表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/17

ドラゴンズアイ

 揺れと変化は、丸一日の間続いた。だが、不思議なことに、近隣のラデインやダゴス、アウスディールの町にはほとんど影響がなかったようだ。この時、カデカミナにもたらされた大きな変化は、何ヶ月か後の雪解け頃に、たまたま山を通ろうと考えた者がその変わりように動転し、町で盛大に吹聴するまで、近在の人々ですら知らぬことであった。

「すげぇ眺めだな」

 ニコーレが半ば呆れたような口調で言った。彼の見ている先には、この辺では珍しいほど大きな湖が、まるで海のようにゆったりと広がっている。カデカミナ山脈の中心部のほぼ全域を、溢れた地下水が飲み込んでしまったのだ。残っているのは、その湖をぐるりと取り囲んでいる結界代わりの山々だけだった。

 カデカミナ山脈は、アウスディールと沿海州グラウフルゼンとをつなぐ細い一本の道をその端のほうに残しただけで、山々が湖を護るように移動していた。その山々は、もう二度と人が立ち入ることを許さないほど険しく極めて排他的で、翼がない人の身である限り、湖はしっかり封鎖されていてちらりと垣間見ることすら許されない。

 そして、山の内側に美しく水をたたえた湖は、あれだけ急激に変化したものであるにもかかわらず、濁りもなく清く澄んでいて、鏡のごとく穏やかでなめらかな水面に空の色を移して蒼く輝いている。それは、滅多に見ることができないほどの絶景と言ってよかった。


 同意したように、グロリアとシルヴァーナが小さくうなずいた。

「綺麗だわ」

 シルヴァーナがそうつぶやいたが、さすがにその顔から憂慮の影が消せない。マリオンが、まだ戻っていないのだ。

「心配ないわえ。あの子ならきっと、戻ってくる」

 グロリアが彼女にしては珍しく慰めるように優しく言いながら、シルヴァーナの肩を軽く叩くと、焚き火を起こすために奥へ戻って行った。

「へっ! 殺しても死なねーぜ、あいつは」

 隣で小さく吐き出すように一人ごちたニコーレの乱暴な口調に、シルヴァーナは小さく微笑を浮かべた。

「そうね、そういう子だわ。あれで意外と頑丈タフなのよ。きっと戻ってくるわ」

 ニコーレは横目でマリオンの母だと名乗った女性を、ちらりと見た。外見は、息子よりもほっそりとして女らしくたおやかな風情だが、目の中の決然とした潔さのようなものが似ている。

『というより、どことなくこの母ちゃんのほうが、あいつより男らしい感じだけどな』

 と、ニコーレは苦笑した。


「ひとつ訊いていいかな? セルブラントのことなんだけど」

 ニコーレの問いに、シルヴァーナが首をかしげた。

「いったいどこで、あんなとんでもない奴に出会って、息子の顔を渡す羽目になっちまったんだい?」

 シルヴァーナは小さくため息をついた。

「旅の途中の砂漠で出会ったの。名前もないし、顔もない。おれには何も残ってない、彼はそう言ったわ」

 ニコーレはごくりとつばを飲んだ。

「やっぱり、奴には顔がないのか? あの霧のような黒い塊だったのか?」

「いいえ、そんなことはなかったわ。彼は、私に会う直前に殺した男の顔をしていたわ。殺して顔を盗む、とそう言っていたの。だから、私、そんなことをしないでって頼んだわ。名前も付けてあげる、顔もあげるから、って」

 だからって大事な息子の顔を渡すのか? という言葉をニコーレは飲み込んだ。シルヴァーナが悲しそうにその目を閉じると、そこからつうっと一筋の涙が流れたのだ。

「あの子にもっと、幸せをあげたかった。あなただってこの世界に生きていていいのよって、そう言ってあげたかっただけなの。それなのに」

 それなのに、やつはもう少しで彼女の大事な息子を殺してしまうところだった。そして、俺の大事なラヴィーニアはやつに殺された。ニコーレは唇をかんだ。だが、それはこの人のせいじゃない。それはわかってる。俺が許せないのは、セルブラントだけだ。

