第9話
あの弁当は、結局司と2人で分け合って完食した。司は弁当箱を持って満足げに去っていったが、早凪はベンチに座り込んだまま動けずにいた。
まさか司は、桜太郎のことが好きなのだろうか。
もしそうだとしたら、こちらに勝ち目はない。司と桜太郎はいとこ同士だ。幼い頃からずっと一緒にいて、長い時間をともにしている。きっと司は、早凪の知らない桜太郎の顔をたくさん知っているのだろう。
……どうして自分は、こんなにショックを受けているんだろう。それではまるで、自分が桜太郎のことを好きだと認めているようなものではないか。いや、そもそも自分は桜太郎が好きなのか? 好きってなんだ? この胸のざわめきはなんだ?
ぐるぐると考えているうちに、時間はどんどん過ぎていった。
その日の練習の休憩時間。喉が渇いた早凪は、飲み物を買いに行くために廊下に出た。廊下の突き当たりのスペースにある自動販売機に向かって歩いていく。その時突き当たりの窓際に、髪の長い女性が立っているのが見えた。
数秒経って気づく。トオルの彼女だ。突然訪れたチャンスに、早凪はどうしていいか分からなかった。彼女はこちらに気づくと、早凪に向けてにっこりと笑いかけた。
「ごきげんよう」
「ご……ごきげんよう」
彼女はスカートの裾を持って一礼した。いかにもいいところのお嬢様といった感じの、丁寧な仕草だった。早凪までつられてお嬢様のような返事になってしまったほどだ。
緊張でうまく身体が動いてくれない。でもこのチャンスを逃したら、もう次はないかもしれない。早凪は意を決して声をかけた。
「わ……私は、水無月早凪と申します。よかったら……お話、聞かせてもらえませんか」
ひとつひとつ、必死に声を絞り出す。早凪が自らの名前を口にした瞬間、にこやかだった彼女の表情はたちまち凍りついた。
「『水無月』……」
険しい表情で、繰り返し名前を呼ぶ。早凪の視線に気づいたのか、彼女は一瞬で元の笑顔に戻った。
「あなたにお話することはありませんわ」
微笑みを浮かべていても、目が笑っていないのが分かる。彼女はまた一礼すると、こちらを振り返ることもなく歩き出す。去ってゆく後ろ姿を、早凪はただ見送ることしかできなかった。
あっと言う間に練習は終わってしまった。せっかく桜太郎が自宅まで送ってくれたというのに、早凪の心のモヤモヤは完全には晴れなかった。帰宅した早凪は、遥希に今日あったことを報告した。
『長谷川トオルの彼女と話したのか』
気のせいじゃない。電話越しでも分かるほどに、いつもと声色が違う。その声は弾んでいるようにさえ聞こえた。
『どんなやつだった? 髪型は? 服装は?』
なぜかは分からないが、いつになく食いついてくる。早凪は彼女の外見や立ち振る舞いを、できるだけ詳細に説明した。
「すごく上品な感じの人だった。話しかけたら、逃げられちゃったけど……」
『だろうな。カリンはそういう女だ』
聞き間違いじゃない。遥希は今、確かにそう口にした。「カリン」……それが、彼女の名前なのか。遥希はなぜ彼女の名前を知っているのか。彼女とどういう関係なのか。謎は深まるばかりだ。
それ以上何も聞くことはできず、電話は切れた。
次の練習は、平日の夕方だった。大学の授業が終わった後、早凪はいつものスタジオに向かっていた。建物の前にたどり着く直前、何者かに声をかけられた。
「あんたか? 最近トオルの身辺を嗅ぎ回ってるファンってのは」
ヘッドホンをつけたその人物は、短い前髪をガシガシとかき上げた。司によく似ているが、別人だ。低い声やシャツから覗くごつごつした腕は、明らかに男性のものだった。
「どうやら、妹が世話かけちまったみてえだな」
混乱している早凪を見て、その男性はニヤリと笑った。司は確か、医学部に通っている兄がいると言っていた。目の前の彼こそが、その兄だったのか。
「オレは希堂悠之助。プレスタの敏腕プロデューサー兼、ライバルグループのリーダーだ」
悠之助は自慢げに胸を張った。自分で自分のことを「敏腕」と称するあたりに、自信の程がうかがえる。
「いいかい、お嬢ちゃん。トオルも桜太郎も、今が大事な時期なんだ。下手なスキャンダルはごめんだぜ」
悠之助は諭すように言った。トオルは彼女がいることを公言しているのに、スキャンダルも何もないような気がするが。そもそもプロではなく、趣味でやっているアイドルだというのに。早凪は何も言わず、適当に相槌を打った。
「あんた、水無月弁護士の娘だろ?」
突然父の話題を出され、早凪は激しく動揺する。父の存在が、今の話に何か関係があるのだろうか。
「それが……どうかしましたか?」
なんとか平静を装って尋ねる。悠之助は何か言いたげにこちらを見つめると、おもむろに口を開いた。
「なら、なおさらだ。ウチには……希堂家には、もう関わらないほうがいい」




