第一話
拝啓、私へ
大切なものがあったのに。
『やぁぁだ、日野に会ったの!?』
嬉しそうに悲鳴を上げて、ユキは電話越しに笑った。夜鳴さんと歩いている時に会うなんて運命だ赤い糸だと大騒ぎである。全く笑い事ではない私は、脳天気な彼女に薄らと殺意を覚える。
「笑い事じゃないってば、日野、めっちゃ怖かったよ」
『あららそりゃそうだわ、二人で歩いている時に、しかも不審者に絡まれてたらいくら日野くんでも怒るよう、自業自得』
うっひひひとユキは気持ち悪く笑う。
『でも良かったねぇ、通り魔事件、解決したらしいじゃん?』
「え、そうなの?」
私達が不審者と日野に遭遇していた頃、近くの交番に犯人が出頭したらしいのだ。なかなかのスピード解決、日野の心配は杞憂だったということになる。
『なんでもいい歳のおっさんだってさぁ。やだね、気持ち悪ーい』
「若くたって嫌でしょ」
『それもそっかー』
死体を知りませんか、と。
そう訊いてきたあの男性は、いかにも不審だったのだけれど……彼が事件の犯人じゃなくて安堵するような、むしろ危機感が募るような。もちろん殺人犯にばったり出会っていたなんて笑えないし背筋が凍るようだけど、同時にもし彼が犯人なら、もう会わなくて済むのだという安心感がある。
しかしそうではなかった。通り魔事件は解決しても、私達の周りをうろうろしているあの男のことは解決していないのだ。
『んまぁ、あたしでさえもう知ってるんだもの、この事件が終わったことは、日野ならすぐ知ると思うよ。つまり沙月が出会った不審者が事件とは関係ないところで動いてることもきっとねー?』
「胃が痛いよ……」
『日野は沙月大好きだから、きっとストーカーばりにうろちょろすると思う♡』
「やめて」
結構笑えない。
ひとしきり私の胃痛を激化させて満足したのか、ユキはからからと気持ちよく笑う。悩んでいるのが馬鹿らしくなるような、彼女特有のそれ。
『夜鳴さんはどーお?元気?』
うん、と簡潔に頷く。
ぐっと押し黙ったまま帰宅するまで一言も発しなかった夜鳴さんは、それからも一時間ほどぼーっとしたまま動かなかった。それからしばらくして、やっと、さっきは驚いたねと笑顔を見せた。
あの男のことを聞きたかったけれど、どうしてだろう、私は何も言えなかったのだが。
そしてユキから電話がかかってきて、今に至る。彼は台所に立っている。笑顔でも拭いきれない重苦しい空気を押しやるように、夜鳴さんは立ち上がって一言、
「夕飯作るよ」
と、まあ、そういうわけで。
『夜鳴さん、料理出来るの!?やば!』
スペック高い!とユキは大喜びである。なんであんたが喜ぶんだ。
料理できるのかどうなのかは分からないけれど、自分から言い出すあたり、結構自信があるのだろう。
『ねねねね、今から行ってもいい?いいでしょ!?』
「良くない。さっきあんた、友達と約束があるって言ってたじゃん」
『んぁぁぁそうだった!!くっそ、忘れてた!』
地団駄を踏んで悔しがる顔が目に浮かぶ。
『覚えておけ!必ずや手料理を食す!覚悟しろ!』
「誰が」
『貴様らだ!』
がちゃん!と叩きつけるように通話が切れた。
「……騒がしい」
ユキはやっぱりユキである。多分、死んだって治るまい。
私は迷うように、通話が切れた旨を伝えるスマホの画面を見つめた。そして後ろを振り返る。ほっそりと頼りない夜鳴さんの背中が見える。慣れた手つきで野菜を切っているその姿を見て、ふと、日野を思い出した。彼と並んで台所に立つことは何度もあったけれど、洒落にならないくらいに料理が下手だったのだ。
人のことを言えないくらい不器用な私も合わさって、時折とんでもないモノが出来上がったりした。
もう二度とない、かつての思い出。
私は立ち上がって台所に入る。
「あれ、もう電話はいいの?」
「ええ。通り魔、捕まったそうです」
「そっか」
それきり黙って、夜鳴さんはまた野菜を刻む。
その横顔をじっと見つめる。彼の整った顔はやはり青白く、真剣な眼差しを落とす瞳は暗かった。
「……何か、手伝いますよ。力になれないと思いますけど」
「料理は得意?」
「これが全然。嫌いじゃないし昔から一人暮らしなんでよくやるんですけど、元から不器用なせいかな、いつも微妙なんですよね」
