『蒼の賢者はお前だったのか!?』——婚約を偽聖女に譲って不遇な病弱第九王子に嫁いだ私、今更泣きつかれてももう遅いです
大霊殿の豪奢なシャンデリアが、大理石の床を白銀の光で照らし出していた。
「アシュフォード卿。ヴィヴィアン嬢に望む褒美をとらせよう」
玉座に鎮座する皇帝陛下の重厚な声が、祝宴の喧騒を切り裂いて広間に響き渡る。
その場に居並ぶ貴族の誰もが、確信に満ちた笑みを浮かべていた。
私と第一皇太子ユリウス殿下は、幼馴染にして公認の仲。
この大夜会で、私が第一皇太子妃の冠を請い願うことなど、天地の理にも等しい既定事項だと信じて疑っていなかったのだ。
壇上に立つユリウス殿下は、さも誇らしげに、施しを与えるような傲慢な笑みで私を見下ろしている。
その斜め後ろでは、真紅のドレスを纏った左相の令嬢エレナが、扇の陰から勝ち誇ったような流し目を送っていた。
——ええ、皆様。
どうぞ、その浅ましいご期待通りに。
私は深紅の絨毯の上で、寸分の乱れもない完璧な淑女の礼を執り、床へと膝を折った。
「皇帝陛下。臣女に、一つだけ切なる願いがございます」
冷徹な静寂の中、私の涼やかな声だけが落ちる。
「——臣女は、第九皇子ラインハルト殿下への降嫁をお許し願いたく存じます」
ガシャァン!
乾いた金属音が、静まり返った広間を切り裂いた。
ユリウス殿下の手から滑り落ちた銀杯が、深紅のワインを撒き散らしながら大理石の上を転がっていく。
凍りつく空気。
誰一人として息をすることすらできない完全な静寂の中、
皇族の最末席で、黒い旧式のマントに身を包んだ病弱な青年が、激しく胸を押さえて咳き込みながら、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
(あら、素晴らしいお顔ですこと、ユリウス殿下)
私は伏せた睫毛の奥で、氷のように冷たい笑みを唇に刻んだ。
七年間、私の知謀を貪り尽くし、功績をあの偽聖女に与え、最後は私に絞首刑の麻縄を賜った元婚約者様。
二度目の人生——
今度はあなたが、私の差し向けた絶望の底で、骨の髄まで泣き叫ぶ番ですわ。
暖炉の炎の中で、羊皮紙が半分ほど灰になった時、公爵邸の扉が乱暴に開け放たれた。
「ヴィヴィアン」
黒衣のマントを翻して現れたのは、第一皇太子ユリウスだった。
背後には威圧感を放つ近衛兵の列。
彼は赤々と燃える暖炉を見下ろし、それから私を見つめた。
「何を燃やしている?」
私は最後の一片を、鉄の火掻き棒で炎の奥へと押し込んだ。
「……ただの、過去の書き損じですわ」
ユリウスは無造作に部屋へ踏み入り、執務机に目を留めた。
そこにある硝子のインク壺は、とっくに冷え切っている。
「明日、父上が大霊殿にて大夜会を催される。そこで、余とお前の婚約が公に下賜される手筈だ」
当然の権利を告げるような、酷く傲慢な響き。
「ヴィヴィアン、よくぞここまで耐えたな。ようやくお前の苦労も報われる」
私は伏し目がちに、冷めた紅茶を注いだ。
「おめでとうございます、殿下」
ユリウスは不快そうに眉をひそめた。
「余におめでとうだと? 我らの婚約だぞ」
「殿下は今や帝国の揺るぎなき皇太子。ご成婚は国にとって至上の慶事にございます。まずは臣女として、殿下の栄達を言祝ぎ申し上げたまでです」
ユリウスは値踏みするように、私をじっと見つめた。
「……お前、今日の様子がおかしいぞ」
「どこがでございますか?」
「余を見るその目だ」
彼は吐き捨てるように言った。
「まるで……見ず知らずの他人を見るような目をしている」
私はただ、静かに微笑んで視線を落とした。
(ええ、他人ですわ)
(七年間、あなたのために命を削ってきた道具の役目は、もう終わりましたの)
