第4話
桜太郎の姿が見えなくなってからも、早凪は彼のいた方向を見つめ続けていた。心の奥に明かりが灯ったような、あたたかい感覚。早凪はぼんやりとその余韻に浸っていた。
その時のことだった。突然突き飛ばされたような衝撃に、早凪はよろめく。どうやら肩から提げていたカバンに、何者かがぶつかってきたらしい。早凪は反射的に距離をとり、頭を下げた。
「おい、道の真ん中で立ち止まるな。邪魔だ」
「す、すみません……」
その人物は早凪のほうを振り返ると、威嚇するようにこちらを睨んだ。ボサボサの短髪にヘッドホンをつけた、気の強そうな女性だった。外見も口調も男性のようだが、よく見ると体つきや声の感じから女性だと分かる。
彼女の姿を見た瞬間、早凪の中にじわじわと苦い記憶が蘇ってきた。かつて中学時代、クラスで威張り散らしていたいじめっ子の女子生徒によく似ていた。早凪にとって、父や兄とは違う意味で受け入れがたい存在だ。
そうだ、あいつが……あいつのせいで……
とめどなく湧き上がる感情にのまれ、思わず全身に力が入ってしまう。目の前の女性から見えないように、早凪は拳をぎゅっと握りしめた。
その女性は大げさにひとつため息をつくと、早足で去っていった。擦れるような作業靴の足音があたりに反響した。早凪は冷静さを取り戻すために、何度も深呼吸を繰り返す。一時は光が差しかけていた心に、再び雲がかかり始めていた。
家に帰り着いてすぐ、早凪は遥希に電話をかけた。定期的に連絡しないと、また機嫌が悪くなるかもしれないからだ。10コール目くらいで、遥希は電話に出た。早凪はライブで得られたごくわずかな情報を、できるだけ詳細に説明しようとした。
「それで……長谷川トオルには彼女がいて、ライブでも彼女の話を……」
『そんなことは分かってるんだよ。もっと有益な情報はないのか?』
早凪がたどたどしく説明しているうちに、遥希の声にはしだいに苛立ちがにじみ始める。まずい。何か彼が食いつくような情報を出さなければ。早凪は頭の中で必死に情報を整理した。
『もっと……長谷川トオルの決定的な弱みが握れれば……』
ふいに聞こえたつぶやきに、早凪の思考は一瞬止まる。トオルの弱みを握ること……それが、遥希の目的なのだろうか。でも、何のために? 遥希とトオルの間に、一体何があったのだろう。
早凪があれこれ考えているうちに、電話の向こうからトントンと机を叩くような音が聞こえ始める。遥希が焦っている時の癖だった。
『とにかく、オレは試験勉強で忙しいんだからな。これ以上手間取らせるなよ』
遥希は、早凪と同じ大学の法科大学院に在籍している。実家の法律事務所を継ぐために、弁護士を目指して勉強しているのだ。
早凪と遥希の父親……水無月悟は、地元ではそこそこ有名な弁護士だ。法廷での弁護や法律相談の実績もあり、町の人々からの信頼も厚い。だが、それも表向きの話。家での父は、まるで別人だ。少しでも気にくわないことがあると機嫌が悪くなり、母や早凪に当たり散らすのだ。あの遥希ですら、父には頭が上がらないほどだ。きっと遥希は早凪に冷たい態度を取ることで、憂さ晴らしをしているのだろう。
「ごめんなさい……次は……次こそは、ちゃんとした情報を持ってくるから……」
早凪はひたすら謝り続ける。電話越しに、はっきりと舌打ちが聞こえた。
『役立たずが』
吐き捨てるような一言とともに、電話は切れた。
早凪はそのまま携帯をスリープモードにし、机の隅に置いた。なぜか、自然とパソコンに手が伸びてしまう。気がつくと再び、「プレスタ」のホームページを開いていた。以前見たものと同じ、メンバーたちの集合写真が表示される。その右端では桜太郎が、あの時と変わらない笑顔を見せていた。
『希堂……桜太郎。桜に太郎って書いて、桜太郎だよ』
『また来てね!』
あの時かけられた言葉を、頭の中で反芻する。桜太郎のことを考えている時だけは、少し心が軽くなる気がした。何もかもが早凪に冷たいこの世界で、彼だけが優しかった。
引き寄せられるようにカーソルを合わせる。早凪はその集合写真を、そっと自分のパソコンに保存した。