「ひどい母親ね、私。あなたたちにも本当に申し訳ないことをしたわ」

 まぶたの端をぬぐい、シルヴァーナはニコーレに寂しげな微笑を見せた。

「そんなことないさ。あんたがひどい母親なら、奴が、マリオンがあんなに必死で救い出しに行くはずないだろ?」

「ありがとう、ニコーレ。あなたはいい子ね。グロリアは幸せだわ」

 ニコーレの顔が曇った。


「グロリアはさ、俺なんかいない方がいいんだよ。俺、俺の父親にそっくりなんだ。グロリアを捨てて海の彼方に消えた親父にさ。だから、グロリアは俺の顔を見るのも嫌なんだそうだ」

 吐き捨てるように言うニコーレの肩を、シルヴァーナが叩いた。

「そんなこと、あるはずないわ。グロリアは、あなたのお母様は、ちゃんとあなたを愛しているわ。あなたは、こんなに立派に育っているじゃないの。子供が嫌いな人は、自分の手元に置いて大きくなるまでちゃんと育てようなんて、最初から思ったりしないものだわ。子供を生むって大変なのことなのよ? 私は五歳のマリオンを手放してしまったけれど、それは愛していないからじゃないわ。その逆よ。彼はちゃんとわかってくれているわよ」

 シルヴァーナは、にっこり笑った。

「グロリアももう少し表現が上手になれば、あなたもわかりやすいでしょうにね。それともあなたに甘えているのかもしれなくてよ? あなたが殺された、と聞かされたときの彼女の怒りようを見せてあげたかったわ」

 ニコーレは返す言葉もなく、少し困ったような顔で前を見た。シルヴァーナの言うことが正しければいい、どこかにそう思っている自分がいて、ニコーレは少し戸惑いながらも、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 二人が立っていた場所は、湖を見下ろせる山の中腹にある小さなでっぱりだった。もっと奥には、小さな林があってひょろりとした樹木が何本か生えている。その脇のほうには、湖に下りることができそうな細い道がついていた。だが、山頂に登れそうな道はついていない。気が付けば、兵士たちはみんな逃げてしまっていたが、彼ら三人と巫女たち二人、そして得体の知れない背の高い男だけがなぜか、この場所にとり残されたのだ。巫女たちとその男は、今は風の当たらない奥のほうで寄り添って座り込み、眠っているようだ。ニコーレは時折、向こう側からきた「ラヴィーニア」に目をやった。

「絶対、違う」

 初めて会ったとき、娘と同じ名前を名乗られたグロリアは、抱きつかんばかりに感激し、ここも似ている、あそこも似ていると、とまどうラヴィーニアにいつまでも熱心に話し続けていたが、ニコーレの方は、グロリアのようにすぐには納得がいかなかった。魂は一緒だと教えられてはいたが、どうしても同じラヴィーニアとして見ることができない。向こうのラヴィーニアは、大人しやかで物腰も柔らかく、顔も似ているとは言い難い。だが、それよりも何よりも彼女がまとっている空気というものが、まるで違っていた。

 彼が愛した明るく強気で可愛いラヴィーニアは、もうどこにもいない。


「俺のラヴィーニアは、死んだんだよ」

 ニコーレは自分に言い聞かせるように一人ごち、小さく溜め息をついた。胸の奥が痛い。そこには、もう二度と塞がらないであろう、深く大きな穴が開いている。『彼のラヴィーニア』の遺体は、この山を少し登った見晴らしがいいところに、ニコーレ自身の手で葬られていた。すでに魂はそこにいないと解ってはいたのだが、彼もグロリアもどうしても、あの崩れかけた神殿に彼女を置いてくることができなかった。前にセルブラントに斬りつけられた傷が痛んだが、それでも無理にラヴィーニアを抱きかかえて、やっとの思いで運んできたのだ。その墓には、シルヴァーナが自分の髪に編みこんでいた綺麗な白い花をそっと添えてくれた。

