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第6話

『散歩中のワンちゃんを触らせてもらったよ〜』


『弟たちとカラオケに行ったよ〜』


早凪(さなぎ)ちゃんは、甘いもの好き?』


 桜太郎(さくたろう)と連絡先を交換してから、早凪の携帯にはときどき彼からのメッセージが届くようになった。野良猫と遊んだ話、パフェがおいしい喫茶店を見つけた話、建設現場のアルバイトで失敗した話……他愛もない日常のエピソードが、可愛らしい絵文字と写真つきで綴られていた。


 あの日以降、早凪は予定が合った時に「プレスタ」の練習を見学させてもらっていた。しかし、早凪は未だにトオルと直接言葉を交わすことはできていなかった。理由は明確だ。休憩時間も、練習が終わった後も、ずっと桜太郎がそばにいるからだ。トオルに近づこうとしても遮られてしまう。


 早凪がトオルに近づくのを邪魔しているようにも見えた。考えてみれば普段の会話にも、送られてくるメッセージにも、不自然なほどにトオルの情報は入っていないのだ。しかし、彼がそんなことをする理由が思いつかない。まさか、トオルに嫉妬している? いや、それはありえない。だったら、なぜ……


 モヤモヤと思い悩みながら、早凪は練習場所のスタジオに足を運んだ。建物に入ったその時、廊下の奥からこちらに向かってくる人影があった。(つかさ)だった。彼女は早凪の目の前で立ち止まると、持っていたカラフルな紙袋を差し出した。早凪はそれを受け取った……いや、押しつけられた。


「えっと、これは……」


「借りは返したぞ」


 司はぶっきらぼうに言い捨て、足早に去っていく。ほのかに甘い香りがするその紙袋を、おそるおそる開けてみる。中にはプレーン、イチゴ、チョコ……いろいろな種類のドーナツが入っていた。しかも、けっこうな量だ。早凪は困惑した。まさか、これを1人で食べろというのだろうか。


 その数十分後、練習が始まった。早凪はスタジオの隅にあるパイプ椅子に腰掛け、練習風景を観察していた。その時突然、着信音が鳴り響く。早凪はメンバーたちに頭を下げながら、慌てて廊下に出た。画面に表示された名前は「水無月(みなづき)遥希(はるき)」。早凪は素早く通話ボタンを押した。


「……どうしたの?」


『何か分かったことはあるか』


 よりにもよって今、電話してこなくてもいいのに。早凪は今まさに練習を見学している旨を伝えた。


『それならいいんだ』


 電話の向こうの声は淡々としていた。心なしか、いつもと比べて機嫌がいいような気がする。


「今日は、具体的に何を調べてくればいい?」


『そうだな。例えば、トオルにとって致命的な……バレたらまともな社会生活が送れなくなるような……そういう秘密を掴んでこい』


 いつになく素直に、遥希は質問に答えてくれた。致命的な秘密……遥希ならともかく、トオルにそんな秘密があるとは思えないが。しかし、ここにきてようやく具体的な指示を出してくれた。少しは前に進んでいる、と思うしかない。


 あっという間に練習は終わる。例によって、トオルは誰よりも早く帰宅してしまった。他のメンバーたちも後片付けを終え、次々とスタジオを後にする。早凪もいつも通り、桜太郎とともにスタジオを出た。


 ふと、司からもらったドーナツのことを思い出す。そうだ、桜太郎なら。甘いもの好きな彼なら、きっと喜んで食べてくれるだろう。


「これ……よかったら、どうぞ」


「僕にくれるの〜? ありがとう!」


 その無邪気な笑顔を見て、思わずこちらまで頬がゆるんでしまう。桜太郎が喜んでくれるのが何よりも嬉しい……はずなのに。心の片隅に、複雑な感情が残る。本当は、早凪の選んだもので喜んでほしかった。


 桜太郎の提案で、ドーナツは2人で半分ずつ食べることになった。建物の外にあるベンチに、早凪たちは並んで座る。これ以上隠すのもためらわれたので、早凪は事実を正直に話した。


「へえ、司ちゃんに会ったんだ〜」


 早凪と同じように、下の名前に「ちゃん」付けで呼ぶ。桜太郎と司は一体、どういう関係なのだろう。早凪が質問するより先に、桜太郎は答えを口にした。


「いとこなんだ。司ちゃんは僕と違って、すっごく頭がいいんだよ!」


「そう、なんですか……」


 肯定も否定もできず、早凪は曖昧にうなずいた。「僕と違って」という部分が、どこか引っかかる。


「僕の家は、代々お医者さんが多い家系でね。両親もお医者さんなんだ」


 桜太郎はぽつぽつと語り始めた。医師の家系。しかし現時点で、桜太郎は医師の道には進んでいない。何か理由があったのだろうか。


「僕……長男なのに、全然ダメでさ。『役立たず』『出来損ない』って、ずっと言われてきたんだ」


 ずっと明るかった桜太郎の表情が、わずかに曇る。「役立たず」。「出来損ない」。早凪も今まで、数えきれないほどそう言われてきた。でも、桜太郎は違う。決して役立たずなんかじゃない。


「そんなこと……ない、と思います……」


 早凪は、思ったことを素直に口に出していた。


「早凪ちゃんは優しいね。ありがとう」


 桜太郎の表情に、しだいに普段の柔らかさが戻っていく。あたたかい、日だまりのような笑顔。でもどこか、先ほどまでの笑顔とは違う気がした。


「ごめんね、いきなりこんな話聞かせちゃって」


 その控えめな謝罪に、早凪は首を横に振った。2人の間にしばし沈黙が広がる。木の葉が風に揺れる音が、やけにはっきりと聞こえた。


「……ねえ。さっきの電話、誰と話してたの?」


 思いがけない質問に、早凪は固まってしまう。桜太郎は真剣な眼差しを早凪に向けた。早凪の返事を待つその表情は、どこか泣きそうにも見えた。

 

「な、なんで……」


「あの時の早凪ちゃん、すごく……つらそうな顔してたから」


 心の一番脆いところを、手のひらで包み込まれるような感覚。胸の奥底から、熱い何かがこみ上げてくる。あふれ出した熱は頬を伝い、早凪の手の甲にぽたりと落ちた。


 こんな気持ちを、早凪は知らない。桜太郎に出会わなければ、きっと一生知ることはなかった。


「う、うう……っ……」


 早凪は声を殺して、ぼろぼろと涙をこぼし続ける。桜太郎は何も言わずその大きな手で、優しく頭をなでてくれた。


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