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聖杯

 やっと抜け出た、と思った。長い長い道を抜けて光の中へ・・・・・・。限りない開放感がマリオンを包み込む。ここへ来てからずっと無視しようと努めていた、身体中のあらゆる痛みや疼きが一気になくなっていた。

 ふと気がつけば、自分の身体も見えない。血にまみれていた手も白い服も視界に入らない。自分の掌を眺めてみようと思い立ったが、目の前に手をかざして見ても、透きとおった淡い影が目の前に踊るだけだった。

「肉体と魂が分離してるのかな?」

 そうつぶやいてみるが、いつもなら聞こえるはずの自分の声も、何かに吸い込まれたように聞こえない。音のない世界。今、彼は白い闇の中を漂うひとつの光の塊でしかなかった。他には何も見えない。ただ白い空間が果てしなく広がっているだけだ。


『・・・・・・』

 誰かが呼んでいる。抗しがたい呼び声。細く、しかし美しい呼び声。それは飛龍フェイロンではなく、彼を呼んでいる。マリオンだった光の塊は、それに引き寄せられるようにすぅっと闇の底へ向かって流れ落ちていった。

 静かな闇がマリオンを飲み込んでいく。マリオンである光の塊は白い闇と同化し、姿が薄れていく。

「・・・・・・僕を呼んだか、北の聖杯よ」

 全て飲まれて意志を失ってしまう前に、マリオンが力を振り絞って声を出した。ふるふると闇が揺れる。ふわりとした感触がマリオンを包み込む。柔らかな天鵞絨(ビロード)のような、羽毛のようなふわふわしたものがまとわりつく感じがしている。

 くすくすくすと、まるで若い娘か幼い子供の笑い声のようなものが、マリオンの耳元で聞こえた。

『あなたはだぁれ? 金色のおにいさん』

「君こそ誰だ? 北の聖杯、なのか?」

『わたしは、わたし。あなたは、あなた?』

 語尾をかすかに上げた疑問形で、答えが返ってきた。

「僕は僕だ、もちろん」

 くすくすと再び耳元でくすぐったい笑い声がした。

『そぉ? ほんとうに? あなたは、ほんとうにあなた?』


 マリオンはかすかに溜め息をついた。これはいったいなんだろう? これが、聖杯なのか? 創始の強大な魔力を持つといわれる聖杯の台詞とも思われない。

『こたえはどぉ? あなたは、ほんとうにあなた?』

「僕は、本当に僕だ」

 まともな会話とは呼べないような不可思議な会話が続けられ、マリオンは少しいらだった。

「君は、延々とこの問答を続けるつもりかい?」

『じゃぁ、これが最後よ? 答えてね、あなた。あなたの・・・・・・』

 いったん言葉が途切れ、くすくすと笑いが起こる。

(まこと)のお名前は、なぁに?』

 あっ! とマリオンは衝撃を受けた。

 あの神殿の門扉もんぴに書き込まれていた問いと同じものを、今ここで再び問われるとは、思いもよらなかった。

 迷った。今、彼は金色の左目をもたない、自分の力のみで魔法が使える普通の魔術師だった。あの時とは違っている。だが、いまだに彼は自分を「魔術師マリオン」と名乗ることができるかどうか見極めかねていた。

 その一瞬の迷いを見抜いたように、声が耳元で笑った。

『ほぅらね? あなたは、あなた? ほんとうにあなたなの?』


 ******

 優しげに微笑む背の高い初老の男性が、彼を手招きをした。

「こっちへおいで、マリオン。わたしが今日から君の魔法の先生だよ」

 この春にやっと五歳になったばかりのマリオンが、母に背中を押されてゆっくりと師匠のほうへ向かって歩き出した。幼い顔には不安と好奇心の両方が浮かんでいる。

「こんにちは、先生。僕、マリオン・ローセングレーンです」

 ******

「まぁ、マリオン。だめっていったでしょう? おうちの中で魔法を使って火をおこしたりしては。危ないでしょう」

 だって、暖炉の焚き付けがうまく点かなかったんだもん、という言い訳を飲み込む。お母様をこれ以上困らせてはいけない。

「ごめんなさい、お母様」

 上着のすそを握り締めながらマリオンが素直に謝ると、困った子ね、とお母様は彼を軽く睨みながら、それでも優しく抱きしめてくれた。

 ******

 彼の目から涙がひと筋、頬を伝った。

「お願いだ、マリオン。どうぞ俺を殺してくれ」

 マリオンは、激しくかぶりを振った。

「できない、僕にはできないよ」

 自分の鳩尾が緊張と恐怖のために冷たく、硬くなっているのがわかった。握り締めた短剣の柄が、いやに細く頼りない気がする。これで刺しても、ほんとうに血が流れるかどうかわからない、と、彼はぼんやりと考えた。