前世のこの夜も、彼は私の部屋を訪れていた。
当時の彼は冷宮育ちの不遇な第五皇子であり、私は軍部卿を務めるアシュフォード公爵家の令嬢だった。
彼は机の前に座り、謎の天才軍師『蒼の賢者』から届く密書を貪るように読み耽っては、瞳をギラつかせていた。
『ヴィヴィアン、この蒼の賢者は天賦の才だ。どの派閥を切り崩すべきか、帝国の輸送網のどこに横領があるか、政敵の弱点がどこにあるか、すべて完璧に見抜いている。この者さえ手中に収めれば、帝国の半分は余のものだ』
私は微笑んで茶を淹れ、「おめでとうございます」と答えていた。
その密書のすべてが、毎夜この机の上で、私が血を吐く思いで綴ったものだとは教えずに。
彼が帝位を掴んだ暁に、真実を明かそうと思っていた。
だが、届いたのは白い毒杯と絞首刑の麻縄だった。
彼が即位する前夜、宰相令嬢エレナが私の地下牢に現れた。
手には、私が彼に送り続けたすべての密書。
『ヴィヴィアン様、これらはすべて私の功績になりましたの。殿下は仰いましたわ。“蒼の賢者”たる才知こそが皇后に相応しい、とね。……ああ、あなたのお父様の内通の証拠なら、もうすぐ陛下へ届きますわ』
父は獄中で毒を賜り、私は首を吊られた。
死の間際、牢の外に立ったユリウスは、虫唾の走るような冷徹さで言い放ったのだ。
『ヴィヴィアン、卿の父のことは不本意だった。だが、アシュフォードの兵権が強大すぎては、余の枕席が定まらぬのだ。安心しろ、お前が死んだ後は手厚く追封してやる』
その時になって、ようやく理解した。
彼が欲しかったのはアシュフォード公爵家の軍権と、背後に潜む『蒼の賢者』だけ。
渡り終えた橋は、燃やされるのが常。
七年の情愛など、私を縛り付けるための都合のいい鎖に過ぎなかったのだ。
「殿下」
私は現世へと意識を引き戻した。
「明日の夜会、謹んで参内いたしますわ」
ユリウスは満足げに頷き、扉の前で振り返った。
「ヴィヴィアン、長年支えてくれたこと、感謝しているぞ」
前世と寸分違わぬ、欺瞞に満ちた誠実な響き。
「勿体なきお言葉にございます」
——二度目の人生、今度はあなたを地獄へ叩き落とす番ですわ。
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翌夜、大霊殿の夜会。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちの視線が交錯していた。
玉座には威厳ある皇帝が鎮座し、一段下には第一皇太子ユリウス。
その斜め後ろには、真紅のドレスを纏ったエレナが、勝ち誇ったような視線を私に注いでいる。
前世では、この宴で皇帝から私を皇太子妃に、エレナを側妃に任ずる勅命が下された。
父は喜びに震えて拝礼し、満場の拍手が鳴り響いた。
だがその瞬間から、アシュフォード家を滅ぼす破滅の歯車が回り始めたのだ。
「アシュフォード卿」
皇帝の重厚な声が広間に響き渡る。
「ヴィヴィアン嬢の功績は予の耳にも届いておる。見事な娘を育て上げたな。褒美として望むものがあれば、何なりと申してみよ」
全貴族の視線が私へと集中する。
父が進み出ようとした。
前世の父はここで『すべては陛下の御心のままに』と頭を垂れ、皇帝が待ってましたとばかりに婚約を下賜したのだ。
だが——。
私は父の前に進み出ると、完璧な淑女の所作で、床へと膝を折った。
「皇帝陛下。臣女に、一つだけ切なる願いがございます」
皇帝は興味深そうに目を細めた。
「申してみよ」
私は深々と額づいた。
「——臣女は、第九皇子ラインハルト殿下への降嫁を伏して願い出たく存じます」
ガシャァン!
