第二話
出掛ける準備に時間をかけない私は、てきぱきと着替えて化粧をし、いつもより多めにお金を持った。夜鳴さんは準備いいですかーとリビングを覗くと、彼はリュックの口を開いて中を覗き込んだまま、静止していた。
「おーい、夜鳴さん?」
「え、何?」
彼がこちらを向く。動きを止めると本当に1ミリも動かないこの人は、結構心臓に悪い。
普通なら呼吸もするし、完全に動かないってことは有り得ないんだけど……。
「なーんでもないです。準備終わりましたけど、夜鳴さんは大丈夫ですか?」
リュックの中を整理してたんだ、と笑う。中に詰め込まれていたらしい古いシャツやズボンが丁寧に折り畳まれ、床に積み重なっている。
新しく買った服を入れるためにスペースを確保したらしい。古い服の処分は帰ってきてから考えよう。
夜鳴さんの希望で、私は空いているペットボトルを二本用意した。それぞれに水と油を注いで彼のリュックに入れる。小まめに補給したいけど人前で食用油のボトルを出すわけにいかないしと言われて、まだラベルを剥がしていないものを探して渡した。
「ここ20年、さっぱり人とまともに関わらなかったから気にしていなかったけど、流石に服も買わなきゃなあ」
前向きに捉えてくれたみたいだ。
そうして私達は準備を終え、自称死体の数年ぶりの服選びに繰り出したのである。
「趣味に合わせますけど、どんな服がいいですか?」
「シンプルで目立たないものがいいな」
「他にこだわりは……」
「長持ちすると言うことなし」
「うん、なるほどね」
某安くてシンプルで機能性重視の店に目星を付け、夜鳴さんの希望で極力人通りの少ない道を選んで移動する。めちゃめちゃ暑いわけではないけど、まだ、長袖長ズボンには早い季節だ。夜鳴さんの格好はむしろ少し目立ちそうで怖い。肌の露出を極力抑えるために、加えて目深に帽子までかぶっているのだから。
「むしろ怪しいですよ?」
「……腕くらい捲ろうかな」
すっと捲り上げて露になった腕は、やっぱり酷い血色だ。青白くてするりと滑らかで、血管が一切浮き出ていなかった。
日の光すら避けるように歩いてたどり着いたのは、駅前にある目的の店。ガラス越しに眺めた店内は、決して空いているとは言えそうにない。
「人がたくさんいるね」
「大丈夫ですか?」
「店に入るのだってここ数年無かった。最近は、誰かに買ってきてもらっていたからね」
油とかさ、といたずらっぽく微笑む。
「久しぶりの感覚だよ」
2人で並んで自動ドアをくぐる。冷房が効いた冷たい空気の中に包まれて、隣の人間の異質な体温が紛れてしまえばいいなと、多分必要の無い心配をした。
夜鳴さんは細身で身長もそこそこ高いから、大抵の服は似合ってしまう。見た目がいい人間はこういう時に困らなくていいなと皮肉っぽく思う。
「何にやにや笑ってんの?」
「いえ……ああほら、こんなのなんていいんじゃないですか」
濃い紺色のシャツを差し出す。彼のリュックから出てきた服をちらりと見たけれど、どれも黒とか白とか、色味のないものばかりだったのだ。
「うん、シンプルだね」
「でしょ、似合いますよ絶対」
本音を言うと、紺色のシャツを着せるのは私の趣味である。
「買うよ」
半袖のものも買わせようとしたけれど、夏は捲ればいいからと言って断られてしまった。
何枚かシャツとズボンをカゴに突っ込み、ふと気付く。
「そういえば夜鳴さん、お金をあるんですか?」
「失礼だな、あるよ」
無かったら買ってあげようと思っていたのだけれど、必要の無い心配だったらしい。
「沙月さんは買わなくていいの?」
「この前買ったばかりなんですよ」
「そう……じゃあ僕、会計してくるね」
ふらりと頼りない背中が遠ざかって、彼の右手が帽子を押さえる。腕ならまだしも、顔色を見られたら流石にぎょっとされてしまうかも知れない。
私はさり気なく辺りを見回して、どうしてだろう、笑みをこぼした。夜鳴さんは相変わらず俯いたまま、てきぱきと会計を済ます店員の前で財布を取り出す。
そんな貴方を、私は少し離れたところで待っているのだ。
「結局何か買ったんだね」
袋を持ったまま壁にもたれていた夜鳴さんは、私を見つけるなり微笑んだ。
「夜鳴さんにプレゼントですね」
「僕に?」
まず出ましょうと、私は珍しく先頭を切って外に出る。日差しはさっきより強くなっている。
はい、と小さな袋を手渡した。大したものではない。
「……ベルト?」
「このくらいのお洒落なら、実用性もあっていいですよね」
焦げ茶色のベルトだ。深緑や緋色の合成皮が編み込んである。