「ごめんなさいね、ラヴィーニア。今はこれしかあげられなくて。それから・・・・・・ありがとう、息子を助けてくれて」

 優しいその声に、不覚にも初めてそのとき、ニコーレの目に涙が浮かんだ。今も思い出すと、こみ上げてくるものがある。

「ちくしょう! らしくねぇよ」

 ニコーレは乱暴に袖口で目元をぬぐった。

「さっさと帰って来い、ア、マリオン。ラヴィと一緒に逝くなんざ、俺が許さねぇ。今度こそ決着をつけてやるからよ」

 ニコーレは、再び美しい湖面に目を落とした。湖は広い。手をかざすと向こうの岸がかろうじて見えるものの、空を飛ぶ鳥以外、動くものは何も見えない。


 冷たい風が吹き抜け、湖面に細かく縮緬のようなさざ波がたった。ふいにニコーレはぐいっと背筋を伸ばして、手を額にかざした。

「奴だ! 湖のまんなかを見ろ!」

 大声に木立の奥へ引き下がっていたシルヴァーナが、慌ててかけてくる。火を熾していたグロリアも、眠っていた巫女たちもみんなニコーレの方へ走りより、目を皿のようにして湖面を見つめた。

「いたわ! あそこに」

 シルヴァーナが興奮したような声をあげた。彼女が指差す遥か彼方、広い湖面のほぼ中央に小さな点が見えていたが、徐々にそれは少しずつ大きくなり、やがて金色の頭と白い顔がはっきり認められるくらいになった。


 我ながらうまくやれた、と思う。大地はマリオンの望みどおりの変貌を遂げ、水は召喚に応じてくれた。いまやカデカミナは山脈というよりも、湖のための強固な砦といった風情だった。

 では、聖杯の封印は? 

 彼は聖杯を封印しなかった。そう、聖杯は封印されなかったのだ。

「できないってのが、結局のところ正しいんじゃないかな」

 と、岸を目指してゆっくりと泳ぎながら、マリオンは心の中でひとりごちた。

 聖杯の魔力が創始の魔法でできているのなら、その魔力を封じられるものは、創始の魔法でしかありえない。その昔、聖杯から愛情や憐憫とともに人間に少しだけ分けてもらえたという微力な魔法では、到底、聖杯を封じることなどできないのだ。

 聖地で聖杯は、ゆっくりと眠る。我が身を自らの魔力で封印しながら……。

 この湖は、その眠りを護るための二重の砦だ。人が二度と聖杯に近づくことがないように。聖杯が二度と人に干渉することがないように。そして、

「二度と再び、ラヴィーニアやアニスや飛龍フェイロンのように辛い思いをするものがでませんように」

 あの時、祈りにも似た気持ちでマリオンは水の呪文を唱えた。

 魔力は剣のようなものだ。人を傷つけることもあれば、護ることもある。あるいは、単に権力等の力の象徴やお飾りである場合もある。そして、自分を傷つけるものでもあるのだ。自分は、その魔力をうまく使いこなして、魔術師としてやっていかなくてはならない。

 大事にしよう、人としての自分を。魔術師としての誇りを。僕が僕であって、誰かが誰かであるために。その権利は、誰にも干渉も剥奪もされてはいけない。

 みんなが待ちわびている岸に上がる前に、マリオンは一度だけ聖杯の眠る湖の中央を振り向いた。聖杯は深い湖の底で、静かに眠っている。

『二度と私が目覚めることがないように』

 聖杯の願う小さな声が、マリオンの耳に聞こえたような気がした。



【エピローグ】


「さてこれからどうするか、だな」

 ニコーレがマリオンを見た。ずぶぬれだったマリオンの長い金色の髪は、焚き火のおかげでもうほとんど乾いていて、着ている薄茶色に染まった元は白かった衣類も同様に半分がた乾いているようだ。

