第二話
私なんか。
本当、ろくでもない人間。
ただそう思って生きている。私には分かるのだ、自分の狡さが、嘘が。
日野を失って、私はまた一人になって。孤独なままでも生きていけると思っていたけれど、そんなのは強がりだった。日野に出会って、初めて私は、私の生き方を否定してもらえた。それは違うんだよ、間違っているんだよと言ってもらえることがどんなに幸せかを知った。
日野を失った私は必死だったのだ。誰かが側にいなくちゃならないという奇妙な切迫感に心を支配されていた。
一人だと死んでしまいそう、なんて、死にもしないくせに。
そうして夜鳴さんに出会って思った。
隣にいてくれるなら、死体だっていい。
「ごめん」
ふっと身体を離した夜鳴さんは、戸惑うように目を伏せた。少し長めの黒髪が彼の瞳を隠す。始め、私は何を謝られたのかを理解出来なかった。抱きしめられて温もりを感じないその異常さに震えながら、食い入るように彼を見る。
「ごめん」
皿、片付けるね、と言って逃げるように席を立った彼をぼんやりと見送りながら、まるで逃げるようだと思った。実際、逃げたのだろう。
なんだったんだろう。
今のは、なんだったんだろう。
どう思う?
その問いに、果たして私はなんと答えるのだろう。
息が苦しい。生きるのが、苦しい。
認めなくてはならないのかもしれない。いや、私の心の奥にある冷静な部分は、もう最初から分かっていた。有り得ないから、とかそんな粗末な理由で、逃げて認めなかったのは私だけ。
なんて恐ろしい、冷たさ。
単なる温度の違いじゃない。生命を感じない死体特有の冷たさというものは確かに存在する。私は本能でそれを知っているし、先程、それは私を包んでいた。
間違いない。間違えようがないし、間違えられない。
彼は、死体だ。
『はーいもしもし、どうしたの?』
「なんかねえ、分かんなくなっちゃったの、どうすればいいかなあ、ユキ」
『なになに、夜鳴さんの料理がそんなに美味しかったわけ?羨ましいねこの野郎』
「美味しかったけどさ……」
家の近くにある、住宅地にぽっかり空いた空き地に申し訳程度の遊具が設置されている程度の名ばかりの公園で、私はユキに電話をかけた。夜鳴さんには散歩に行ってくると伝えてある。いってらっしゃい、と彼は言った。こちらを見ないだけで、声色だけはいつもと変わらなかった。
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
ふぅん?とユキは言う。
『そんならこのユキ様に、話してご覧なさい』
あたしがいるから大丈夫。
その根拠のない自信が、私は本当に好きだ。
あのね、と言って、私は少し考える。どう伝えればいいか、慎重にもなる。
頼りない外灯を見上げて目を閉じた。
「夜鳴さんにね、少し、普通の人と違うところがあるんだけど」
『精神的な?』
「ううん、肉体的な。普通に生きる分には問題ないんだけど、一緒にいると気付くよねって感じのものがね」
結局私は、死体がどうとかそういう核心に迫ったワードを使うことが出来なかった。ユキに否定されるのが怖かったとか、そういうことではないと思いたい。
『沙月は気になるの?』
「今までは夜鳴さんから言われても信じてすらいなくて、ついさっき実感した。信じざるを得なくなった。気になるっちゃ気になるけど……」
『じゃ、嫌い?』
今から陳腐なことを言うよと前置きして、完璧な人間なんていないよ、と陳腐なことを言った。
沙月も夜鳴さんも完璧じゃないよ、と。
私は黙って頷く。頷いてから、ああこれは電話だったと思い出して、掠れた声で「うん」と返事をする。ユキの耳に届いたかは分からない。
『沙月がしっかりしないと、夜鳴さんに向き合う資格はないんだよ』
「どういうこと?」