「ありがとう、嬉しい」
「いーえ」
「嬉しいよ」
「分かりましたって」
「……ありがとう」
「何回言うんですか」
笑いながら、このままだと延々とお礼を言われそうだと話題を変える。隣接している靴屋を指差して、ついでに靴も買いましょう、と。夜鳴さんはありふれたスニーカーを履いていたけれど、もうすっかり履き潰しているみたいだったのだ。
「あら、夜鳴?」
スニーカーが並ぶコーナーに佇んで微動だにしない夜鳴さんに話しかけていると、突然、後ろから声をかけられた。
彼と私は弾かれたように振り向く。
「やっぱり夜鳴じゃん、まだ生きてたんだ。あ、死んでたんだ」
背の高い女性だった。黒い服に黒いズボンを履いて、黒髪をポニーテールに纏めている。メガネだけが赤ぶちだ。
「イオリ、?」
「相変わらず不健康そうで何より」
イオリ、イオリじゃないかと夜鳴さんがひたすら驚いている。知り合いらしいが……。
「化粧でもしたら?顔色悪すぎて目立つね夜鳴、少しはその子に気を使ったらどうなの、夜鳴」
イオリと呼ばれた女性は、ぴくりとも表情を変えないまま私に視線を移した。
「夜鳴に新しい知り合いが出来るなんて驚き。初めまして、私、イオリ。よろしく」
「ど、どうも、後藤です」
「……ゴトウ?下の名前はなんなのゴトウ。私、知り合いに同じ苗字の人間がいるから呼びにくいんだ」
沙月ですと言うと、イオリさんは満足そうに頷いた。いや、表情が変わらないから満足なのかは分からないけど。
「そう、よろしくサツキ。ところで、サツキは死体愛好家だったりするの?」
……は?
「物好きなんだねサツキ、理解出来ないけどいいと思う、夜鳴はつくづく幸運。よかったね」
「ま、待ってくれイオリ、話を勝手に持っていくな」
「あら、失礼」
イオリさんの目がすっと細められる。
「まさか夜鳴、死体だって言ってないの?」
「言ってるよ!」
ならいいの、とイオリさんは平然と頷く。
死体。
また、死体という言葉。
こうも第三者から言われると、流石に夜鳴さんだけの冗談と思えなくて混乱してしまう。
頭が痛い。
「いいよ沙月さん、こいつの言うことは気にしないで……イオリ、僕には僕のペースがあるんだ」
「なるほど、ごめんなさい夜鳴」
彼女はちょっと首をかしげて私と彼を見比べる。
「私、夜鳴とは数年前に知り合ったの。私とは違ってこいつは年を取らないから憎たらしい」
ちょっとズレたことを言う彼女は、それでも淡々と言葉を吐く。機械みたいだなと、私は呆然とイオリさんを見つめていた。
最初こそ驚いたものの、夜鳴さんは落ち着きを取り戻してほんの少し微笑んだ。彼女は何かとサポートしてくれるんだよ、と説明を挟む。
「夜鳴を見かけたので追いかけて来てしまった。私は仕事に戻る。サツキ、夜鳴をよろしく」
「は、はい」
気付くか気付かないかぎりぎりの角度でお辞儀をして、颯爽と彼女は立ち去ろうとする。背筋をぴんと伸ばして、凛とした空気さえ感じたが……。
「待ってイオリ、出口は反対だよ」
「あら、失礼」
何事も無かったように逆方向に歩き出すイオリさんを見ながら、強い不安感に囚われた。
「沙月さん、気にしないで……靴選ぼう」
「あ、うん」
やっぱり彼は、今のスニーカーとよく似たものを選んで買った。新しい靴は変な感じがするねと困ったように笑う。こうして見ていると、顔色の悪さもあまり気にならないのだから不思議だ。
途中、ちょっといいかなと夜鳴さんがペットボトルを取り出したから、私も近くの自動販売機に走ってお茶を買って休憩する。まず油を、次に水を喉の奥に流し込むようにして飲む彼を見つめながら、つくづくおかしな人だと嘆息する。出会ってから1度も、食べ物を口にするところを見ていない。
「夕飯どうします?」
彼も私もゆっくり動く方だから、買い物は結構時間を食う。服屋と靴屋で買い物を終えて、駅の周辺にある店をふらふらと冷やかしているうちに、もう日が暮れ始めていた。
「沙月さんが行きたい店に行こう」
「何か食べたいものとかないんですか?」
「だから、僕はものを食べないよ」
「でもですね……」
帽子の奥の夜鳴さんの顔は暗く、血色も致命的に悪い。
「僕は食べられないし、食べなくてもいいんだ」
何度言っても聞いてくれないだろう。
「肉でもたーべよ」
「うん、沙月さんはもう少し太ったほうがいい」
「夜鳴さんも太ったほうがいいですよ」
「死体が太ったら腐り始めてる合図だと思うよ」
「それは嫌ですね……」
「だろ」
日が沈む。
夜が来る。