乾いた金属音が、大理石の床に激突した。
ユリウスの手から滑り落ちた銀杯が、赤い果実酒を撒き散らしながら転がっていく。
静寂。
呼吸の音すら消え失せた広間に、皇帝の険しい声が落ちた。
「……ヴィヴィアン、正気か? 第九だと?」
第九皇子、ラインハルト。
卑賤な侍女から生まれ、生まれつきの虚弱ゆえに宮廷の最果てに放置された『影の皇子』。
皇族の末席に座る彼は、場違いな名指しに驚愕し、細い胸元を押さえて激しく咳き込んでいた。
その青白い美貌には、隠しようもない動揺が浮かんでいる。
「アシュフォード公爵令嬢……」
掠れた、壊れ物のような声。
「貴女は、ご自分が何を口走っているのかお分かりなのですか?」
私は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見据えた。
知っている。
誰よりも知っている。
前世において、誰もが見下していたこの病弱な青年こそが、ユリウスの即位三年目に南部辺境から電撃的な反乱を起こし、帝都を制圧して暴君ユリウスを自害へと追い込んだ真の覇者であることを。
そして彼の傍らには、謎の参謀『小賢者』が仕えていたという。
牢獄の中でその噂を聞いた時、私はこの世にまだ自分の影を追う者がいたのだと涙したのだ。
「重々承知の上でございます」
私は凛とした声で告げた。
「陛下、伏してラインハルト殿下との婚姻をお許しください」
---
広間が爆発したような騒乱に包まれる。
「乱心したのか、ヴィヴィアン!」
皇后が扇子を取り落としそうになりながら立ち上がった。
エレナは口元を隠し、嘲弄の笑みを浮かべている。
「あらあら、ヴィヴィアン様は皇太子妃の重責がお嫌で、静かな隠居生活がお望みなんですのね? 第九殿下はお体が優れませんから、毎日の看病でお忙しくなりそうですけれど」
取り巻きの貴族たちから忍び笑いが漏れた。
父は蒼白になり、私の隣に跪いた。
「陛下! 娘は発熱で錯乱しております! すぐに屋敷へ連れ帰り——」
「お父様」
私は父の言葉を遮った。
「私は錯乱などしておりません。ただ、皇太子妃の座を欲していないだけです」
「ヴィヴィアン!」
ユリウスが壇上から駆け下りてきた。
私の前に仁王立ちになり、周囲に聞こえぬようギリリと奥歯を噛み締めて囁く。
「何の真似だ! エレナのことなら左相の差し金だ、余の本意ではない! 皇太子妃の座はお前のものだ、誰も奪えん! 立て、余と共に来い! 今の戯言は不問にしてやる!」
見上げる彼の瞳。
かつて私は、その傲慢な優しさに縋り付いていた。
機嫌を損ねるたび、彼は『不問にしてやる』と施すように言い放ち、私は安堵して許してきた。七年間、ずっとそうだった。
「殿下」
私は冷ややかな笑みを刻んだ。
「私は意地を張っているのではありませんわ。もう、いらないのです」
「……何がいらないと?」
「皇太子妃の冠も」
一拍の静寂の後、私は言い放った。
「——そして、あなた様も」
ユリウスが息を呑み、雷に打たれたように硬直した。
(いい気味ですこと、殿下)
私は皇帝に向き直り、再び頭を垂れた。
「ラインハルト殿下は母君を早くに亡くされ、お側でお支えする者もおりません。臣女が殿下の屋敷に入り、生涯をお支えする所存にございます」
皇帝は長い沈黙の後、低く嗤った。
「よかろう。許す」
呆然自失の父を見やり、皇帝は鋭く目を光らせた。
