第九話 依頼
「忠犬、依頼だ」
地下拠点に響いた俺の声は、自分でも驚くほどひび割れていた。
三日間、酒と涙で喉を焼き続けた報いだ。
忠犬がゆっくりと振り返る。フードの奥の無機質な瞳が、俺の汚れきった姿を静かに見据えた。
いつものように無表情だが、俺が差し出した依頼書を見つめるその瞳には、かつてない「困惑」が混じっているように見えた。
「……今回の依頼は、とある平民の暗殺だ。……抵抗はしない。病床で寝ているだけの女だ」
「……」
「報酬は……俺の全財産だ。受けてくれるな…?」
俺にはもう金の必要はない。
報酬の話を聞いても、忠犬の手は動かなかった。
数ヶ月間、俺たちはどんな泥仕事もこなしてきた。だが、こいつは俺が提示した「標的」のあまりの無価値さに、あるいは、それを命じる俺の異様な気配に本能的な拒絶を示していた。
「……わかっている。こんなものは『暗殺者』のやる仕事じゃない。だが、これをお前にしか頼めないんだ」
「……」
忠犬は依然として動かない。
沈黙が部屋を支配する。俺は、自分を支えていた理屈の糸が、ぷつりと切れるのを感じた。
「……わかった、……事情を話そう」
俺は震える右手を隠すようにポケットに突っ込み、そこにある銀の指輪の小箱を、指が白くなるまで握りしめた。
「実は、その依頼人は――俺の妻だ」
「……!」
忠犬の眉が大きく跳ねた。フードの奥の静寂が、初めて明確な「動揺」に変わる。
驚きというより、俺の正気を疑うような視線だ。
「……なんだ、その顔は。俺にだって、妻くらいいる」
俺は天井を見上げ、枯れ果てたはずの涙を堪えた。
「妻は……不治の病だ。俺が必死になって掻き集めた金も、あの子を犠牲にして手に入れた時間も、すべては無駄だった。
……あいつが望んでいるんだ。俺がこれ以上、自分のために手を汚し続けるのを見たくない、安らかに死なせてくれとな」
声が震えそうになるのを、無理やり押さえつける。
「……俺は、最低の臆病者だ。あいつの最期の願いを叶えてやりたいと言いながら、自分の手でその命を断つ勇気すらない。
……だから、お前に頼むしかないんだ。お前の、その刃で、あいつを眠らせてやってくれ」
俺が深く頭を下げると、部屋に長い沈黙が流れた。
やがて、忠犬が音もなく歩み寄り、俺の前に立った。
彼は静かに、震える俺の手から依頼書を抜き取った。
「……」
その紙の重みが、俺たちの関係を決定的に変えてしまうことを、俺は理解していた。
忠犬は依頼書を懐に収めると、出口に向かって歩き出す。
扉に手をかけたところで、俺は忠犬に初めて謝罪の言葉を投げかけた。
「忠犬。
……すまない」
忠犬は一度立ち止まるだけで、振り返らなかった。
ただ、小さく頷いたように見え、そのまま夜の闇へと消えていった。
一人になった地下室で、俺は椅子に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。
これで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせる。
だが、喉の奥に残る酒の味は、相変わらず酷く不味いままだった。
あと4話…
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