第三話
「ねえ、美味しいですか?」
「勿論。沙月さんは?」
「美味しいですよそりゃ」
ナイフをハンバーグの腹に突き刺しながら答える。
「なんで、睨むのかな?」
「不満だからですよ!そりゃあ!」
「美味しくないの、?」
「美味しいと言っているでしょうがー!」
美味しい店を選んだのだ。雰囲気はお洒落だけど適度に店内は暗く、眠気を誘うような暖かい光に満たされている。落ち着いている空気は間違いなく私の好みだ。ハンバーグは小さめだけど私には丁度いい。悪いところなんてない。
ないのだが。
「とても、とても不満なんですよね!」
「だからどうしてなのかな……」
「見ての通りです」
夜鳴さんは真向かいで両手をテーブルの上に乗せて、身を乗り出すようにして私を眺めている。にこにこと。そりゃあもう、にこにこと。
「……まさか本当に何も食べないとは思いませんでした」
「事前に言っただろ?」
「言ってましたけど!店に入れば折れると思ったんです」
「食べられないものは食べられないんだよ」
だからって、まさか水だけとは。
彼の前にはグラスに入れられた水だけ。
「とても美味しい水だよ」
「どうでもいいわ……」
不貞腐れて、乱暴にハンバーグを口に運ぶ。真面目に食事をしていたら食べにくくて仕方がない。これくらいの粗相はしないと、むしろ精神が安定しないのだ。
「ほんっと、どうでもいいわ!」
食べにくい。
食べにくいんだが。女性より活発に食事をするのは男性のマナーの一つなんじゃないかと思う私だが、これは間違っているのか?
いやもういい、何か頼んでくれればそれでいいのに。
「もう!!」
ひょいひょいとヤケになって食事を進める。こうなったらさっさと食べ終えてしまうに限るのだ。私の速度に合わせて、少しペースを上げて夜鳴さんも水を飲む。そういう気遣いができるなら何か頼めよ!とは、言わない。
「いい店だねえ」
呑気に辺りを見回す彼を睨みながら、気に入ったなら良かったですともごもご呟く。
「こういう暗さ、僕は好きだよ。明る過ぎるよりずっと落ち着くね」
「死体だとバレにくいでしょ」
冗談めかして言ったのに、夜鳴さんはすっと笑みを消してありがとうと言った。
「嘘です。私の趣味」
「そう……ありがとう」
趣味だって言っているのに。
日はすっかり落ちて真っ暗だった。
「本当に何も食べないんですか?」
「うん、いらないよ」
顔色は最悪。でも、今まで本当に何も食べないけど辛そうな感じは見受けられない。むしろ公園のベンチの下から這い出てきたときより随分元気そうである。
本当に大丈夫なの?
いきなり倒れたりしない?
不安になってそう訊くと、夜鳴さんは笑って、もう死んでるから大丈夫、なんて大丈夫なのかどうなのか分からない答えを返した。
「死体……か」
イオリさんも言っていた。昨夜に訪ねてきたあの気味の悪い人も言っていた。夜鳴さんだけじゃない。
「そうだよ?」
「んー」
確かに死体並みの青白さだけど、動くし喋る。死体は動かないし、もちろん喋らない。普通に考えればただの具合の悪そうな人なのだが、こうも色んな人から言われると分からなくなる。
私の考えは、今まで生きてきた現実に裏打ちされているだけの脆いものだ。
ゆっくりと家の方向に歩いていると早足ですれ違った女性と夜鳴さんの腕がぶつかった。
はっ、と女性が息を吸い込む音が聞こえた。私達を振り返る。夜鳴さんをじっと見つめる。
夜でもこの時期、そう寒くはない。
「沙月さん……路地裏、通らない?」
「いいですよ」
あの冷たさ。どんなに温めても決して熱を持たない肌の異質な存在感。それを感じた時の悪寒を、私はまだ忘れていないはずなのに。
私達は逃げるように路地裏に消え、表通りの外灯の光が届かないところまで早足で歩いた。
ごめんね、と夜鳴さんが囁く。僕といると、表も堂々と歩けやしない。
確かにそれは不便なのだろうけれど、不思議とそうは思わなかった。むしろ何か特別なことのような気がして、自然と微笑んでいた。
「静かな方が好きですよ」
そう。
ただ一言呟いて、夜鳴さんは黙った。
夜闇にどっぷりと浸かった路地裏は、彼と歩くと不思議なことに安心感をもたらした。まとわりつくような暗さが私達を隠してくれているように感じる。
世界から、誰かから。
もしも誰かが私達を見ていたら、きっと馬鹿だと思うだろう。なんて不安定で不確定な関係だと言われてしまうだろう。そうとわかっていながら実感が伴わない私は、多分大多数の人と大きくずれているのか、あるいは大切な感情が麻痺してしまっているのかもしれない。
考えるのは好きだ。
自分のことをよく分析する。把握する。
それでもどうしようもないことが存在すると、私は既に知っている。自分のことすら思い通りにはならないのだと。
後ろ指さされるような関係でも構わないと、どこか投げやりな心。一人になるより随分ましだと思ってしまう、麻痺してしまった孤独な心。満たされるならば。
満たされるならば。
例え出会ったばかりで。
素性が分からなくて。
死体であっても、構いはしない。
「沙月さん?」
「なんですか?」
私は何事もなかったかのように返事をする。
「今日はありがとう」
一体何度、お礼を言われたのだろう。またか、と笑って彼の顔を見上げた。青白くてどこか異質な、人間の顔なのに人間の顔ではないようなそれ。寒気がするような黒い瞳。吸い込まれてしまいそうなそれを、少し長めの髪が時折隠す。
「楽しかったよ。必要なものも買えたし、久しぶりに生きている感じがしたんだ」
「生きている、感じ」
「そう。なんだか生きているみたいで。楽しかったよ」
ありがとう。
彼はそう繰り返して微笑んだ。
「私で良ければ……」
心の中で何か、おぞましいものが蠢いている。それは私の身体中に広まって、言葉すら支配する。私は私でなくなる。私は新しい私になる。私は元の私に戻る。私は。
私は。
「何度だって、お付き合いしますよ。楽しい1日になるように!」
「……ありがとう、期待してる」
胸のあたりを痛みが貫いた。私の肺を真っ赤な煙が満たしている。
息が苦しい。
痛い、痛い。