「見事な気骨だ、アシュフォード卿。お前は途方もない娘を持ったな」
---
屋敷に戻った後、父は私を先祖の霊廟へと連れて行き、扉を閉ざした。
震える背中。
「ヴィヴィアン、理由を言え! アシュフォードの軍権と皇太子の地位が結びついてこそ、一族の安泰があるのだ! あの死に損ないの落胤に嫁ぐなど、狂気の沙汰だ!」
私は冷たい石畳の上に立ち尽くした。
「お父様。皇太子が即位された後、我が家の軍権が無事で済むとお思いですか?」
父は息を呑んだ。
「……何だと?」
「ユリウス殿下が欲しているのはアシュフォードの兵であって、アシュフォードの人間ではありませんわ。婚姻はその兵権を奪うための罠。手に入った後、目障りな父上を彼が生かしておくはずがありません」
霊廟に、蝋燭の爆ぜる音が響く。
「馬鹿な……七年の情誼があるのだぞ……」
「軍務省で三十年を過ごされた父上が、情誼で成り立つ国家などないと一番ご存知のはずです」
私は一歩、父へと歩み寄った。
「後ろ盾も兵権も持たぬ病弱な皇子だからこそ、生き残るために我が家を絶対に裏切れない。彼を押し上げる方が、移り気な権力者に命を預けるより遥かに盤石な賭けなのです」
父は長い間、言葉を失っていた。
「……誰にそれを教わった?」
「夢を見ましたの」
私は静かに言った。
「アシュフォード家が冤罪で滅ぼされ、私が冷宮で首を吊る悪夢を。夢の中の父上は、最期まで無実を叫んでおられました」
振り返った父の目には、老将らしからぬ涙が滲んでいた。
「……馬鹿者が」
父は荒々しく顔を拭った。
「明朝まで反省室で頭を冷やせ。……だがヴィヴィアン、お前の言葉が真実なら、このアシュフォードの全軍、お前の賭けに乗せてやる」
---
輿入れの日は、冷たい小雨が降っていた。
帝都の西の外れにある第九皇子の邸宅は、荒れ果てた旧庭園を改装したもので、壁の漆喰は剥がれ落ち、門前に護衛の騎士すら立っていない。
祝宴の客など一人もおらず、古びた調度が並んでいるだけだった。
ラインハルト自らが出迎えた。
だぶついた礼服を纏った彼は、数歩歩くごとに激しく胸を掻きむしり、咳き込んでいる。
「ヴィヴィアン嬢……すまない。この屋敷には、満足な薪すら用意できなくてね」
痛々しいまでの痩躯。
だが、その双眸の奥には、消え残る炎のような光があった。
「殿下。私は安穏な暮らしを求めて参ったのではありません。奪われたものを取り戻すために参りました」
ラインハルトは虚を突かれたように目を見張り、自嘲気味に微笑んだ。
「取り戻すか……いい響きだ。恨みを呑む者ほど、しぶとく生き残るものだからね」
その夜、病が移るのを恐れた彼は書斎に籠もった。
私が煎じ薬を盆に載せて書斎へ入ると、彼は机に突っ伏して咳に喘いでいた。
薬椀を机に置いた瞬間、微かに鼻をくすぐる甘ったるい血の気配。
私の心臓が激しく跳ね上がった。
前世、ラインハルトが帝都奪還の際に掲げた第一の檄文。
『宰相一派は療養の名を騙り、霜蝕の秘毒を十五年にわたり皇子に盛り続けた』
無色にして微甘、熱を帯びると僅かに生臭い。
消耗性の肺病と全く同一の症状を引き起こす遅効性の劇毒。
「殿下、この薬はどなたが調合を?」
「宮廷医官の周判官だ。十年以上、診てもらっている」
私は無言で薬椀を掴み、暖炉の中の燃えさかる薪へと一気にぶちまけた。
ジュウッ——!
