6 妻と愛人 ルースside
ルースはイライラした様子で伯爵邸を出たあと、勢いで馬車に乗り込んだ。
「だ、旦那様!?」
「……いつもの邸へ向かってくれ」
今日の仕事は終わりだと思っていた御者は、突然やってきたルースに驚きの様子を見せた。
いつも冷静なルースがこのように余裕の無い姿を他人に見せるのは珍しかった。
「何をしている?さっさと行け」
「か、かしこまりました……」
御者は急いで馬車の準備をした。
中に乗り込んだルースは、腕を組んだまま窓の外を眺めていた。
真っ暗な空には、星一つ見えなかった。
それはまるでフルールの瞳みたいだった。
瞳といえば。彼の脳裏に、出会ったばかりの頃の彼女の姿が思い浮かんだ。
あのときのフルールは今と違って自分に自信が無く、いつも否定的なことばかり口にしていた。
彼女の生まれ育った環境を思えば、それは仕方のないことかもしれない。
『私、この瞳の色があまり好きではないんです……暗くてどんよりとしていて……目を合わせると気分が悪くなるってよく言われるんです』
フルールは酷く落ち込んだような顔でそう言った。
あのとき、自分は何て返したんだったか。
『そんなことないよ、君の瞳は夜空みたいで綺麗だよ』
彼がそう口にしたとき、フルールの目が大きく見開かれ、初めて光を宿した。
真っ暗な夜の空に、無数の星が輝いているかのように綺麗だった。
あのとき、彼は初めてフルールを美しいと思った。
「俺はどうかしてしまったようだな……」
何故、今になってこんな昔のことを思い浮かべるのか。
ルースはアリアを愛していたが、フルールのことを嫌っていたわけではなかった。
むしろ、彼女の謙虚なところは気に入っていたし、初恋の少女のように頬を赤く染めるところも可愛らしいなと思っていた。
しかし、今日見たフルールはまるで別人のようだった。
(そういえば前も……部屋に入るのを拒否されたな)
こんなことは初めてで、ルースは困惑していた。
彼の帰りを今か今かと待ちわびていた過去のフルールはもういなかった。
しばらくすると、アリアの暮らす邸宅に到着した。
彼女の暮らす家は、彼が事業で成功し、資金面で余裕ができたときに買ったものだった。
フルールの住む本邸よりかはだいぶ小さいが、平民が暮らすには贅沢すぎるほどだ。
「――おかえりなさい、ルース!」
「アリア」
合鍵を使って中に入ると、金髪にピンク色の瞳をした華奢な女が彼に駆け寄った。
彼の秘書であり、愛人として公私共に付き合っているアリアだ。
「今日も私のところへ来てくれるなんて嬉しいわ!」
アリアは彼の腕にしがみついた。
目をキラキラさせてこちらを見上げるその姿は、誰から見ても愛らしかった。
彼は手に持っていたカバンをアリアに預けた。
その姿はまるで本妻のようだった。
「今日は私がご飯を作ったのよ!ほら、最近は忙しくてずっとテイクアウトだったし……」
「そうか、嬉しいよ」
ルースは返事をしながら着ていた上着を脱いだ。
ふとリビングに目をやると、テーブルの上や床に物が散乱していた。
(昨日片付けたばかりなのに……)
アリアは近頃化粧品開発に精を出しており、寝る間も惜しんで研究を続けている。
その努力は素晴らしいものだったが、家のことを蔑ろにされては困る。
彼女は仕事面は優秀だが、家事が全くできなかった。
この邸には使用人もいない。
アリアがよそ者を家に入れることを極度に嫌ったため、彼は使用人を雇うことができなかった。
そのため、料理も家事も洗濯も全て自分たちでしなければならない。
ルースは椅子に座り、テーブルに置かれていた料理に手を付けた。
「どう?美味しいでしょう?」
「ああ」
アリアは嬉しそうにルースに話しかけたが、彼はこのとき食事をしながら別のことを考えていた。
「アリア……何故あの日、フルールに対してあんなことを言った?」
「………………え?」
予想外の質問だったのか、アリアが目を見開いた。
ルースが指していたのは、フルールがアリアの邸宅までやってきた日のことだった。
「急に何を言い出すのかと思ったら……どうしてそんなことを聞くの?」
「俺の質問に答えろ、アリア」
「わけがわからないわ、どうして私が責められなきゃいけないのよ」
アリアは不満げに頬を膨らませた。
「アリア、あのときのお前のフルールに対する発言は度が過ぎている」
「ルース……」
アリアはショックを受けたようで、言葉が出なかった。
ルースはあの日、間近で妻と愛人の争いを見ていた。
先に手を出そうとしたのはフルールだったが、アリアの発言もまた看過できるものではなかった。
「ルース……」
咎めるような視線に、彼女は俯いた。
てっきり、あの件は自分に味方してくれたのだとアリアは思っていた。
しかし、彼はただ手を上げたフルールを制止しただけであって、アリアの肩を持ったつもりはなかった。
「ルース、私ね、辛いのよ……」
「アリア……?」
顔を上げたアリアは目に涙を浮かべていた。
「いつも愛人だと後ろ指を差されながら生きていくのは辛いの……私はあなたの奥さんが羨ましい……あなたを心から愛しているからよ……」
「……」
顔を手で覆ってすすり泣くアリアに、ルースは何も言えなかった。
平民であるアリアと結婚することも別れることもできず、このような関係になってしまったことに負い目があったからだ。
ルースは泣き続けるアリアを優しく抱きしめた。
「アリア、俺はお前を責めているんじゃない。ただ、あのような発言は今後控えろ。彼女は伯爵夫人であり、大事な出資者の娘なんだから」
「ルース……」
アリアはしばらくルースの腕の中でじっとしていた。
ああ、やっぱり自分には彼女を捨てることはできない。
ルースはそのことを改めて実感した。