 ******

「なぁ、マリオン、これからちょっとドーンの町へ行かないか?」

 そう兄弟子のショーンが声をかけてきたのは、七月にしてはさわやかで過ごし易い、午後も遅い時間だった。作業所の片づけが終わったら、師匠もいないし、食事当番でもないし、ゆっくり本が読めるかな、と思っていたマリオンは、ちょっと首をかしげた。

「今からわざわざドーンまで何しに行こうって言うの?」

 ******

「マリオンって頭がよくって、すごいお勉強家なんだよね」

 突然の声に驚いて振り向くと、セドリックがマリオンを見上げて微笑んでいた。その無邪気なセドリックの微笑みに、いささか後ろめたくどぎまぎしながらマリオンは、

「やだなセディ、そんなことないよ」

 と、答えるのが精一杯だった。

「だってうちの母上がよく言ってるよ。ちゃんと見習ってあなたもマリオンみたいにお勉強なさいって」

 ******

「ね、覚えてる? マリオン」

 アーネストが紫の瞳で、ベッドの中からマリオンを見つめた。蒼ざめてやつれた頬には、痛々しい微笑みが浮かんでいる。

「もちろん覚えてるよ、アーネスト」

「楽し、かったね、あの日」

 マリオンが、涙をこらえながら力強くうなずいた。

「うん、楽しかった」

 ******


 幻が水面(みなも)を渡る風のように、さぁっと流れ去った。そこには、もうすでに忘れ去ったはずの記憶と忘れ去りたい記憶と忘れたくない記憶がいり混じっていた。

『これがあなた? あなたのお名前は、マリオン・ローセングレーン?』

 マリオンは唇を噛んだ。

「ち・・がう。名字はとっくに捨てた・・・・・・。僕の本当の名前は」

『じゃあ、これはどぉ?』


 ******

「シグ・・・・・・。私、生まれて来るのは男の子だと思うの」

「なぜそう思う? 君は占いができたんだっけ?」

 よく光る明るい緑の目に、どこか面白がっているような表情を浮かべて、シグナンがシルヴァーナにささやいた。

「そうね、どうしてかしら?」

「男の子なら、きっと君に似ている。俺に似た女の子よりは、生きやすいかもしれないな」

 シルヴァーナは、おなかに手を当てて不安そうにシグナンを見つめた。

「生みたいの。どうしてもこの子が欲しいの。かまわない?」

「もちろん、かまわないとも。俺だって楽しみにしてるさ。男の子だったら、一緒にいろんなところへ行って、馬にも乗せて、魔法も教えてやろう。

 女の子だったら、そうだな。庭に花でも植えてやろうか。色とりどりの花を敷き詰めたような庭にしてやろう。二人で花冠でも作るといい」

 ******


「・・・・・・!」

 それは細密画(ミニアチュール)以外で、初めて見る父の顔だった。自分は今まで目の色以外、母にだけ似ていると思っていた。しかし、マリオンは、そのつかの間の幻の父の姿の中に、自分に似たところをいくつか見つけ出していた。そして、そのことに深い安堵と満足を感じている自分に気づき、マリオンは少し驚いた。

「・・・・・・これは、僕の記憶じゃない」

『そうね、これはあなたのお母様の記憶。でも、あなたを形創るもの、だわ』

「なぜ僕に、真の名前を聞く? なぜこんな必要がある?」

『それはこういうことだ』

 聖杯の声がふいに厳かなものに変貌した。

 言葉が終わらぬうちに、あらゆる幻が目の前を流れていく。もうそれは、マリオン本人に関係したものに限ってはいない。見覚えのある顔も、ない顔もあった。


 遠い昔の戦場とそこで命がけで戦う血まみれの人々。笑顔の家族。眠る人。大勢の人々。小さな子供。走る少年たち。子供を抱く女。パンを焼いている職人。人を殺した男。自分自身を殺そうとしている女。王座の上で退屈そうにあくびをしている男。殴る男と泣く女。泣き崩れ土をかきむしる老女。犬をなでる少女。親を亡くし、彷徨う子供。耕す人。作る人。壊す人。生き残った者の慟哭。死にかけた男に取りすがる女。ほくそえむ男たち。善良な男。けが人を癒やそうとする女。働く人々。孤独な人。祈る人。人、人、人・・・・・・。