立ち上る青白い煙と、部屋に充満する甘酸っぱい毒の匂い。
ラインハルトの紫の瞳が凍りついた。
「殿下。これは薬ではありません。貴方を『都合よく病弱なまま飼い殺す』ための毒です」
「……証拠はあるのか?」
「薬の残滓を三日分保管してください。私が調べさせます」
私は彼の前に片膝をついた。
「殿下には一つだけお願いがございます。明日から、薬は捨てて飲んだふりを。そして、これまで通り病弱な皇子を演じ続けてください。……あとの始末は、すべて私にお任せを」
---
アシュフォード公爵家の軍医による徹底的な調査により、霜蝕散の成分が完全に証明された。
父は告発状を直接皇帝へ突き出すのではなく、十五年前、ラインハルトの母が変死した際の埋葬記録の写しを御前へ提出した。
そこには、宰相家の遠縁の署名が記されていた。
皇帝は何も語らず、ただその夜、周医官を辺境の皇室陵墓の墓守へと左遷した。
代わりに送り込まれたのは、父の腹心の軍医だった。
解毒薬を服用した最初の夜、ラインハルトは洗面器半分もの黒い血を吐き出した。
だが、血を拭った彼の瞳からは死相が消え去り、底知れぬ覇気の光が宿り始めていた。
「ヴィヴィアン……君は何故、ここまで私のために動く?」
青ざめた唇で、彼は私の手首を掴んだ。
「公爵家の権勢のためなら、私のような落胤でなくともよかったはずだ。君の目は……まるで昔からの知己を見るようだ」
私はそっと手を解いた。
「善人が悪人より先に死ぬのは、筋が通りませんから」
年が明けたある日、皇太子ユリウスが突如として屋敷を訪れた。
病気の弟を見舞うという名目だったが、彼の視線は私の執務机に注がれていた。
「ヴィヴィアン、来月の御前会議で北部軍の補給改革が審議される」
彼は以前と変わらぬ親密な声音で迫った。
「蒼の賢者からの手紙が、そろそろ届く頃合だ。余はそれを使わねばならん。お前が預かっているのだろう? 出せ」
私は冷めた茶を差し出した。
「殿下、賢者殿の手紙はもうございませんわ」
「なにを言う! お前が手に入らぬと言うなら、余のために似たような策をもう一度書け! 運河の物流、屯田兵、鉱山税、以前書かせたようなものを並べ直せば済む話だろう!」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「……殿下にとって、あの密書は適当に書き並べれば出来上がる程度のものに見えていたのですね」
「何だと?」
「金を計算し、人員を精査し、人心の動きを読む。一通の裏にどれほどの夜更けの灯火と帳簿の精読があったか、殿下は一度たりとも省みたことがおありですか? 殿下が求めているのは知謀ではなく、私の命を絞り出した油に過ぎなかったのですね」
ユリウスの顔が怒りに歪む。
「国政を小娘の意趣返しで語るな! 北方の十万の将兵が——」
「その将兵を導くのは軍部省であり、皇太子殿下、あなた様のお役目。私には露ほども関係ございませんわ。お引き取りを」
激昂して立ち去ろうとするユリウスの前に、奥から現れたラインハルトが立ちはだかった。
「兄上。病人ゆえ、客人の相手は疲れます。我が妻を無碍に煩わせることはご容赦願いたい」
「ラインハルト……貴様、余に逆らう気か?」
「逆らうなどと。ただ、余命幾許もない病人の最期の意地とお見逃しください」
ユリウスが毒づいて去った後、ラインハルトは私の肩にそっとショールを掛けた。
「ヴィヴィアン。もう二度と、あやつとお前を会わせはしない」
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ラインハルトの名で、朝廷に一本の上奏文が提出された。
帝都運河の輸送路改革案。
長年蔓延っていた中間搾取の手口、それを根絶する具体策、財政の黒字化に要する年数と利回り。そのすべてが寸分の狂いもなく記されていた。
