第三話
時間の五分前に、ユキが指定した待ち合わせ場所に到着した私だけれども、そこに本日の主人公である彼女の姿はなかった。
遅刻、だろうか。
辺りを見回してもそれらしい人影はない。不安がむくむくと膨れ上がる。
「いないいない、ばぁっ!」
「うわぁぁ!?」
突然万力のような力で肩を掴まれて振り返ると、ぶん殴りたくなるような満面の笑みをたたえたユキがいた。
「ユキィィ……!」
「あららやーん、挨拶じゃないの。沙月ったら、カルシウム不足」
「なーにがカルシウム不足だ、あんたは頭のネジが不足してるっての」
「ちょっと配慮不足だったかな?」
「常識不足!」
脅かされるのがめちゃくちゃ嫌いな私である。もちろんユキはそれを知った上で犯行に及んでいるので、情状酌量の余地はない。ぐいぐいと首を絞める。
「やめてぇ、セットした髪がぁ」
セット?
肩を少し越すぐらいの微妙な長さをキープするユキの髪型は、いつもと変わらないように見える。
「え、分かんないの?今日はつげの櫛で髪を梳かして、」
「分かるはずないだろ馬鹿が」
ぱしりと軽く頭を叩いた。ただでさえ馬鹿なのが悪化してしまうような気がしたが、今更だと諦め直す。
気を取り直して、私はユキから本日の作戦なるものを聞いた。彼女の気になる人は同じ大学生で、今日は朝からコンビニバイトに勤しんでいるとのことだった。昼過ぎ、丁度バイトから上がったところを捕獲する計画だと彼女は自信満々に語る。
てっきり会う約束をしているものだと思っていた私は、拍子抜けしたのと同時に、やっぱり相手はユキなんだなぁと妙に納得した。
「早朝からのバイトで思考力が低下しているところを不意打ちで捕獲して隙を突くの。そうすればこのあたしにも勝機は、ある!」
前向きなのか全力で後ろ向きなのか分からないが、上手くといいねーと適当に返事をして、私達は立ち話も早々に近くのカフェの隅に陣取った。
「わくわくすっぞ!オラわくわくすっぞ!」
ブラックコーヒーを啜りながら、ユキは楽しそうだ。苦いものが苦手な私は、抹茶ラテにはちみつをかけてちびちび飲んでいる。お気に入りの一杯で気持ちを落ち着かせつつ、どんどんテンションを上げていくユキを不安な気持ちで眺めた。
「ユキ、そんな元気で大丈夫なの?」
「何を言う!元気なのが唯一の取り柄だこの野郎!」
「お、おう」
……この野郎?
「で、さぁ、その人のこと聞かせてよ」
「馴れ初めか!?馴れ初め話しちゃう!?」
「まあ……そう、だね、馴れ初め……」
もう既にそんなに親しい間柄なのか?
バイトの予定を知っていて、かついきなり捕獲する計画を立てるのはそれなりに親しくないと出来ないものだが、ユキの場合は親しくなくてもやってしまいがちな傾向にあるので、あまり信用しない方がいい。
「そう、あれはあたしが講義をサボって、ベンチで本を読んでいる時だった……」
既に落単目前の講義を「つまらないから」という理由なだけで飄々と、悠々と自主休講したユキは、大学の敷地内の外れにあるベンチを占拠して、買ったばかりの本を広げた。
ぱらりぱらりとページを捲り、読書をーー
始めなかった。
「始めなかったの!?」
「そうだよ、あたしはいつも、物語には何かしらの意外性が欲しいんだよね。大学に行く前に本を買って、講義をサボる。その次に主人公がとる行動は読書に決まってるじゃない」
そんなのつまんない、と彼女は笑う。
「なんでもいいの、主人公は読者を裏切らなくちゃ。裏切って騙して脅かして、そんなことが歓迎されるのは主人公だけ。主人公と読者の関係だけ」
自分が主人公だ。
そういえばユキは言っていたじゃないか。
「だからあたしは敢えて本を読まずに昼寝を始めたの。意外でしょ?読書しろよって思うでしょ?でもユキちゃん、寝ちゃうんだなぁ!敢えて寝ちゃうんだなぁ!」
「嫌な主人公だなぁ……」
「いい主人公には飽きたの!まあ、そんで、出会ったわけ」
「その、気になる人と?何、隣にでも座ってきたの?」
んなわけないじゃん!と最高に意地悪な笑みを浮かべたユキは、偉そうに告げる。
「すやすや寝てるあたしの手から、彼は本を盗もうとしたのよ」
……は?
