、既に立場が違っているんだ。僕は確かに何かに気づき切っていない。でも、君は違うだろう、沙月」
「どういうこと?」
「君は見て見ぬ振りをしているだけだ。本当はもう、分かっているくせに」
君のそういうところが嫌いなんだ。
そう言う日野の絶望的な声が、私たちの関係が終わった日に聞いたあの声が脳裏に蘇る。何も言わなくても言われている気がした。日野の言葉はいつだって、私の言葉でもあったから。
「日野」
「どうした?」
「見て見ぬ振りって、いけないこと?」
「いけないことだと思ってるのは、沙月自身なんじゃないのか」
こうやって見透かすあなたが、嫌いで、嫌いで。
「自分が納得出来ない方向に努力するのは無駄だ。沙月、何より無駄なことは良くない。君が最も見捨てているのは、君自身だ」
まだ実感はない。一番の親友が死んだということも、今、私がとうとう一人になってしまったということも。世界でひとりになったなんて思ってもいいくらいなのに。
思えば、大切な人を亡くしたことなんて無かったかもしれない。
物心ついた時から、失う人なんていなかった。父親も、母親も、そんな人間、元からいなかったみたいに。生まれた時から一人きりで、私はただの現象のようにそこにいるんじゃないかって。
漠然と、天涯孤独でも何不自由なく生きていられることに幸せのようなものを感じてはいたけれど、まるで麻痺してしまったみたいに、その幸せすら現実味がなかった。
ああ。
生きているって、なんだろう。
生きていることを、誰かを失ってもまだ実感出来ないのなら、私は生きていると言えるのだろうか。
初めて感じるべき、今まで当たり前にあったものの喪失にすら涙を流せないというのなら。
「沙月さん」
そうっと、囁くような声が聞こえた。私が座っている公園のベンチか少し離れたところに夜鳴さんの姿が見えて、気付くと私の目から涙が零れた。
「一人なの?」
「すみません」
日野と別れてすぐに家に帰る気にはなれなかったのだ。いいや、帰ってはいけないような気がしたのだ。
「帰ろう。話は、それからしよう」
多分私は頷いて、涙を拭いて立ち上がった。
彼に私がどう見えていたのかは、知りたくない。