提出の翌日、皇帝は財務卿を執務室に呼び出し、半日にわたって怒号を浴びせた。
そして三日後、上奏文の末尾には皇帝直筆の署名で『即座に施行せよ』との勅裁が下された。
朝廷は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。あの無能な第九皇子が、突如として国家の財政の要所を完璧に握り潰したのだから。
数日後、今度は皇太子妃となったエレナが乗り込んできた。
古びたサロンの椅子に腰掛け、優越感に浸りながら嘲笑を浮かべる。
「みすぼらしい暮らしですこと、ヴィヴィアン様。大見得を切って第九殿下に嫁いだ結果がこれでは、浮かばれませんわね」
「お茶をどうぞ、皇太子妃殿下。本日は冷やかしではなく、運河の上奏文の件でいらしたのでしょう?」
エレナの笑みが微かに引きつった。
「……あの上奏文、あなたが書いたのでしょう?」
「まさか。内奥の女に過ぎない私に、国家の物流など分かりかねますわ」
エレナは身を乗り出し、声を低めた。
「警告しておきますわ、ヴィヴィアン様。“蒼の賢者”は今や我が皇太子殿下の配下。殿下の覇道を阻む者は、皇族とて容赦はされませんことよ」
私は冷めた目で彼女を見つめ返した。
「私からも忠告を差し上げますわ。借り物の名は、身に余るもの。いつか本物の持ち主が取り立てに現れた時、利息をつけて支払う覚悟はおありかしら?」
エレナは顔色を赤黒く染め、ドレスの裾を乱暴に翻して去っていった。
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運河改革に続き、ラインハルトの名で『辺境屯田兵制の再編』および『塩鉄専売制の刷新』という二つの策が御前へ届けられた。
いずれも帝国を蝕む病巣を的確に抉り出す神算鬼謀。
皇帝のラインハルトを見る目は日増しに熱を帯び、対照的に、目立った功績を出せない東宮への風当たりは厳しさを極めていった。
そしてある深夜、屋敷の庭の雪柳の下に、黒ずくめの影が舞い降りた。
ユリウスだった。
「ヴィヴィアン」
月光の下に現れた彼の両目は、狂気じみた血走りに覆われていた。
「……お前だな」
私は回廊に佇み、眉一つ動かさなかった。
「深夜の不法侵入は、皇太子といえど弾劾の対象になりますわ」
「運河、屯田、塩鉄……あの三通の上奏文を、余は四十回読み返した!」
ユリウスはよろめきながら詰め寄ってくる。
「金を計算し、人員を精査し、人心を誘導する……七年前、蒼の賢者が余に寄越した密書と、一言一句同じ手筋だ! 天下にこのような策を書ける人間など、一人しかおらぬ!」
彼は私の三歩手前で崩れ落ちるように立ち止まった。
「この半年間、余の元には一通の密書も届かなくなった……! あらゆる書院を、隠居した賢者を血眼で探した! だが……答えはこれだ。策は老九の屋敷から出ている! ……ヴィヴィアン、答えろ! 蒼の賢者はお前だったのか!?」
夜風が吹き抜け、白い花弁が二人の間を舞い散る。
前世、牢獄の格子越しに彼が見せた冷たい瞳が脳裏をよぎる。
今、彼の瞳にあるのは傲慢ではなく、底なしの恐怖と、醜い後悔の色だった。
「ええ、そうですわ」
私のたった一言に、ユリウスの巨躯が激しく揺れた。
「七年……七年間、余は一体誰を探していたのだ……!? すぐ手の届く場所に、余のすべてを支えていた神童がいたというのか……!?」
彼は泣き笑いのような奇怪な表情で顔を覆った。
「なぜ……なぜ言ってくれなかった!?」
「申し上げていれば、殿下は私を一人の女として愛してくださったかしら?」
ユリウスは息を呑み、言葉を詰まらせた。
「ほら、お答えになれない。殿下が最初からご存知でしたら、私は愛されることもなく、ただの便利な道具として金庫に鍵をかけて閉じ込められていただけですわ」
