第三話
今日も何も食べないんだろうと分かりつつ、私は夜鳴さんを連れてスーパーに寄った。
「僕が押すよ」
私の手からカートを奪ってゆっくりと歩く。病人にやらせて自分は何もしないなんて嫌だと何度も言ったのだけれど、彼は一向に取り合ってくれなかった。
「何か食べたいものあります?」
「僕は何も食べないよ」
「……ゼリーでも何でもいいから食べた方がいいですって、流石に」
「……」
「…………」
野菜売り場のど真ん中で睨み合う私達だが、結局折れたのはまたしても私だった。
「知りませんからね……」
「お気になさらず。それより君の夕飯だろ」
ほらほらと私の背を押して、あれはいいんじゃないか、これが美味しそうだとあれこれ指をさす。人のことになると饒舌である。
一通り回って適当にカートに食材を乗せると、私達は買ったものを二つの袋に分けて、一人一つずつ持った。外に出ると丁度日が沈んだところで、急ぎ足で夜が迫っているところだった。建物や木の影が濃厚な闇を産み始めている。いつもなら急いで帰るところだけれど、今日の私はのんびりと歩く。昼間よりずっと落ち着いて馴染んでいる夜鳴さんの隣にいると、夜なんて怖くないと思えてくるから不思議だ。
彼の歩調は、私に合わせているようで合わせていない。
ゆるゆると歩くそれは確かに私とほとんど同じ速度だけど、自然と落ち着いた速さになっているだけのように思えた。ただでさえ歩くのが速くない私の歩調も、ほんの少しだけゆっくりになっている。それで同じ速さなのだから、これはきっと夕暮れの速度。
夜に向かって歩く速度だ。
自然と少し遠回りをして、家の周りに張り巡らされた路地に迷い込む。どうしてだろう、夜の匂いの濃い方へ濃い方へと歩いていく。
幾つかの角を曲がり、家を避けて曲がりくねった道を抜け、また細く一際暗い道に入った時だった。もう、家はすぐそばだ。
「……沙月さん」
私はすぐ側にいて周りには誰もいないのに、私の名前を呼んだ彼の声は消えてしまいそうなほど微かだった。
「どうし、」
「しっ、戻ろう、この道は良くない」
良くない?
夜鳴さんに従う前に、私は道の向こうに目を凝らしていた。外灯もろくにない道は先へ行けば行くほど暗く、その暗がりを抜ければまた徐々に明るくなっていっている。
その、道の半ばに依然としてある暗闇に、私はやっと人間の姿を見た。じっと目を凝らして見つめ、瞳の中を夜闇に浸さないと分からないくらいだったけど、どうやら誰かが蹲っているようである。
「ひと……?」
「沙月さん、早く」
体温のない、あまりにも冷たい夜鳴さんの手が私の手首を掴む。私は行かなくちゃいけない。
行かなくちゃいけないのに、それより早く、蹲っていた人が立ち上がった。
「知っていますかって、聞いたのに」
「え?」
男性の声だった。言葉の端々が掠れている。でも、聞き覚えがある。
夜鳴さんが家に来たあの夜、鳴り響いたチャイム。
死体を知っていますかと問う、声。
あの人だ。
間違いない。
「やっぱり、知っていたんだ」
知っていたんだ、知っていたんだと呟きながら、彼は立ち上がった。私は動けなくなって、魅入られたように暗闇を見つめている。その顔は見えないくせに目が逸らせない。
「さ、沙月さん、行こう」
「でも、」
「沙月さん!」
焦ったように夜鳴さんが叫んでいる。私は動けない。暗闇に塗れたその人は、ゆらりとこちらに一歩を踏み出す。
ゆらり、ゆらり。
すぐ隣で、夜鳴さんが息を呑むのが分かった。分かったけれど、どうすることも出来なかった。
近付いてくる。
私は……!
「早く来てください、変な人がいて!」
私達の後ろで、聞き慣れた声がした。
……日野?