「俺とグロリアは、ダゴスへ戻るぜ」

 グロリアは、飛龍フェイロンが白い竜だとは知らない。竜神殿の神官だと思っているようだ。だから、彼女の不老不死の夢は、神殿と共に消え失せていた。彼女はラヴィーニアを亡くしたことでかなり気落ちしていたが、ニコーレを伴ってダゴスへ戻り、また前の商売を再開するという。

「もう一度、最初からきっちりと出直しだわえ」

 だが、ニコーレはこれからダゴスへ戻って船に乗るつもりだ、とマリオンにだけ耳打ちしていた。

「離れたほうがお互いにいい、ってこともあるんだ」

 マリオンはうん、とうなずいた。

「それに戻れる港があるってことは、いいことさ」

「お前との決着も、当分お預けだぜ」

 ニコーレが片目を軽くつぶって見せた。


 マリオンの母、シルヴァーナは、まだ夫の探索をやめるつもりはなさそうだった。

「僕は、母と一緒にとりあえずグラウフルゼンへ抜けて、ロンバス方面に行くつもり」

 父の探索のためには、路銀が必要だ。ロンバスに行けば、ローセングレーン一族が大勢いる。シルヴァーナは、そちらへ行って金を借り、旅の態勢を整えるつもりらしい。そして、それを聞いたからにはマリオンもそこへいたる街道筋で、母の護衛の役目くらいはこなさなくてはならないだろう。ロンバスで再び彼とシルヴァーナは、道を別つことになるのだろうが。

「ラヴィーニア、あんたたちは? どうすんだ?」

 ニコーレに声をかけられたラヴィーニアが、伏せていた顔をあげた。

「アニスとわたしは、ここへ残るつもりです。もちろんこの外側に、という意味ですけど」

「えっ! ここへ二人とも残るの?!」

 ラヴィーニアの言葉に、マリオンがびっくりしたような声をあげた。ラヴィーニアは目を伏せた。

「だってもうラデインに戻っても、知ってる人は誰もいないわ。聖杯のそばで静かに暮らします」

 すかさずグロリアが、嬉々とした様子で申し出た。

「あたしと一緒にくればいい。ダゴスで一緒に暮らせばいいよ。ぜひともアニスも一緒に来て欲しいわえ」

 グロリアの申し出に、ラヴィーニアは、きっぱりと首を横に振った。

「ありがとうございます、グロリアさん。でも、わたしたち、街中ではもう暮らせないと思います。こういう静かな人のいないところのほうが、わたしたちに似合ってますもの」

「その通り。我らは巫女なのだから、ここで暮らすのが正しいことさね」

 アニスもうなずいて見せ、グロリアが心底がっかりした顔をした。

「そうかえ。気が変わったら、ふたりでいつでも訪ねておいで。せめて冬の間だけでもね。ここにはあたしが家を建てさせよう、立派な奴をね」


 それを聞いたニコーレが、マリオンの隣でちっと小さく舌打ちをした。

「グロリアは、アニスの占いを商売に使うつもりだぜ。たまんねぇな」

 マリオンは前を向いたまま、小さく微笑を浮かべた。たくましいグロリアの商魂と、ちゃんとそれがわかっている息子は、なかなかいい母子だと思えたからだ。たとえニコーレがどう思おうと、グロリアは彼を愛している、とマリオンは確信していた。彼は、逞しい海の男になって、これからもグロリアを助けていくだろう。ニコーレも口で言うほど、グロリアを憎んでなどいないのだ。