「戻ってきてくれ、ヴィヴィアン!」
ユリウスは膝を折り、私のドレスの裾に縋り付こうとした。
「皇太子妃の席を空けて待っている! エレナなど廃嫡すれば済む! 東宮の全権をお前にやる、余の帝国の半分をお前にくれてやるから……!」
「殿下」
私は冷ややかに裾を引き抜いた。
「その言葉、前世でも聞き飽きましたわ。蒼の賢者の手紙は、もう二度と殿下の元へ届くことはありません。身の振り方を、せいぜいお考えあそばせ」
背後から、ユリウスの絶望的な絶叫が夜闇を引き裂いた。
「ヴィヴィアン! 蒼の賢者がいなければ、余は帝位に就けぬのだ! お前も知っているはずだろッ!?」
私は一度も振り返ることなく、扉を閉ざした。
---
焦燥に駆られたエレナと宰相一派は、破滅的な賭けに出た。
前世でアシュフォード家を処刑場へと送り込んだ悪辣な手段——公爵家が敵国と内通しているという偽造書簡の御前提出である。
父の筆跡を完璧に模倣し、軍部卿の印章を偽造し、軍の備蓄紙を用いた完璧な罠のはずだった。
だが、偽造密書が皇帝の元へ届いた時、父は御前で皇帝と優雅にチェスを指していた。
父は密書を一瞥し、豪快に笑い飛ばした。
「陛下、実によくできた作文にございますな。ですが一点、致命的な誤りが。書状には私が昨年の冬至、辺境の関所で敵国の密使と密会したとありますが……その日、私は帝都の大聖堂にて陛下の大祭に侍従しておりました。参列名簿は典礼省に保管されておりますが、関所にいた私がどうやって帝都の祭壇に立てましょうか?」
皇帝の指先で、黒のナイトがピタリと止まる。
調査は電光石火の勢いで進んだ。
軍部省の旧羊皮紙は、三年前の台帳により宰相府の文官が持ち出した記録が残っており、印章を彫った職人は帝都の裏路地で証拠隠滅の最中に拘束され、宰相の執事から金を受け取ったことを白状した。
わずか七日後、宰相家は一族全員が反逆罪で投獄された。
皇太子妃の地位を剥奪され、地下牢へと引きずられていくエレナの元を、私は静かに訪れた。
鉄格子の向こうで髪を振り乱したエレナが、血走った眼で私を呪詛した。
「ヴィヴィアン……! お前の仕組んだ罠ね!? あの台帳も、名簿のことも、最初から知っていたんでしょう!?」
「いいえ、エレナ様。公文書の管理記録など、職務を全うする者なら誰でも閲覧できるものよ。あなた方は偽造を企む際、台帳の確認すら怠って御前へ差し出した。私の罠が優れていたのではないわ。あなた方が最初から、軍人を“頭の回らぬ武骨者”と侮り切っていた、ただそれだけの自滅です」
エレナは絶望に顔を歪め、呻くように笑った。
「……勝ったつもりでいなさい! 皇太子殿下は、決して第九皇子を生かしてはおかないわ……!」
「いいえ」
私は冷たく見下ろした。
「殿下にはもう、誰かを陥れる時間など残されていませんわ」
---
宰相家の失脚により、東宮の翼は完全にへし折られた。
そして、ユリウスにとどめを刺したのは、十五年間隠蔽され続けてきた『霜蝕の秘毒』の全貌だった。
皇室陵墓へ左遷されていた周医官が、死罪を恐れて宰相家からの指示書と毒薬の調合記録をすべて密告したのだ。
実の弟を毒殺しようとした外戚を長年庇護し、帝国の軍権を私物化しようとした大罪。
皇帝が下した勅命は過酷を極めた。
皇太子ユリウスの廃嫡、平民への落魄、そして皇室陵墓への終身幽閉。
同時に、第九皇子ラインハルトを皇太子へと立てる勅書が帝都中に布告された。
宣旨の夜、私は屋敷の庭に立っていた。
豪奢な皇太子の正装を纏って戻ったラインハルトは、静かに私の前へと進み出た。
「ヴィヴィアン。この栄光は、君のものだ」
私は首を横に振った。
「いいえ、殿下ご自身の力で勝ち取られたものですわ。私はただ、羊皮紙を広げたに過ぎません」
