第5話
2週間後の土曜日。早凪は「プレスタ」のライブ会場に向かっていた。運のいいことに、それほど期間を空けずに次のライブの予約を取ることができた。前回のライブから程なくして、再び長谷川トオルに接近するチャンスを得たのだ。
今度こそ、遥希が納得するような情報を手に入れなくては。ライブが終わった直後、早凪は真っ先に「プレスタ」の控え室に向かった。トオルが帰宅してしまう前に、なんとかして接触を図ろうと考えたからだ。
「あっ、また来てくれたんだ! 嬉しいなあ」
控え室にたどり着く前に入り口からひょこっと顔を出したのは、桜太郎だった。彼は早凪の姿を見つけると、ぱあっと目を輝かせながら駆け寄ってきた。早凪は小さく頭を下げる。
「ど、どうも……」
早凪より頭ひとつ分ほど高い背丈に、メッシュの入った髪。近くで見ると、やっぱり少しだけ怖い。彼は決して早凪に危害を加えたりしないと分かっているのに、本能的に身構えてしまう。
桜太郎は早凪の顔をのぞき込むと、いつもののんびりとした調子で尋ねた。
「そうだ。君、名前はなんていうの〜?」
「水無月……早凪、です」
「サナギちゃんっていうんだ。どんな漢字書くの?」
早凪は考え込む。「早」はともかく、「凪」の字を口頭で説明するのは難しい。早凪はカバンからメモ用紙を取り出すと、ボールペンで自分の名前を書いて桜太郎に見せた。
「早凪ちゃん、か。いい名前だね〜」
名前を呼ばれ、早凪の胸は高鳴る。桜太郎はメモ用紙を手に取り、穴があきそうなほどにじっと見つめていた。その紙は名前を伝えるために使っただけで、役目を終えたら捨てるつもりだったのだが。彼があまりにも大切そうに持っているから、奪い取るのも気が引けた。
その時。控え室の中から何者かが姿を現した。高級そうなカバンを手に持ち、首に白いスカーフを巻いた青年……長谷川トオルだった。すっかり気が緩んでいた早凪は、一瞬反応が遅れてしまう。
「トオルくん、お疲れ様〜」
「桜太郎さん。お先に失礼します」
トオルは礼儀正しく頭を下げると、小走りに近い速度で去っていく。早凪の存在には全く気づいていない様子だった。
彼の視線の先には、1人の女性がいた。つややかな黒髪をピンク色のリボンでまとめた、上品な佇まいの女性だった。おそらく、トオルの彼女だろう。彼女はトオルを見て、幸せそうに微笑む。トオルも満面の笑みで隣に並んだ。2人は仲睦まじく並んで歩き出す。早凪の目から見ても、お似合いの2人だった。
……なんて、ぼんやり見ている場合ではない。このままでは、また話を聞きそびれてしまう。早凪は大急ぎで2人を追いかけようとした。
しかし、立ち位置がまずかった。今この瞬間、トオルたちは早凪に背を向けて歩いている。そして早凪と彼らの間には桜太郎がいる。しかも、絶妙に通り抜けづらい位置にいるのだ。彼は早凪の意図に気づいておらず、どいてくれる気配はない。無理やり押しのけて行こうにも、この体格差では不可能だ。何より、彼をないがしろにしてまで追いかけるなんて、今の早凪にはとてもできなかった。
そうこうしているうちに、トオルたちの姿は見えなくなってしまった。早凪は思わず膝から崩れ落ちそうになる。
「もしよかったら、次は練習見においでよ〜」
桜太郎はポケットから紙のようなものを取り出し、何かを書いて早凪に手渡した。彼の連絡先のようだった。なぜか、イチゴ味の飴玉まで添えられていた。
練習の見学。それなら、もっと踏み込んだ調査ができるかもしれない。今回も情報は得られなかったが、きっと次回以降は調査がはかどるだろう。そう祈るしかない。
その帰り道。ライブ会場の玄関口のあたりに、誰かが立っていた。よく見ると、この前出会ったヘッドホンの女性だった。キョロキョロとあたりを見回して、何か探し物をしているようだ。
ふと早凪が足元を見ると、カードのようなものが1枚だけ落ちていた。拾い上げて確認すると、その女性の顔写真が印刷されていた。車の免許証のようだった。顔写真の隣には「希堂司」と書かれている。彼女の名前だろう。桜太郎と同じ苗字ということは、彼の親戚か何かだろうか。
早凪は数秒迷って、おそるおそる司に近づき免許証を差し出した。彼女は早凪の存在に気づくや否や、むしり取るようにそれを受け取った。
「ふん。こんなことで、俺様に恩を売った気になるなよ」
感謝の言葉のひとつもなく、司は立ち去ろうとする。しかし数メートルほど歩いたところで突然足を止め、こちらに戻ってきた。
「……悪かった」
司はそっぽを向きながら、小さな声でそう言った。「ありがとう」とでも言っているつもりだろうか。もしかしたら、早凪が思っていたほど悪い人ではないのかもしれない。
今までの早凪なら、きっと無視して帰っていただろう。それでも、拾ってあげる気になったのは……きっと、今日桜太郎に会えたからだ。こんな自分にも優しくしてくれる人がいることを知ったからだ。
帰る途中、もらった飴玉を口に含んでみる。包み込むような甘さが、じんわりと口の中に広がる。かたく閉ざされていた早凪の心は、少しずつほどけていった。




