第11話
午前中の授業を受け終え、早凪は法学部棟を出た。外には、絵の具をそのまま塗ったような青空が広がっていた。どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。そんな平和な光景を前にしても、早凪の心は重く沈みきっていた。
『ウチには……希堂家には、もう関わらないほうがいい』
あの時悠之助に言われたことが、頭の中をぐるぐると回り続ける。あれはどういう意味だったのだろう。希堂家には何か、水無月家の人間が関わってはいけない事情でもあるのだろうか。
そのことがずっと頭の中にこびりついて、桜太郎にもそっけない態度を取ってしまった。心優しい彼のことだ。きっと心配しているだろう。いや、もう早凪のことを嫌いになってしまったかもしれない。
どんなにつらくても、大学を休むわけにはいかない。キャンパスの中をぼんやりと歩いていると、前から近づいてくる人影があった。その人物は早凪の目の前で足を止める。早凪は目を疑った。
「水無月早凪さん。少々お時間よろしくて?」
長い髪を耳にかけながら、早凪ににっこりと微笑みかけたのは、カリンだった。どうやら、早凪に拒否権はないようだ。2人は近くの学生食堂に場所を移し、窓際の席に向かい合って座った。
「先日は動揺していたもので、大変な無礼を働いてしまいましたわね。重ねてお詫びいたしますわ」
丁寧な謝罪の言葉とともに、カリンは頭を下げた。
「単刀直入に申し上げますわ。あなたは、水無月遥希という男をご存知かしら」
笑顔の奥に、無言の圧力を感じる。息苦しい沈黙の中、カリンはこちらをじっと見つめ続けていた。まるで面接でも受けているかのような気分だった。
「私の、兄です」
言葉に詰まりながらも、早凪は正直に答えた。
「……やっぱり」
カリンはそうつぶやいた。彼女はしばらく視線を泳がせた後、再び早凪のほうを見た。
「あなたのお兄様と私は、以前お付き合いしていたことがありますの」
衝撃のあまり、早凪は言葉を失った。今まで、遥希に恋人がいるような気配は微塵もなかった。しかし彼の性格上、自分の恋愛事情を家族に明かすとは考えにくい。特に、見下している対象であろう早凪には。
「いろいろあってお別れしたのですが……トオルくんとお付き合いを始めて間もない頃、彼は再び私の前に現れたんですの」
カリンは淡々と語った。話が進むにつれて、その上品な微笑みがしだいに崩れていく。
「私には、絶対に知られたくない秘密があった。彼は私の目の前で、トオルくんにその秘密を暴露したのですわ。私とトオルくんを別れさせるために」
早凪は黙って相槌を打つ。そこまで言い終えると、カリンは苦しそうに表情を歪めた。
「でも……秘密を知っても、トオルくんは私を見捨てなかった。それが、彼にとっては想定外だったようですわね」
聞いているうちに、だんだんトオルの調査を依頼した理由も見えてきた。おそらく、トオルにプライドを傷つけられた仕返しをしようとしたのだろう。でも、本当にそれだけなのだろうか。考えていたその時、ドタドタと忙しない足音がした。
「カリンさん!! ご無事ですか!?」
耳が痛くなるような大声とともに駆け寄ってきたのは、トオルだった。トオルはカリンを守るように間に割って入り、こちらを睨みつけた。早凪がカリンに危害を加えようとしているとでも思ったのだろうか。
「落ち着いて、トオルくん。早凪さんに加害の意図は感じられません。信用しても大丈夫ですわ」
カリンはトオルをなだめるようにそう言った。トオルは納得いかないような表情を見せながらも、大人しく引き下がった。
「早凪さん。ご協力はできませんが……お兄様の命令に従うかは、あなたにお任せしますわ」
カリンの言葉に、早凪は曖昧にうなずく。結局、トオルとカリンとはそこで別れた。
帰る途中、早凪はなんとなく携帯を見た。通知欄にはメッセージが1件。桜太郎からだ。早凪は大急ぎで内容を確認した。
『よかったら、会って話さない? 月雨中央公園で待ってるね』
早凪は散々迷ってから、行くという旨の返信をした。考えてみれば、トオルの調査や「プレスタ」の練習と関係なく桜太郎と会うのは初めてだった。
数日後。早凪は集合時間よりもだいぶ早く、指定された公園に足を運んだ。池のそばにあるベンチで、桜太郎は待っていた。2人は並んで座り、久しぶりに他愛もない話をした。
しかし、桜太郎の様子が明らかにいつもと違う。当たり障りない話題を探っているような、何か他に言いたいことがあるのに、言えずにいるような……そんな様子だった。
「早凪ちゃんって、大学でどんな勉強してるの?」
早凪はカバンに入っていた民法の教科書を見せた。桜太郎はそれを手に取って、パラパラとめくる。彼は教科書の中身を見て小さく首をかしげたかと思うと、すぐに早凪に返した。
「どうして法学部にしたの?」
その問いかけに、早凪は一瞬ためらう。でも、この人になら安心して話せる。友人がいじめに遭っていたこと。自分はそれを止められなかったこと。今でもずっと後悔していること。早凪は順を追って、自らの過去を話した。
「そうだったんだ……」
「全ての犯罪をなくすことはできなくても、犯罪被害で苦しむ人を1人でも減らしたいんです」
桜太郎は神妙な面持ちでうなずく。こんなに早凪の話を真剣に聴いてくれる人は、今までいなかった。
「犯罪者を庇った人、止めなかった人もまた犯罪者だと、私は思います」
あの時、ただ見ていることしかできなかった。そういう意味では、早凪もまた犯罪者だ。そんな自責の念から出てきた言葉だった。
ふと、桜太郎からの返事がないことに気づく。違和感を覚えた早凪はおそるおそる顔を上げる。桜太郎は、今まで見たこともないような生気のない表情をしていた。
嫌な胸騒ぎがする。何か、まずいことを言ってしまったのだろうか。早凪は彼にかける言葉を必死に探した。しかし、どんなに探しても見つからない。何か、何か言わなきゃいけないのに……
桜太郎はゆっくりと立ち上がると、今にも消えそうな声でつぶやいた。
「……ごめんね」
言わなきゃ。でも、声が出ない。早凪は何も言えないまま、去ってゆく後ろ姿を呆然と眺めていた。
その日を境に、桜太郎からの連絡は途絶えた。