「あたしが目を開けると、彼は手の中にある本を掴んであたしの顔を凝視したまま固まってたわ。あーあ、あの時の顔、なんで写真を収めていなかったんだろ!最高だったのにー」
「ちょ、ちょっと待って、悪人じゃん!?」
「悪人っていうかまあ、悪人だよ。結構値段張るプレミア付きの絶版本だったから、目が眩んだんだと」
そんなものを堂々と手にしたまま寝るなと、私は声を大にして言いたい。
「そこであたしは言ったの、起きちゃってごめんねって。売ったら高いから気になったのよねって。そしたら彼、馬鹿みたいな嘘をついたの」
「何よ……」
「講義より本を選び、それより眠気を優先させる貴女の予想を裏切る姿勢に惚れてしまったんですって!吐き気がするほど最悪な嘘!!」
「それ、ユキに対する皮肉なんじゃ……」
「ふふ、そうかもね?でもいいの、あたしはそれで恋に落ちた。もちろん彼自身はかっこよかったけど、そうじゃない」
「あたしはあんな安っぽく嘘っぽい嘘に、惚れた」
ユキのことを完全に理解することなんて不可能だった。私は結局、その馴れ初めとやらを聞いても全く、何がいいのか分からなかったのだ。
嘘に惚れた、なんて。
どうやったって、あたしには理解できそうもない。
カフェで大騒ぎをした後、そろそろ彼のバイトが終わる時間だと聞いて、私たちはその嘘つきが働いているコンビニのそばに移動した。こっそりと店内を伺うと、まだレジにはそれらしき若い男性が立っているように見える。
「ほら、彼が見えるぞ、あの大嘘つきめ……このユキちゃんが地獄の底に落としてやる」
「ねえユキ、それって恋なの?」
「恋模様が千差万別なら、恋愛感情がどんなものなのかだって個人差あるに決まってるでしょ。これが恋だ愛だって決めつけるのは良くないよ、本人以外にそんな権利、ないんだからね!」
死体に恋しかけている気がする私の心に、その言葉が深く突き刺さる。
彼がふと、店の奥に消えた。しばらくして制服から私服に着替えたお目当ての彼は、今度は客として買い物を済ませると店の外に出てきた。
「さぁ、バイトは、安穏とした日常は今!終わりを告げるのだ!」
「ちょ、ユキ!?」
猪突猛進、ユキが駆け出す。
ひとつ付け足すと、ユキは物凄く足が速い。
私を置き去りにして全速力で走る彼女は、彼に向かって打ち出された弾丸のような威圧感を持って、これから告白しようとしている相手を圧倒する。
圧倒してどうするんだ。
慌てて追いかけようとした私は、しかし、すぐに立ち止まった。
「あれ、?」
ぼんやりとユキと向かい合うその男性は、ひょろりと背が高く、髪はぼさぼさで、そしてーー
「死体を知りませんか」
そう問うたあの声。昨日の夕方、路地裏で蹲っていたあの男性、のように見える。
分からない。あの時、暗くてはっきりと顔が見えたわけではなかったから。
でも……
「覚悟して下さい!あたし、あなたに惚れたんで!」
「は……?」
「だから、覚悟して下さい!この前会ったでしょう、あなた、あたしの本を盗もうとしたでしょう」
「あの時の、居眠りしてた人……」
「そーです!あたし、ユキっていいます!付き合ってくれますね!?」
ちょっと待て。
なんという一足飛ばしかと呆れるが、私がユキに追いついた時には、話は既にそこまで進んでいた。
彼はじっと、ユキを見つめている。そしてなにも言わないまま、ゆっくりと私に目を向けた。
「……!」
思わず固まる。
気付かれた?
私が夜鳴さんと一緒にいる人間だって、気付かれた?
でも、男性はやっぱりなにも言わずにユキに視線を戻した。あの気持ちの悪い不審者と同一人物だなんて、私の勘違いなのかもしれない。
ユキは目をキラキラさせて彼を見つめている。私には、成功する可能性なんて無いように思えるけれど、一方主人公である彼女は成功を疑っていないらしい。
「あたし、きっとあなたにとってプラスになりますよ!ね!?ねー!?」
「……」
「大丈夫、後悔させるような女じゃないんで、あたし!」
「…………」
たっぷりと沈黙した後、ややあって彼は、やっと口を開いた。
「……いいよ」
嘘でしょ?
よっしゃーっと快哉を叫んでコンビニ前で大騒ぎするユキを横目に、何故か私は小さく「すみませんね騒がしくて」とフォローしていた。
いいよ、と。
そう答えた彼の声は、やはり、あの声と酷似している気がしたのだけれど。
主人公は読者を裏切る。
いや、裏切ってなんぼだというのがユキの持論だったけれど、逆に、私はそんなことはないと思っている。
裏切らなくてもいい。虚を突く必要は無い。
それは多分、私という人間が、誰かの予想を超える行動をしないからだろう。
出来ないからだろう。
だから自分を守るように、別に裏切らなくてもいいじゃないかと、平凡なのも主人公の特権だと思ってしまうのだった。
結果として、今回の主人公であるユキは、つくづく裏切るやつだった。
私とは違って。
決まりきった道筋を馬鹿みたいになぞる私とは、根本的に違って。
根から葉まで違ったのだ。
たまには平凡で良かったのに。
ユキは次の日、死体で見つかった。