ラインハルトは不意に手を伸ばし、夜風に乱れた私のショールをそっと直した。
「……言えなかったことがある。私が七歳の冬、母が死んだ冷宮の格子戸の隙間から、温かい桃のタルトをそっと差し入れてくれた少女がいた」
私の呼吸が止まる。
「大霊殿の夜会で、飢えたように菓子を見つめていた私を哀れんで、隠して持ってきてくれた十二歳の公爵令嬢……あの日から、私の世界は君だけだった」
ラインハルトの眼差しに、熱い光が宿る。
「ユリウスが失ったのは『蒼の賢者』という半身。だが、私が手に入れたのは……我が世界のすべてだ」
---
ラインハルトが皇帝に即位し、新たな元号が布告された日。
盛大な戴冠式にて、彼は自らの手で重厚な皇后の冠を私の頭上へと載せた。
万雷の大歓声が響き渡る中、私の脳裏に蘇ったのは、前世、冷宮の梁の上で首を吊りながら耳にした遠い祝楽の音だった。
あの時と同じ旋律。だが今、私は玉座の傍らで光を浴びている。
式典の後、私は警護を伴い、荒涼たる皇室陵墓の幽閉所を訪れた。
わずか一年で白髪交じりの老人のように変わり果てたユリウスが、鉄格子の向こうから私を虚ろに見上げた。
「……ヴィヴィアン。余を笑いに来たのか?」
「いいえ。殿下に、お返しするものがあって参りました」
私は一つの小箱を、格子の隙間から差し入れた。
その中には、かつて彼が蒼の賢者へと宛てた百三十七通の書簡が収められていた。教えを請い、感謝を述べ、野心を語り明かした血と汗の記録。
ユリウスは震える手でそれを抱きしめ、涙を流した。
「なぜ……これを持っていた?」
「自分がどれほど愚かな男に命を賭けていたのか、生涯忘れぬための戒めですわ」
ユリウスがすがるように顔を上げた。
「ヴィヴィアン……もし、来世があるのなら……余は必ず……!」
「来世など、金輪際ございませんわ」
私は彼の言葉を冷たく切り捨てた。
「前世で私が賜った絞首刑の縄で、あなたへの負債は清算されました。そしてこの百三十七通の手紙で、私の受けた情誼も返し終えました。……我らはもう、永遠の赤の他人にございます」
背を向け歩き出す私の背に、彼の泣き叫ぶ声が突き刺さる。
「ヴィヴィアン! 最後に一つだけ教えてくれ! 蒼の賢者として余を支えていた時……ほんの一瞬でも、余を真に愛してくれていたのか……!?」
私は歩みを止め、振り返らずに告げた。
「ええ。手紙を書いていたすべての瞬間、私は真実、あなたに命を捧げておりましたわ」
ユリウスが息を呑む気配。
「だからこそ、殿下はすべてを失ったのです。あなたが裏切ったのは一人の参謀などではなく……己の全霊をあなたに預けていた、愚かな女の心そのものだったのですから」
重い鉄扉が閉ざされ、光が遮断された。
後に聞いた話では、元皇太子はその夜、狂ったように百三十七通の手紙を読み返しては泣き崩れ、三日三晩『ヴィヴィアン』の名を紙に書き殴った末、手紙をすべて灰にして息絶えたという。
炎が燃え上がる中、彼は雪の庭を見つめ、「ようやく見つけたというのに……遅すぎたのだな」と呟いたそうだ。
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春の光が降り注ぐ執務室にて。
皇帝となったラインハルトが羽ペンを止め、微笑みながら私を手招きした。
「ヴィヴィアン、おいで」
彼の手のひらには、油紙に包まれた湯気を立てる小さな焼き菓子が載せられていた。
街角の老舗で焼き上げられたばかりの、甘い桃のタルト。
「私の皇后が、もう二度と袖の中に好物を隠さずに済むようにね」
ラインハルトは優しく私の指を包み込み、誇らしげに微笑んだ。
「君の望むものは何一つ残さず、この私が公明正大に、世界の頂点へと届けてみせるよ」