 ぐるぐると目の前をものすごい速さで幻が駆け抜けていく。それは幻ではあったが、その中で創り上げられた人間のあらゆる感情が、すべて一気にマリオンの意識の中になだれ込んでくる。こらえきれず、マリオンは悲鳴をあげた。

 憎悪、慟哭、悲哀、歓喜、苦渋、叫喚、憤怒、恐怖、悔恨、悲嘆。あらゆる感情の流れがマリオンである光の塊の中を、矢のように突き抜け、そして突き崩していく。


『わたしは、このような混沌をこの身で掬い取った。大地にあふれ出た人の思いは、何千年も何万年も何億年も連綿と続く。これはこの大地が、わたしとともに刻んでいる記憶』


『この混沌の中で、自分を失わないために、さぁ、自分の名前を言ってごらん? 本当のあなたはどこ? しっかり自分を押さえていないと、あなたは混沌に飲まれてしまう』

 導く声と、

『もういいんだ、同化してしまえ! お前などこの世になくてもいいさ。誰が困る? 誰が嘆く? お前の命はいつかは果てる。それが今で何がいけない? すべて忘れて眠るだけ。楽になれる』

 惑わす声。

 ああ、本当にそうなのかもしれない。楽になれる。もう何も考えなくてもいいんだ。死への甘い誘惑の声が、一番近くに聞こえる。

 だが、その誘惑を阻止したのは、あの蒼い瞳だった。

『あたしの命を、あなたにあげる』

「ラ・・・・・・ヴィーニア・・・・・・」

 彼女に貰った重い贈り物を、マリオンはどうしても粗末に扱うことができなかった。

「できない、僕には。彼女がくれた僕の命を、捨てることができないんだ」

『この混沌の中で、自分を失わないために、さぁ、自分の名前を言ってごらん? 本当のあなたはどこ? しっかり自分を押さえていないと、あなたは混沌に飲まれてしまう』


 死への誘惑の言葉をかき消すように、再び、柔らかい声が彼に名前を言わせようとしている。

「僕の名前は・・・・・・」

 耳を押さえてしゃがみこんで縮こまったマリオンが、ようやく声を出した。

「・・・・・・魔術師、マリオン」

 答え終わると同時に、すっと一本の光がまっすぐ背筋に通ったような気がした。

 それが混沌の中で、彼が自分に名前をつけた瞬間だった。ひと筋の光は、流れ渦巻く感情と容赦のない幻と白い闇の混沌の中で、はっきりとマリオンだけを照らしている。白い闇の中でマリオンである光の塊は、再び金色に輝いていた。やがて、幻は闇の彼方へと去っていった。たとえ見えたとしても、もうマリオンにとってそれはただの過去の幻影でしかない。マリオンは、そっと息をついてゆっくりと身体を伸ばした。

 自分の中で自分の名前が確立されたのが、はっきりとわかっていた。今までのどっちつかずでいい加減な自分は、もうどこにもいない。それは魔術師としての自信のほかに、自分が人間である、という自覚を与えてくれた気がする。前よりも、もっとゆっくりと息が吸えるような不思議な開放感と、それとは対照的に身の引き締まる責任感も感じていた。


 目を上げると白い闇の中に、その聖杯が見えた。光を浴びてきらきらと輝く透明な水のように、なめらかな美しいもので作られた台座つきの簡素なゴブレットであったが、それは一瞬でマリオンの目を奪い、すべての感情を忘れさせた。

 硝子には見えない。水晶でもない。金剛石(ダイヤモンド)でもない。煌く、しかし儚い美しさ。やはりそれは光を浴びた清く透明な水、というのが一番近いのかもしれない。絶対的な天界の美が、マリオンを圧倒している。彼の頭の中には、美しい、という言葉すらも思い浮かばなかった。そのような形容詞では、到底表現し尽くせない美しさだった。マリオンは、しばし自分の目的も忘れてうっとりとその聖杯に見惚れていた。


『魔術師マリオン。わたしを』

『封印せよ』

 はっ、とマリオンは我に返った。聖杯の内なる声が、直接マリオンの心の中に流れ込んできていた。それは、どんな人間的感情も入り込まない、単に事実のみを告げようとする淡々としたもので、マリオンは逆に聖杯に慈愛の感情が湧くのを感じた。

