第7話(桜太郎視点)
「お先に失礼します。お疲れ様でした〜」
いつもと変わらない、職場の風景。桜太郎は荷物をまとめて、事務所を後にする。この会社で働き始めて、今年で5年目になる。ハードな肉体労働で毎日ヘトヘトになるが、桜太郎はこの職場を割と気に入っていた。
「おうサク、お疲れさん! 気をつけて帰れよ!」
「今度またライブ観に行くからなー!」
同僚の男性2人が、声を張り上げて返事する。桜太郎の伯父の友人でもある彼らは、桜太郎のことを本当の息子のように可愛がってくれていた。桜太郎は彼らに笑顔で手を振り、ドアを開けて外に出た。外は透き通るような快晴で、ぽかぽかと暖かかった。
今日は「プレスタ」の練習の日。早凪に会える日だ。長時間の現場作業でずいぶん汗をかいてしまったから、一度家に帰ってシャワーを浴びなければならない。自宅に向かって歩きながら考えるのは、もちろん早凪のことだ。
早凪が初めてライブに来てくれた時のことは、今でも鮮明に思い出せる。なんとなく客席を見渡している時、自然と目に止まったのが彼女だった。何かに怯えているような、あの張り詰めた表情。かつての自分と重ねてしまい、目が離せなくなった。
桜太郎はアイドルという自分の立場も忘れて、何度も早凪に声をかけた。怖がられていることには薄々気づいていたが、少しでも彼女の不安を和らげてあげたかったのだ。彼女が初めて笑ってくれた時は、思わず見とれてしまった。もっと彼女の笑顔が見たいと、素直に思った。
何の取り柄もない自分でも、誰かを喜ばせることができるんだと思えた。存在していてもいいんだと思えた。早凪を笑顔にすることこそが、自分の存在意義だとまで思うようになった。
だが、早凪がライブや練習に来てくれるのは、桜太郎のためではない。トオルに会いに来ているのだ。きっと、トオルのことが好きだからだろう。さすがの桜太郎でも、それくらいは分かる。
しかし、トオルには彼女がいる。早凪もそれは知っているはずだ。彼女がいてもアプローチを続けるくらいだから、よほど想いが強いのだろう。
ライブの時に限らず、トオルは頻繁に惚気話をする。彼が心の底から彼女のことを愛していて、他の女性には一切興味がないということは、誰が見ても明らかだった。これ以上関わっても、早凪が傷つくだけだ。だから、早凪をトオルと接触させないようにした。
彼女の目的の邪魔をしているようで心が痛んだが、他にやり方が思いつかなかった。桜太郎はただ、早凪の悲しむ顔を見たくなかっただけ。これ以上つらい思いをしてほしくなかっただけだ。
あわよくば自分のことを好きになってほしいというよこしまな気持ちも、1パーセントくらいはあったかもしれない。でも、そんな気持ちは抱いてはいけない。自分のエゴで早凪を傷つけるなんて、絶対にあってはならない。
この前会った時は、失敗してしまった。早凪と過ごす時間があまりにも心地よくて、つい本音をこぼしてしまったのだ。早凪もいきなりプライベートな話をされて困っただろう。迂闊だった。早凪に……自分が守るべき相手に、弱音なんて吐いたらいけないのに。
そんなことを考えているうちに、自宅の玄関が見えてきた。さまざまな植物の生い茂る庭を抜け、玄関の鍵を開ける。
「ただいま〜」
呼びかけてみても返事はない。桜太郎は階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。荷物を床に置き、ベッドに腰を下ろす。練習が始まるまでにはまだ時間があるので、少し休憩してからシャワーを浴びることにした。
桜太郎はなんとなく、棚の上に置いてあったフォトフレームを手に取る。木材でできたいびつな形のフレームは、かつて桜太郎が伯父に教わりながら作ったものだった。中には綺麗な字で「水無月早凪」と書かれた紙が入っている。先日のライブの後、早凪に名前を教えてもらった時のメモだ。フォトフレームに入れて部屋に飾っているなんて知られたら、気持ち悪がられるだろうか。
仕事や練習で疲れ果てて帰ってきても、このメモに書かれた早凪の名前を見ると、不思議と気分が安らぐ。このメモが……いや、早凪の存在そのものが、いつしか桜太郎にとっての心の拠り所になっていた。
今から早凪に会えるんだと思うと、つい頬がほころんでしまう。今日はどんな話をしようか。この前2人でドーナツを食べたから、甘いものの話がいいか。せめて一緒にいる時くらいは、家のことを忘れさせてあげたい。早凪の苦しみを完全になくすことはできなくても、自分に少しでもできることをしたい。
その時、下の階で玄関の開く音がした。家族の誰かが帰ってきたのか。ふと時計を見ると、練習開始の時刻が迫っていた。ぼーっと考えているうちに時間が経ってしまったらしい。桜太郎は大慌てで練習の準備を始めたのだった。