「それにしても女性二人だけで、こんな山奥にいて大丈夫かしら? まぁ、飛龍フェイロンもいるなら安心ですけどね」

 と、シルヴァーナが言うと、

「いいえ、飛龍フェイロンは・・・・・・」

 ラヴィーニアは困ったような顔で、焚き火にもあたらず後ろの闇の中に控えている飛龍フェイロンのほうを見たので、つられるようにみなも一斉に振り向いた。

『・・・・・・私はここには残れない』

 飛龍フェイロンはその視線にひるむでもなく、淡々とした口調で事実のみを告げた。

「あら? 残るわけにはいかないの? どうして?」

 心配そうな顔のシルヴァーナの言葉に、飛龍フェイロンが静かな口調で答えた。

『ここではもう、魔法が使えない。この聖域の中で、私は弱っていくばかりだ』

 確かに、この聖域の中では魔法は使えない。聖杯がそのように望んだのだ。マリオン自身は、今の時点でも自在に魔法を使うことができたが、聖杯は彼にだけは特権を許している。それは、ここをみなが出ていくまでは、という条件付きだった。マリオンは、最後にみなをここから出して、このカデカミナを完全に封印することになるのだ。


 だが、一度出てしまったら、マリオンとて例外ではない。聖域の中では、一切の魔法を使うことができなくなる。飛龍フェイロンは、その存在そのものが魔法的な生き物であるだけに、この聖杯の領域の中では生きづらくなるであろうと思われた。

『もはや私の命運は、尽きている』

 と、確かにあの時、飛龍フェイロンは言った。たぶん、余命はいくらもないのであろう。もともと、竜の寿命は千年ほどもある。だが、封印された当時、自分は若い竜だと言ったはずの彼の寿命は、聖杯のためにおおかた食い尽くされてしまっているのかもしれない。まだ人の一生と同じ位は残っているだろうが、それは竜にとって非常に少ない余命というほかはない。

「あらじゃあ、飛龍フェイロン、私たちと一緒に旅に出ましょ? そして、あなたの安住の地を探せばいいわ」

 こともなげにシルヴァーナが言い、マリオンに向かって、いいでしょ? と首を傾げて見せた。マリオンは肩をすくめた。

「彼がそれでよければ、僕はかまわないけど」

「じゃあ決まりね、飛龍フェイロン。もう何にも心配することはないわ。私たちに任せてね」

 シルヴァーナがにっこり笑って手をたたいた。


 その様子を見ていたニコーレが、にやっと笑ってマリオンに耳打ちした。

「お前の母ちゃんって、かなり、男前だよな」

「え? 男前って・・・・・・」

 マリオンは苦笑した。確かに、顔に似合わずシルヴァーナは、きっぱりさっぱり決断の早い性格で、迷ったりためらったりすることが少ない。お前が長男だったらよかったと、祖父がよく言っていたとマリオンも聞いていた。

