第一話
拝啓、私へ
まだ、暗がりばかり歩いて。
私は奥の部屋の棚の、さらに奥から引っ張り出してきたメモ用紙とにらめっこをする。日に当たってないおかげで文字はそこまで掠れていないものの、古い紙はすっかり黄ばんでいた。
数字の羅列。
少し考えてから、スマホよりあまり使っていない固定電話を選んで一つ一つ打数字をち込んでいく。1度も真面目に向き合ったことのない電話番号は、うっかりすると間違えてしまいそう。
「出るかな」
「どうでしょうね……」
残念ながら、不安そうに呟く夜鳴さんを安心させることは出来ない。
指が震えている。私は絶望している。
もし、誰かが出てしまったら。
もし、その人が全てを明かしてしまったら。
そうしたらもう終わりだ。こんな不安定な関係は終わり、おそらく夜鳴さんは出て行ってしまうだろう。昨夜会ったばかりの人でもこんなに寂しく思うのは、きっと夜が怖いから。一人の夜が怖いから。
それでも私は沢村さんに電話をかけるのだ……こんな思いを悟らせない為に。
数秒の間の後、呼出音が鳴る。
繋がったのだ。
誰か出るだろうか?それとも?もう随分古い番号だ、出なくったって不思議じゃない。
出るな、出るな。
お願い……!
『はい、もしもし』
心臓が止まってしまったかと思った。
『もしもし?』
「は、はい」
慌てて息を吸い込み返事をする。夜鳴さんがこっちを見ている、その視線を痛いほど感じる。
「もしもし、あの、私、後藤と言います。後藤沙月、です」
『ああ、後藤沙月さんね』
随分軽い調子で話すその人は、どうやら若い男性のようだった。受話器の向こうはなにやら人の話し声が五月蝿い。
『申し訳ないですけど、沢村は今いないんですよ、出張で』
数日、長けりゃ1週間かかりますかねーと欠伸混じりに言う。
『帰ってきたらこちらから折り返し掛けさせて頂くんで』
「は、はい、ありがとうございます」
『後藤さん』
「なんでしょう」
男性の声は怠そうに私の名前を呼ぶ。しかしそのどこかにさっきとは違う、張り詰めた何かがあるような気がした。
『お変わりありませんか』
「ええ、特に……」
『……そういうもんすかね。すいません、失礼します』
そういうもんって、どういうことだろう。
含みのある言い方を問い詰めたい気持ちもあったけれど、気付かせないように抑えて礼を言った。少し経って、電話をかけた方が先に切るのが礼儀だったかと思い出して、慌てて耳からスマホを話して切った。
数日、長くて1週間。
それが私にとって短いのか長いのかは分からない。分からないけれど、少なくとも今すべてが終わってしまうよりかはマシだと思うことにした。
考えようによっては、一緒にいる時間が長くなる事態だけは避けなくちゃいけなかったのかもしれないけれど。
どんなことであれ、相手が誰であれ、時間を費やすことは心を費やすこと。
私と相手の心を少なからず切り取って、交換してしまうこと。混じってしまうこと。影響されるということ。
「沙月さん?」
「あ……ごめんなさい、ちょっと考え事をしてて」
「電話、どうだったの?」
眉根を寄せて彼は私と、固定電話を見比べる。その視線を追うように私も自分の右手が触れたままのそれに目を落とした。
「沢村さんは出なくて……1週間くらい経ったら折り返し、電話をかけてくれるそうです」
「そう。思ったより早いんだね」
そうですかね、と曖昧に笑っておく。気付かれないようにほっと息をついた。
遅いと言われるよりずっといい。私は夜鳴さんの深く黒い瞳を見つめた。まだ心配そうにこちらに向けられているそれの中を覗いても、何かが見えるわけではなかった。ただ殺風景な私の部屋と、どうしてか泣きそうな情けない自分の顔が淡々と映っているだけ。
「それまで、ここに居なきゃダメですよ」
「お世話になるよ」
グラスを貸して、とテーブルの上に置いていた昨夜も使ったそれを手に取って、彼は台所へ消えた。蛇口を捻る音、水音。グラスをすすいでいるみたい。それを濡れたまま持って戻ってくる。彼のぱんぱんに膨らんだリュックの中からまた食用油を取り出て、並々と注ぐ。
「……飲む?」
「まさか」
それ、美味しいのだろうか。
そう訊くと、夜鳴さんはおどけたように私の真似をして、まさか、と笑った。
「生きるために必要だから飲むんだ。おっと、死に続けているため、かな」
冗談なのかどうなのか判断がつかなくて、私は曖昧に微笑む。生きているとか死んでいるとか、そんな難しい問題に、きっと私は向いていない。
「ねえ」
「どうしたの?」
「そのリュック、何が入っているんです?」
「水と油、あと着替えかな」
着替え。
見ると、開いたままのリュックの口から、丁寧に畳まれたシャツやズボンが見えている。ただ……随分色褪せているように見えた。というのも、今夜鳴さんが来ている藍色のシャツも、元はもっとはっきりした色だったはずだろうが、今はぼんやりと霞んだように色落ちしているのだ。
「随分古いんじゃないですか?」
「そうなんだよね……数年前に買い揃えたっきりなんだ」
「それ結構経ってるじゃないですか」
「死ぬ前に買ったやつも混じってるよ」
死ぬ前、というところには触れないようにして、めちゃめちゃ古いじゃないですかと驚く。そう言われてみれば、ズボンも所々ほつれ、破けている。
特に流行もないような服ばかりで不自然さなんて抱かなかったけど、気付けば結構目に付くものだ。
「なんで買わなかったんですか!?」
「買いたくなかったわけじゃないんだけど、人がいるところに行かないし」
「ネットで買うとか」
「定住しないし」
「誰かに貰ったり」
「関わる人殆どいないし」
「……だって酷いですよ、中には20年物も」
「知ってるよ何度も言うなよ」
実際使い回してるから苦労してないしなぁと首を掻いている。
そういう問題ではないと思うのだが。
油をごくごく飲みながら遠い目をしている自称死体を眺めながら、本日の予定を勝手に決定していく。
「……よぉし」
「どうしたの?」
「奥で着替えてきますね」
「どこか行くの?」
背中を丸めて床に座り、いそいそと油をリュックに仕舞う夜鳴さんを見下ろして宣言する。
1週間の付き合いになるだろうけど、私はそれを無視することにした。終わりが見えていても、終わりに向かってただ歩くのは嫌いな自分である。
「買い物、行きましょ」
「もしかして……服の?」
いらないよと言いかけた彼を遮って、最高の笑顔を向けてやる。
「もちろん!」