「あんなに、聖杯に悩まされたのに・・・・・・。あんなにひどい目にあったのに・・・・・・」

 しかも自分は、あんなに怒っていたのに。だが今は、もうその感情は、どこにも残っていない。今あるのは、聖杯への畏敬と慈愛があるだけだ。それは、この地上、大地への思いと一緒だった。

 自分を守り育ててくれた、大地への深い感謝と尊敬と慈しみの感情でマリオンの胸が熱くなる。戦いのために大地を血で汚してきた愚かなる者は、まさに自分たちなのだ。

「そう、そういう意味での血は、まさしくけがれている」

 マリオンは、さきほど飛龍フェイロンに放った自分の言葉を反芻した。聖杯の封印。それは、『聖杯が人間を毒さないように』ではない。人間から聖杯を護るために、であった。


 マリオンは、聖杯の意図をはっきりと悟った。

「そうか、グラディウスは、そこで間違ったのか・・・・・・」

 グラディウスは、聖杯から人間を護ろうとした。だが、そうではない。護るべきものは人ではなく、聖杯であったのだ。そこには微妙な違いがあった。

 聖杯は、我ら愚かなる人間のいしずえで守護者なのだ。聖杯がなければ、この大地は崩壊する。聖杯がなくなれば、人間もやがて滅びてしまう。愚かしきものは、聖杯ではない。それは、「人」なのだ。

 だが、また聖杯にとっても大地にとっても、そこにその「愚かしき人」というものが、存在しなければならないのかもしれない。確かに創始聖伝には、こう書いてある。

『聖杯の創り上げた大地に、木が生い茂り、花が咲き誇り、いろいろな動物たちが遊んだ。しばらくの間は、それだけだった。やがて、聖杯はそれだけでは物足りなくなった。そして、聖杯は、自分がかつて仕えた神々を模して、「人」というものを創った。

 人はさまざまなものを作り上げた。家族を作り、家を作り、集落を作り、国を作った。聖杯は、その様子を眺めて心慰め、楽しんでいた。

 だが、人は弱かった。地上のどの動物よりも植物よりも、人は弱かった。病が蔓延すれば倒れ、魔物が出れば何人も犠牲となり、大水が起これば町が流され、山が崩れれば集落は失われ、そして大勢が命を失った。それを残念に思い、憐れんだ聖杯は、人に自分と同じ魔力をほんの少しだけ分け与える事にした』

 聖杯が人を創り、その弱さと愚かさゆえ、慈しみ、護り、育て上げてきたのだ。

『それゆえ、わたしは、人間のそばにあってはならないもの』

『人間の手がかけられては、ならないもの』

 北の大地を守護するこの聖杯は、あまりにもこの地上の創造に近いものであった。決して人間が見てはならない、踏み込んではならない、神の領域。


『我を封印せよ!』

 再び、聖杯が強くマリオンをうながした。マリオンは覚悟を決めたように深く息を吸った。

「わかりました。僕があなたを封印します。でも、その前に」

 マリオンの言葉が終わらぬうちに、いち早く彼の意図を読み取って聖杯が震えた。目の前に地上の幻が流れて見えた。大地がこれから起こる事を警告するように、激しく揺れていた。白い建物が無残にも崩れ去り、悲鳴をあげて兵士たちが次々と逃げ出していく。ラヴィーニアの遺骸を抱いたニコーレとグロリアも、シルヴァーナに促されて必死の形相で神殿の外へ走り出ている。

飛龍フェイロンとアニスとこちらのラヴィーニアがいない」

 マリオンの問いに答えるように、ふいに白い巨大な竜の幻が目の前に現れた。それは白銀に輝く美しい竜で、マリオンが前に見た黒竜とも図版などで見たどんな古代竜とも異なっていた。ほっそりと長い優雅な曲線を描く身体は、輝く白いうろこにびっしりと覆われている。前にマリオンが見た竜は、胸から腹にかけてふくらみを帯びて、翼がついているものばかりであったが、どうやら飛龍フェイロンには翼がない。そして、胴体は蛇のようにまっすぐでふくらみがなかった。尾に向かって徐々に細くなっていて、胸と腹に四本の足がついている。顔も胴体と同じようにほっそりと優美で、切れ長の黒い眼が煌いている。


