第一話
拝啓、私へ
夜の音だけに、耳を澄まして。
遠く、遠く、夜の闇を切り裂いてサイレンの音。
静かな、いつも通りの夜だった。私は布団にくるまって、睡魔の薄い膜に包まれたまま眠っていた。
サイレン。
救急車。パトカー。
二つの不穏な音が入り混じっている。それは不思議と、私の中にざわざわとした落ち着かない何かを植え付けた。反射的に、事件があったのだと多くの人間が悟ってしまう。
夜が切り裂かれていく。
目を開こうと、もがく。
その時、肩にひんやりとした感覚があった。もがく私を安心させるように、その冷たい何かはゆっくりと肩を叩く。
まだ朝じゃないよ。
大丈夫だよ。
浮上しかけていた私の意識は、また冷水に溺れるように、そのリズムに引きずられて降下していった。騒がしい夜の音も何もかもが遠ざかり、全部消えて。
「おはよう、ございます」
「おはよう」
私から少し離れた壁際で、またしても毛布にぐるぐる巻きにされた夜鳴さんは一切寝惚けずに返事をした。この人、寝ていないんだろうか。
「よく寝れた?」
「んー、微妙かも……なんか騒がしかった気がして」
「救急車とか、パトカーとかね、近かったよ」
夢じゃなかったんだと呟きながら、手櫛で髪を整える。
「本当、怖いよね」
「……嫌な思い出でも?」
「搬送されると思っただけで嫌だよ」
死体だからね、と夜鳴さん。そういえば出会った時も救急車をやけに嫌がっていたっけ。
大きく伸びをして窓の外に目を向ける。今日もよく晴れていた。なんとなく怖くなってテレビをつける。
俳優の結婚報道と、遠く離れたとある県での殺人事件が一緒くたに、同じキャスターによって伝えられる。
今日も平和だ。
いつもと変わらない1日に安堵しながら、昨夜の不穏な空気は夢だったと思えるようになった自分に満足する。
「よっし、顔洗って来ますねー」
昨日の残りのペットボトル入り食用油を飲みながら、夜鳴さんは毛布の拘束から腕を引き抜いて軽く手を振った。いってらっしゃい。
僕も顔を洗ってくるねと夜鳴さんが毛布の拘束を解いて消えたところで、私は適当に、余って冷凍していた白米を解凍する。少し悩んでサラダを作った。最近、慢性的に野菜が不足し過ぎている。てきぱきと並べて1人朝食をとっているうち、彼が帰ってくる。
「あの、一応訊くけど朝ごはんは要ります?」
「ありがとう、でも、僕は要らないよ」
予想していた答えに、もう驚いたりしない。慣れたというより諦めた。現に何も食べなくても(顔色は悪いくせに)ぴんぴんしていることが、無理に口の中に何かしらを突っ込まない抑止力になっていた。
「……あの」
「何か?」
「じっと見られると食べにくいんですけど。昨夜から言おうと思ってましたが」
「ああ、ごめんねつい、新鮮で」
シャキシャキとレタスを食みながら首を傾げる。
「新鮮、とは」
「生きている人間が食事をしているのを間近で見るのは新鮮なんだ。そもそも機会が無いし、僕は出来ないし」
僕は出来ないし。
その一言がとても重くて、一瞬、レタスが酷く青臭く感じた。
それもすぐ消える。箸でつまんだそれを見つめながら、私は自分に違和感を感じた。
「だから、つい見てしまってね」
「見てて嫌じゃないんですか?」
「全然。僕だって昔はそうやって食事をしていたし、楽しいよ」
「ふーん……」
少なめに盛られた白米とサラダ。朝はがっつり食べられないけど、抜いたりはしない。高校生の時にユキが言っていたのだ。
時間が無くて朝ごはん抜くと、いつも怒られるんだよね。お母さんが、それこそ朝からカンカンで。
以来私が朝ごはんを抜かすことは無くなった。我ながら幼い、幼すぎる暗示だということは分かっている。それを遵守することで、案外自分が脆いのだと明らかにしてしまうことも、分かっている。
分かっているはずなのに。
それなのにこうして朝ごはんを抜かさない私は、誰がどう見たって幼かった。
でも。
「そういうことなら、私のつまらない食事風景で良ければいくらでも眺めてどーぞ」
冗談めかして言う。
「じゃ、遠慮なく」
私はもう、幼くない。
新たな意味を得て、私は暗示に暗示を重ねる。
貴方の為だから、と。
「昨夜の事件知ってる!?」
ユキはぐっと身を乗り出した。
「殺人事件だったらしいよ!」
「あ、うん、そう」
「何よ沙月、反応薄い」
「そこまで楽しそうに言われると、なんか怖いとか嫌だとか感じる前に冷める」
つまんなーいと暴れる能天気な友人を睨みながら、ところでどうしてこの人は私の家にいるのだろうと真剣に悩む。事前に連絡を入れるとかそういう常識的な考えはないのだろうか……?
「何よ、身近なところで殺人事件だよ?怖いでしょ?」
「んー……まあ、確かに」
ちらりと横目で夜鳴さんを盗み見ると、彼はいつも通り微動だにせず、穏やかな顔でユキを見ている。気にしてはいなさそうだ。
「まあ、知れて良かったよ。道理で昨夜はうるさかった気がしたんだよね」
「うるさかったってあんた、現場めっちゃ近かったじゃない、わんわんとサイレン鳴ってたでしょ?」
「寝てたんだもの」
「ユキちゃん、にわかに信じられない……」
「うっさいわ」
事件現場はここからそえ離れていない路地裏らしく、確かに物凄くうるさかったことだろう。どうしてか私は安心安眠してしまっていたわけだが。
「んーと、夜鳴さん、だっけ?君は気付いたの?」
「うん、すごく近いなと思っていたよ」
ほぉらあんただけじゃないとユキがこちらを見る。だから、寝てたんだってば。
これみよがしにため息をついたかと思うと、とにかく沙月は危機感が足りないと怒られた。
「殺人事件がこんな身近で起こるなんて危ないったら。通り魔だって、物騒にも程があるし。しっかりしなきゃダメよ」
「んー、ありがと」
確かに私には危機感が足りない。例え切羽詰っても、途端に自分の危機が他人事のように感じてしまうのだ。
「夜鳴さん、沙月をよろしくね、こいつ頭の中結構スカスカだから」
「余計なお世話だ!」
そう怒ったものの、任せて、と微笑んだ夜鳴さんを見て力が抜けた。
それにしても、通り魔。
一体どこの誰が、誰を傷付けたのだろう?
考えたってわかるはずがないのに、知ればつい考えてしまう。
「死ぬのは良くないね……」
ぽつり、と夜鳴さんが呟いた。