その声に気圧されたのか、暗がりのその人はじりじりと後ずさりを始め、突如走り出して素早く路地の向こうに消えた。
呆然として、消えた方向を眺める。
行ってしまった。
「知り合い?」
後ろから声が問いかけてくる。
私がのろのろと振り向くとやっぱりそこには日野がいて、見慣れた不機嫌顔で立つ彼は傍らに若い男性警察官を連れていた。走ってきてくれたのか、二人とも肩で息をしている。
「知り合いなの?」
「い、いや、知らない」
私は反射的に首を振っていた。夜鳴さんはまだ、ぴくりとも動かない。
大事無いならいいですけど、と若い警察官はほっと息をついた。
「ここってほら、通り魔事件の現場に近いでしょう?見回っていたんですよ。不審者の目撃情報も多いから気を付けてください……っと、良ければ一応、さっきの人の特徴を教えてくれるとありがたいんですが」
メモを取り出そうとする警察官を見て、硬直から立ち直った夜鳴さんがすかさず、すみませんと謝った。
「暗くて、よく見えなかったんです。誰かいるなってくらいで」
「そうですか……なら、仕方ないですね。家はどこです?近くですか?」
すぐそばだと答えると、真っ直ぐ帰ってくださいと忠告して警察官は去っていった。
「……何やってんの」
いつも淡々としている日野だけど、地の底から響いてくるような低い声で、ぽつりと呟いた。私の方を見ようともしない。私も彼を見ない……というか見れない。
でも、これだけは分かる。
「ひひ、日野さん、そんな怒らんでいいのよ……」
「ああ?」
怒っている……!!
「僕は怒っていない。何やってるのかと質問しているんだ」
ここで、何を、と繰り返す。そしてぎろりと夜鳴さんを睨む。
「そして、まだそんなのを連れているんだね」
「そんなのだなんて、何それ、言い方ってもんがあるでしょ。人に対してなんてこと言うの」
「出会ったばかりの女の家に転がり込むようなやつに気を遣うほど、僕は出来た人間じゃない」
刺々しく言い募る彼の言葉に、少し俯き加減のままの夜鳴さんはぴくりとも動かなかった。それを見て、日野の機嫌はますます悪化するわけだが。
「そんで、君には危機感が足りないよ沙月。通り魔事件があったって話を知らないのか?それとも、知っていながらこんな時間にふらふらしてるのか?そんな男を連れて?」
「それは……」
「さっきの男は知り合いか?明らかに不審だったが、あれと面識があるのか?」
「な、ない!ないよそれは!」
どうだかね、と皮肉って口元を歪める。いつもあまり明るい顔をしていない日野の表情は、私が慌てる度に暗澹たるものに変貌していく。
日野は心配してくれているんだ。
それはよく分かっている。
それを喜んでいる自分も、いる。
君にまた、そうやって心配されるという立場。まだ私は見捨てられていないんだという安堵。反吐が出そうだ。
「こんな暗くて人通りもないような路地を、そんな怪しい男を連れて歩くなんて僕には正気の沙汰とは思えない。君はもう少し、しっかりしなくちゃならない」
そう、そう、そう。
日野は大抵、いつだって正しいのだから。
その時、とてつもなく冷たい手が私の手首を掴んだ。その異質な温度に、反射的に手を引っ込めようとして、気付く。
「夜鳴さん……?」
「日野くん、だっけ」
今まで一言も発しなかった夜鳴さんは、そう言いながら顔を上げて日野を見た。顔面蒼白、今にもぶっ倒れそうだと心配しかけたところで、いつもだったと思い直す。
「なんでしょうか」
「さっきはありがとう」
警察を呼んでくれたことだ。
「いえ、僕は沙月が心配だったので」
「そう……沙月さん、帰ろう」
冷たい手が私を連れていく。
戸惑う私を無理矢理歩かせるように、夜鳴さんはもう一歩目を踏み出し、家の方へ、路地の向こうへ歩き出している。
「ひ、日野、ありがと、またね……!」
日野は何も言わなかった。夜鳴さんも、無言のまま歩く。
さっきの人、誰なんでしょう?
その一言が言えなくて、代わりに訊こうとした「大丈夫ですか?」すら喉の奥で消えて、私も俯いて歩いた。
ふと、空を見上げる。星も見えない暗い空を。
日野はどんな気持ちで、私達を見ていたのか。