「僕もよくやるよ。自分では食べないけどね」
といたずらっぽく笑う彼を見て、私は、喉元まで出かけてぐるぐるしていた数々の質問を全て捨てた。
「料理は得意なんだ」
「頑張って足引っ張らないようにしますね」
フライパン出して、と夜鳴さんが言う。
「うわ、やだ」
「やだってなんだ、やだって」
「なんなの、美味しい」
半分キレながら、芸術的なまでに綺麗に出来たオムライスにスプーンを突き立てる。
ケチャップライスの味は絶妙、デミグラスソースとよく合う。玉子はお店で出されるような完璧なまでの半熟である。ふわっふわで黄金色なのである。
「イラつく!」
「怒られても……」
「イラつく!!自分では食わないくせに!味見すらしないくせに!」
「勘だったから、上手くいってよかった」
「うわーイラつく!」
水の入ったコップと油の入ったコップを並べて交互に飲みながら、夜鳴さんは楽しそうに私を眺めている。
それはもう、幸せそうに微笑んでいる。
「……美味しいです」
「それは良かった」
「美味しいごはんは、正義です」
「そうだね」
「にやにやしないでください!!」
「にこにこしてるんだよ……」
八つ当たりである。
ふん、と機嫌を損ねた振りをしてオムライスを切り崩しては口に運ぶ。本当に美味しい、悔しいくらい。相変わらず水と油しか摂取しない料理上手の自称死体は、素直じゃない私よりもずっと満足そうな顔をしていた。
「あんま見ないでください、食べにくいです」
「ごめんごめん」
謝りながらもこちらを見続ける、反省しない人である。その視線から逃げるように、少し急いでオムライスを平らげる。傍らに置いていたコップの水を飲み干す。
「ご馳走様でした!」
「なんで怒ってんの、お粗末様」
怒ってません。
彼はやっぱり、今日も何も食べない。作ったオムライスはぴったり一人分だった。今まで本当に食べ物という食べ物を摂取していないくせに、これっぽっちも辛そうな感じはない。出会ったあの夜と変わらない最悪の顔色ではあるけれど、それは改善も悪化もしていない。
変動していないのだ。
「……」
「沙月さん?どうしたの?」
「ごはん、美味しかったです」
うん、と頷きながら戸惑う彼の目をじっと見つめた。私達の頭の上では、煌々と電気が部屋を明るく照らしている。
もう気付いていた。本当は最初から分かっていたのかもしれない。彼は暗いところや夜を好むけれど、それは人の多いところを避けているだけではない。
こんなに部屋は明るいのに。
夜鳴さんの瞳孔は開き切っている。
彼と目を合わせる度に襲う気味の悪さというか違和感はここにあるのだ。ぱっくりと開いたそこには、いつも変わらずどんよりと暗いものが瞳の奥を満たしている。
「料理はするのに。こんなに美味しいのに」
夜鳴さんは何も言わない。
「あなたは何も食べないですね。何も、自分の為に作らないですね」
「必要ないからね」
彼の作った料理は、生きている人の為のものだという気配がした。美味しかった。でも、だからこそ、かもしれない。その作り手である夜鳴さんに無いものが際立ってしまって。
生きている感じがないという事実が、際立ってしまって。
私は、テーブルの上に無造作に置かれた彼の左手を掴んだ。恐ろしく冷たいその手は、色白なはずの私の手より白かった。
その手首をまさぐる。脈を測るため、あるポイントに親指を押し付ける。強すぎず弱すぎず、絶妙な力加減で。
でもダメだった。
脈は無かった。
そこには生命がなかった。
「どう思う?」
ぽつりと夜鳴さんが呟いて、ゆらり、と彼が立ち上がるゆっくりと私の横に立ち、膝を折るのを呆然として見つめていて。
次の瞬間、私は彼の氷のような腕の中に包まれていた。彼の肌が当たっているどこも酷く冷たくて、服越しに伝わるはずの温かさも一切ない。人間ではない、と思った。
こんなのは人間ではない。
人の形をした何かだ。生き物ではない何かだ。
「どう思う?」
何を、とも言わなかった。ただ彼はどう思うか問う。どうなんだろう。私はどう、認識するのだろう。どう思うんだろう。
寒い。
酷く寒い。
死に抱き締められている。
私は。
彼は。
抱き締める腕に力が込められて、そして、緩んだ。夜鳴さんは私から離れて、ただ項垂れる。
ごめん。
そう繰り返した。