『沙月が他人に……夜鳴さんに何を求めるのか、それをはっきりさせないまま嫌ったり、対応するのは不誠実なんだよね、不誠実なのは、ユキちゃんよくないと思う。何も望まないなんて綺麗事、この世にないんだからねえ』
相手になにか求めるなんて偉そうだ、と私なら思ってしまうけれど。でもユキは、その不安をケラケラと笑い飛ばした。大丈夫だよ沙月ちゃん、君も他人に品定めされてるんだから。
『言い方は良くないけどね、一緒にいたいなら、絶対にこれだけは譲れないよーっていうニーズを確立させないと。そしてそれをしっかり据えたら向き合うこと、んで、考えること』
「そりゃあ、一緒にいたいよ」
『んー、本当?』
なんとなくで言ってるんじゃないか、ユキは少し厳しい声で疑った。それは不誠実なんだよ、と。
『よく考えるんだよ沙月。考えないのは逃げだし、ニーズを求めないのは日和ってる。そういう甘ったれたのはよくない、自分にそれを許しちゃいけないよ。変わりたいなら、自分を許しちゃだめ』
静かな夜だった。いや、夜はこんなに静かだったのかと、改めて私は思う。
死体である彼に、私は何を求めているんだろう。これを見誤っちゃ、いけないのだ。多分、死体だなんてそんなことは些事だと言えない。些事なわけがない。私は生きていて彼は死んでいるというその差は埋まるはずもなく、あまりに大きい。それを無視するのは間違いだ。
私は。
私は。
『そういえばねぇ、あたし、気になる人がいるんだけど』
「……は?」
『かっこいいのよー、見た目は夜鳴さんくらい、内面は日野くらいかっこいいのよー、多分』
日野の内面がかっこいいかは、まず置いておいて。
「なに、どうしたのいきなり」
一体どうしてしまったのだろう。人の恋路には必ずと言っていいほど口を挟む、むしろ挟まずにはいられないユキだけど、当の本人は恋愛のれの字もなかったくせに。
青天の霹靂ってこういうことだ。
夜鳴さんのことで、ニーズがどうこう頭を悩ませていた私は、急すぎる話題転換についていけない。
『そういうわけであたし、明日告白しようと思います!』
「は、え、待ってなに、一体どういう、」
『まぁまぁいいじゃないの、思い立ったが吉日。いや思い立ったのは今この瞬間だから明日は吉日ではないんだけど……いいじゃん、うん』
だから明日は駅前に集合ね、と有無を言わせず言い切った。
何のつもりかと問うと、ユキはまた、この世のどんよりとした事案の殆どがどうでもいいことだと思えるような、人の心を晴らす声で笑った。
『沙月ぃ、少し客観的になるべきだよ。ずーっとみっちり当事者でいるとね、だんだん麻痺しちゃうよ。時々すっと主人公やめてさ、適当に口挟めるモブになっちゃったらさ、案外すっきりするかもよ』
「ユキ……」
『まあ、だからって本当に適当なこと言ったらぶっ飛ばすわー!今度はあたしが主人公!』
だから気合入れて気を抜きなさいと難しいことを言って、彼女は一方的に通話を切った。
「……困ったやつ」
本当、困ったやつ。
耳が痛くなるような静寂の夜をしばらく堪能して、その空気を肺いっぱいに満たした。不思議と、明日のことを思うと笑えてくる。
ユキの気になる人、かぁ。
あのユキの、である。どんな人だろう。どんな人だって笑える。
彼女は身勝手でいつも五月蝿くて呆れるほど楽観的な人だけど、何度も私の心を救ってくれた友人だ。彼女がいかにいい人かは良く知っている。どんな時だって、ユキさえいればどうにかなるように思えてくるような、そんな不思議な力がある。
上手くいくといいね。
心からそう思って、私はあじさい荘に帰る。
手。
手を見る。
僕は手を見る。
手は白い。
手は、冷たい。
僕は彼女を抱きしめた。
有理に出来なかったことを、した。
手を見る。
僕は最悪な人間だ。
いや。
死んだ時から、人間なんかじゃなかったのかもしれない。