第10話(桜太郎視点)
ある練習の日。建設現場での仕事を終えた桜太郎は、いつものようにスタジオに向かった。大学の授業終わりに来てくれた早凪と合流し、他のメンバーたちが待つ建物の中に入る。
桜太郎はすぐに違和感に気づいた。早凪の様子がおかしい。ここ最近はずっと元気がなかったが、今日は特にそうだ。練習中も早凪のことばかりが気になって、ほとんど集中できなかった。
「すみません……もう、帰ります」
いつもなら桜太郎が帰るまで残っているのに、早凪は練習が終わると同時に帰る準備を始めた。
「もう暗くなってきたし危ないよ? 送っていくよ」
「大丈夫です」
早凪にたった1人で夜道を帰らせるなんて、できるわけがない。桜太郎は必死に説得を試みたが、早凪は譲らなかった。いつもは桜太郎に合わせてくれる彼女が、ここまではっきり拒否するなんて。結局桜太郎のほうが折れて、1人で帰らせることになってしまった。
「これ、お守り」
桜太郎は早凪の手に、小さなヘアピンを握らせた。花の飾りがあしらわれたそのヘアピンは、駅前のお店で買ったものだ。一目見た時、早凪に似合いそうだと思ってつい買ってしまったのだ。いつか渡そうと思って、ずっとカバンに入れたままだった。
「これを僕だと思って。気をつけて帰ってね」
「ありがとう、ございます……」
早凪は小さく頭を下げる。彼女はカバンから可愛らしい柄のポーチを取り出し、ヘアピンを大事そうにしまった。そのまま出て行こうとする彼女を、桜太郎はスタジオの外まで見送りに行った。
笑顔で見送ったものの、桜太郎の中には不安が渦巻いていた。もし事故に遭ったら。通り魔に襲われたりしたら。悪い想像が次々と浮かんでは消えていく。少しでも気持ちを落ち着かせるため、桜太郎は廊下をうろうろと歩き回っていた。
「サナギさん……でしたか。最近よく来てますね」
いつの間にか、背後にはトオルが立っていた。桜太郎にスポーツドリンクのボトルを手渡しながら、彼は意味ありげにニコッと笑った。
「きっと、桜太郎さんにとって特別な人なんですね!」
「そ、そういうのじゃないよ……」
桜太郎はうつむいたままボトルを受け取った。頬が熱くなっていくのが自分でも分かる。反射的に否定してしまったが、早凪が桜太郎にとって特別な存在だというのは紛れもない真実だった。
練習用のジャージから普段着に着替えるため、桜太郎はトオルと2人でロッカールームに移動した。今後の予定を確認するため、桜太郎はカバンから出したスケジュール帳を開く。
その時、たまたま挟んで持ってきていたメモ用紙がひらひらと床に落ちた。早凪の名前が書かれた、大切なメモ。桜太郎は慌てて拾い上げようとしたが、先に拾ったのはトオルだった。
「ごめんね〜、ありがとう」
桜太郎はメモを受け取ろうと手を伸ばした。しかし、トオルはその紙を渡そうとしない。
「『水無月』……?」
聞こえるかどうかという小さな声で、トオルは書かれた名前を読み上げる。その顔色は心配になるほど青白かった。彼はしばらく考え込むと、覚悟を決めたように口を開いた。
「桜太郎さん。次にあの人が来たら、伝えてもらえませんか。僕たちには、もう金輪際関わらないでほしい……と」
「えっ?」
トオルが何を言っているのか、桜太郎には分からなかった。どうしてそんなことを言うんだ。早凪が何か悪いことをしたとでもいうのか。それにもしそんなことを言ったら、早凪はもうここに来てくれなくなってしまう。桜太郎と会ってくれなくなってしまう。それが何よりも耐えられなかった。
「これは、僕の個人的な問題です。桜太郎さんや他のメンバーを巻き込むわけにはいきません」
トオルはきっぱりと言い切った。桜太郎は何と返したらいいか分からず、ただ呆然と聞いていることしかできなかった。
「カリンさんを……彼女を守るためなんです。どうか分かってください」
トオルは深々と頭を下げた。桜太郎が早凪を守りたいと思うように、トオルも彼女のことを守りたいと思っている。事情は分からないが、その気持ちは痛いほど分かる。それでも……
その場の空気は冷たく張り詰めていた。トオルは何も言わずロッカールームを出て行く。スタジオにいる他のメンバーたちの話し声が、やけに遠く聞こえた。