「・・・・・・! これが飛龍フェイロンの本体なのか」

 白い優美な竜は、その長い身体をぐるりとゆるやかに巻き、その中央にアニスとラヴィーニアを護るように抱えている。そして、座り込んだその二人の前には、あきらかに自分と思われる金色の髪の人間が横たわっていた。

 そこまで見て取ったとき、突然、何かに弾き飛ばされるような大きな衝撃がマリオンを襲った。声をあげるひまもない。柔らかで穏やかな空間から、いきなり狭く辛い暗闇へ押し込められたような気がして思わずうめくと、

「戻ってきたわ! 大丈夫? マリオン」

 こちら側のラヴィーニアの青い瞳が、自分の方を心配そうに覗き込んでいた。

「そうか・・・・・・。戻ってきたんだ」

 ラヴィーニアの手を借りて半身を起こしながら、マリオンはうめくようにつぶやいた。

『間に合ったな、若き魔術師よ。もうじき封印がすべて解ける。あとは』

「あとは僕がやる! あなたたちも表へ出たほうがいい」

 マリオンは深く息を吸った。飛龍フェイロンが治してくれたのか、けがの痛みはだいぶ薄れていて、立ち上がると少しふらつきはしたが、前よりは数段体力が回復していた。さっきよりいくぶん身体が重くなっているような気がするのは、魂だけに分離されていたせいだろう。

 長年なじんだ肉体の枷に慣れるのには、さほど時間はかからないはずだ。


「さぁ、行くんだ。封印が解けきらないうちに」

 マリオンは上へ向けて腕を振った。やるべきことは解っている。正しいやり方もたぶん・・・・・・。

「わたしたちも一緒に封印するのでしょ、マリオン」

 ラヴィーニアが不思議そうに首をかしげた。

「あなたたちは、封印には必要ない。飛龍フェイロンも、だ」

 飛龍フェイロンが半眼を閉じた。

『私も、か』

「そうだ。あなたも自由だ。僕の封印に必要なのは」

 マリオンは、今は何も見えない白い空間を見上げた。

「ここ、カデカミナの大地と、その中に隠された自然の力だけ、だ」

『そなたを信じよう』

 飛龍フェイロンがその白い身体で作っていた護りの輪を解き放った。

「ひとつの聖杯が、すべての聖杯に勝ることもある。大地と水は、お前を生涯護るだろう」

 ふいにアニスの厳かな声が、マリオンに新しい託宣を告げた。

「たぶん、これがお前さんに言える最後の託宣じゃな」

 マリオンはそのアニスのほうを見て、にっこりと笑った。

「ありがとう、アニス。世話になったね、本当に」

「どうも金貨一枚では、安いくらいじゃったな」

 すまして言うアニスの言葉に、ふいに最初のときの占い料金についてのやり取りが思い出されて、マリオンは吹きだした。

「あとで間違いなく追加を払うよ。覚えといて」

 と、にやにや笑うマリオンへ、笑いもせずアニスはじろりと視線を返した。

「ふん、とうの昔に財布も何も手元にあるまい。無理せんでいい」

「だから、後何年かして、僕が出世したらちゃぁんと払うからさ。覚えといてって言ってるんだよ」

「やれやれ、気の長い話だ。大地が滅びてしまうわぇ」

 再びマリオンが笑いだし、すぐに真面目な顔に戻った。

「それまで長生きしといて、アニス」

「お前さんもな」

 アニスがうなずき、マリオンも小さく微笑んでうなずき返した。

「じゃ、始めるよ、飛龍フェイロン。もう行ってくれ」

 マリオンは三人に向かって手を振ると飛龍フェイロンから離れ、ひとり闇の奥へ向かって歩き出した。ごおっという風の音に振り向くと、本来の大きさを取り戻した飛龍フェイロンが、軽々と二人を背に乗せて天へ向かって身体をうねらせて昇りだしていた。それは優雅で美しく心躍るような眺めで、いっときマリオンはすべてを忘れたようにそれに見惚れた。

「僕も乗ってみたかったかも」

 ぽつりとつぶやくと、マリオンは気を取り直したように再び前に向かって歩き始めた。



 あたりはただ白く濃い闇が続くだけで、何も見えない。足元の大地は、ふわりとした雲のようなものに覆われていて、どこがどうなって何があるのか、目で確認することは不可能だった。ただ、聖杯の声と自分の本能だけがそれが正しい方向だと告げている。