「ま、確かにね。でも、君んちの母さんには負けるだろ?」

 負けずにマリオンが小声で言い返すと、ニコーレはにやにや笑って首を振った。

「んなことないぜ。あれこそドラゴンレディってやつだよ」

 マリオンは、その言葉にびっくりしたようにちょっと目を見開いて、それからもう一度ニコーレに耳打ちした。

「今回、僕が会った女性は、みーんなそれ、だったよ」

 ニコーレが眉をくいっとあげ、それからくくくっと笑った。

「違いねぇ」

 といって、誰かを思い出し、拳を握る。二人とも空を見あげ、無言のまま同じように唇をかみしめた。


 ついっと飛龍フェイロンが優雅に立ち上がった。そのままマリオンの前に静かに歩を進めると、ゆっくりと彼の前にひざまづいた。

『では、魔術師マリオン。私と契約を』

「契約?」

 と、マリオンは目をぱちくりさせた。

『私はもう一度、聖杯のところへ戻る』

 えっ! と皆が声をあげた。

『私の命運はすでに尽きている。この地上に私の居場所はない』

 なんでそんな、とラヴィーニアが声をあげかけたが、飛龍フェイロンは振り向かなかった。

『私はそなたと契約を結ぶ。私の残りの力は、すべてそなたに譲り渡そう。すでにそなたの力の方が、私より強いのだが、それでも小枝程度の支えくらいにはなるだろう』

「君の力? 契約? 譲り渡すって何?」

 マリオンが目をぱちくりさせながら首をかしげると、飛龍フェイロンの細く長い白い指がマリオンの左目を指差した。

『私は、私の全ての力をそなたに授けよう。魔術師マリオン、これからそなたの命が尽きるまで、私の力はそなたとともにあるだろう。そなたのドラゴンズアイに誓って』


 そのとき一陣の風が、マリオンの左目を隠していた金色の前髪を吹き上げた。ふいにあたりに魔法の強烈な気配が満ち溢れ、シルヴァーナを除く四人が、思わず息を飲むのがわかった。

「まぁ、素敵! マリオン、あなたの左目が綺麗な金色に戻っているわ!」

 無邪気なシルヴァーナの声が、ことさら大きくあたりに響いた。

「ばかな、なんてことをするんだ、飛龍フェイロン。そんなことしたら君が生きていられなくなるじゃないか」

 マリオンが抗議の声をあげた。

 飛龍フェイロンは、薄く笑いを唇にのせた。その目は優しく、そして静かだった。

『これでいい、私はそなたの中で長く生きることになる。それが私のさだめだったのだ。私はこれから聖杯のところに戻ることにする』

 そして彼は優雅に立ち上がり、静かに皆に向かって頭を下げた。そして、誰も何も言えないうちにきびすを返し、木立の間を縫い、湖に向かって歩いて行く。

「待って、飛龍フェイロン! 待って!」

 はっ、と気を取り直したマリオンが叫びながら後を追った。あともう少しでその背に手が届くというところで、飛龍フェイロンは風に吹かれた花びらのようにふわりと漂うように宙に浮かび、うろこを煌めかせた白い巨大な竜に戻った。ぞろりと空の高みに向けて、白い竜が優雅な舞いのように泳ぐ。


 見上げるマリオンの手は、もう届かない。マリオンの上に落ちる最初は黒かった飛龍フェイロンの影が、どんどん薄く透明になっていく。まるで空の青さに透けて消え去りそうなほどだ。

『さらばだ』

 その白い半透明の竜体は、湖の中ほどまでくると、迷わずするりと融けるように音もなく水に飛び込んだ。

飛龍フェイロン!」

 マリオンが湖をのぞき込んで声をあげたが、すでに湖面は穏やかにたゆたうだけで、竜の姿どころか、かすかなさざ波すらもどこにも見えなかった。乗り出した水面には、金色の瞳と緑の瞳を持った魔術師の顔が映っていて、そこには確かな魔力が宿っているのがわかる。

「あなたにお礼も言わせてもらえないのか、僕は」

 マリオンが歯を食いしばった。得たものはもちろんあった。だが、喪われたものはさらに大きかった。これ以上、なにものも失われてほしくなかったのに。それなのに自分では何も護ることができなかった。深い後悔と喪失の虚しさと悲しみが心に迫る。草をつかむ手がぎりぎりと鳴った。

 どこかで「いいの、それでいいの」と、聖杯の小さな声がしたような気がした。

「本当にこれでいいのかい、飛龍フェイロン

 絞り出すようにつぶやくと、マリオンの肩に暖かい手が置かれた。

「たぶん、これでいいのよ。彼はずっと覚悟していたから」

 シルヴァーナが優しく、そして少し寂しげな声でそう言い、マリオンは袖口で頬の涙をこすりながらうなずくと、湖に向かって小さくささやいた。

「・・・・・・ありがとう、飛龍フェイロン。僕はあなたを忘れない」


 マリオンはもう一度だけ水面に目をやると、立ち上がりそのまま何も言わず湖に背を向け、二度と振り返らなかった。ここからまた、金色の左目をもつ魔術師の新たな物語が始まるのだ。

 〔了〕


また次の物語でお会いできますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