『まっすぐ前方へ』

 白い霧の迷路の中を、心の中に古代の言葉で話し掛ける聖杯の示す方向へ、マリオンは迷うことなく向かっていた。カデカミナ山脈の中心へ・・・・・・。そこはさほど元の場所から遠くない。

 元々神殿のあった場所自体が、ほとんど中心部にあったのだ。だが、正確な場所、となると、それは魔法の力が必要になる。今は、それ自体が魔法である聖杯が、その場所をマリオンに向かって指し示してくれていた。

『ここが我が安住の地』

 やがてマリオンは、一本の白い光の柱が、天空へ向かって立ちのぼっている場所へたどりついた。マリオンがちょうど両腕で抱え込めるほどの太さがあって、白い闇の中でそれは金色に輝いていた。首が痛くなるほど上を見上げると、それは果てしなく天へ向かっていて、光柱の端は天界へ吸い込まれるように消えている。

 しゃりりん、と何処かで何かもろく儚い硝子細工が壊れるようなか細く綺麗な音がした。その音は続けていくつも聞こえてきて、まるで美しい音楽のようだった。

「封印の解ける音・・・・・・か」

 複雑に絡み合っていた最後の封印が、今まさに解けようとしていた。しゃりーんと最後の封印の壊れる音がして、マリオンはふいに目の前の光の柱の中ほどに出現した聖杯に、目を瞠った。

 その美しさは、何度見てもたぶん見慣れることはないであろう。生身の目で見る聖杯も、さきほど精神界で見たときとなんら変わりない、天上の美だった。その美しさに目が眩み、ぼうっとしそうになってマリオンは激しく頭を振った。

 普通のゴブレットよりもほんの少し大きめなだけで他には何も代わったところはない。たぶん、聖杯そのものが自分の魔力を押さえ込んでいるのだろう。その美しさを除けば、魔法らしきものは聖杯からはほとんど感じ取れなかった。きっと、その魔力が感じ取れない、ということ自体が、聖杯の魔力の強さであろうとマリオンは考えていた。どんな魔術師でも魔法を使えば、その気配を断つことはできない。だが創始の魔法、魔法そのものと言ってもよい聖杯の圧倒的な魔力は、その片鱗すらも見えない。

 マリオンは、小さく溜め息をついた。こんなすごい魔法には、たぶんもう二度とお目にかかることはないだろう。マリオンは聖杯に直に手を触れないよう気をつけながら、光柱のすぐ傍まで両手を伸ばしてみた。光の柱はほんのりと温かみを帯びている。それを心地よく感じながら、マリオンは目を閉じて、精神を集中させた。右手を高く掲げ、彼が口の中で何ごとか唱えると、その手の中に蒼い半透明の杖が出現した。

 次にマリオンは大きく目を見開くと、裂帛れっぱくの気合とともにその杖を大地に大きく突き立てた。柔らかな白い大地にその杖は深く突き刺さり、そこには大きな亀裂が走った。

 それを見極めたマリオンは両腕を大きく広げ、顔を上にむけて朗々とよどみなく呪文を唱えていく。その表情に、迷いはなかった。

「大地よ、我が望みに答え、その身を変えよ。北の大地よ、守護聖杯の望みに答え、カデカミナに清き水をいだけ!」

「我が力の源よ。ここ、カデカミナの地の底に眠れる強大なる水よ。清き流れよ。我が召喚に答えよ!」

 マリオンの口から流れ出たものは、封印の呪文ではなかった。それは、大地と水を大きく変えようとする変化(へんげ)と召喚の呪文であった。


 呪文の終わりと共に、ごごっと地の底で、何かが揺らめきうごめくような大きな音がした。ほどなく耳をつんざくような大音と、立っているのがやっとというほどの大きな揺れが起こった。それは神殿のときのような無音の魔法の崩壊ではなく、自然界の崩壊、いや再生といってもよいかもしれないものだった。鳥となって天空から、カデカミナを眺めていれば、多分もっと何が起こったのかはっきりと判ったであろう。

 カデカミナ山脈を形作っていた山々が、カデカミナの中心点へ向かって円を描くように移動し、取り囲み始めていた。大地はこれ以上ないほど揺れ動き、軋み、音を立てている。広大な空間のマリオンの足元に走った大きな亀裂からは、清流がほとばしり溢れごぉごぉとすさまじい勢いで音を立てて流れ始めている。この水こそが、あの大広間に細く結界として流れていた水、滝のように落ちていたあのカデカミナの奥に深く眠る水源であった。

次回は最終章、完結いたします。

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