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蝿の仲介人  作者:


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8/9

第八話 屈服

 小鼠の死から、数ヶ月が過ぎた。


 地下室は再び、静寂に支配されている。

 忠犬は相変わらず依頼を黙々とこなし、俺は相変わらず中抜きをして金を稼ぐ。


 ただ一つ違うのは――俺が、以前なら断っていたような汚れ仕事まで引き受けるようになったことだ。


 どんな仕事も報酬さえ良ければ、外道と蔑まれるような真似でも喜んで引き受けた。

 ここにはもうそれを口うるさく咎めてくれた小動物はもういない。


 かつての俺が一欠片は持っていた倫理や矜持は、もはや安酒で洗い流された過去の遺物に過ぎなかった。

 手元には、その代価として積み上がった、血と泥の匂いが染み付いた金貨の袋と轟く悪名。


 世間でも死を運ぶ仲介人、『蝿の仲介人』として既に名が知れ渡っており、恐れられているそうだ。

 その仲介人に依頼をすれば、たちまちその影が現れ、標的を始末し、そこに残っているのは標的の死体とその死体に(たか)る蝿だけ。


 しかし、これでいい。

 俺は目的のためなら何でもするとかつて誓ったはずだ。

 

 ――これで、また彼女――妻の命を買い延ばせる。



 

 俺は地下拠点の淀んだ空気を振り払うように馬を出し、人里離れた森の奥へと向かった。

 

 一日がかりの道中。街の喧騒が遠のき、空気が清涼なものに変わるにつれ、俺は必死に蝿の「怪物」の面を剥ぎ取り、かつての「夫」としての顔を繕い続けた。


 たどり着いたのは、静寂だけが支配する療養所。

 そこに、俺のすべてを賭けた「未練」が横たわっている。


 扉を開けると、そこには冬の朝のような、冷たく乾いた沈黙があった。


「……あなた? やっと、来てくれたの?」


 白いシーツに沈み込む妻は、もはや肉体というよりは、光に透ける薄氷のようだった。

 

 彼女の大きな瞳がゆっくりと俺を捉える。

 その視界はまだ、失われていない。

 だからこそ、俺は自分の「汚れ」を見透かされることに絶望した。


「……ああ、ここだ。ここにいるぞ」


 俺が手を握ると、彼女は激しく咳き込んだ。

 慌てて差し出した白い布が、どろりとした鮮紅に染まる。

 

 残された時間は、せいぜい数週間、もって数カ月。

 

 俺が人間であることを辞めてまで掻き集めた金貨は、彼女の命を一日買い延ばすためだけの、あまりに安すぎる代価だった。


「――。あなた、ひどい顔をしてる……」


 彼女の指が、俺の頬に触れた。

 その瞳は、俺の顔に刻まれた「死臭」を正確に読み取っていた。


「……仕事が立て込んだだけだ。気にするな。これで、また新しい薬が買える」


「いいの。……もう、いいの」


 妻の声は、羽毛のように軽いが、俺の鼓動を止めるには十分な重さがあった。


「お願い、―――。そんな辛い仕事は……もう、辞めて。かつて子ども達を導いていた時のあなたに戻って…」


 ……そんな自分は既に捨てた。

 最後の教え子は死んでしまった。いや、俺が殺したようなものだ。

 

 俺は教師なんてもう名乗れ無い。ただ、死を纏った『蝿の仲介人』だ。


「……お前を救うためだ! この金で、もっと強い薬草を、もっと腕の良い医師を……!」


「私は……あなたが人であることを辞めてまで、生きたいとは思わない」


 俺は絶句した。

 俺が人間であることを捨て、血に塗れて掻き集めた金。

 それを、救うべき当の本人が、慈悲という名の刃で切り捨てたのだ。


「……お前を救うのが、先だ。それ以外に、俺が生きる理由はないんだ」


 俺は彼女の手を握り締めたが、その手は恐ろしいほど冷たく、もはや生者の温度を失いつつあった。


「……ねえ、―――」


 彼女が、血を吐くような思いで言葉を絞り出した。


「……もう、じゅうぶんなの。……これ以上、苦しみたくないの。安らかに……終わらせて」


 彼女が血を吐く思いで絞り出したその言葉は、俺の鼓動を刺し貫くには十分すぎる威力を持っていた。


「……何を、言っている。何を言ってるんだ……!」


 俺は彼女の手を振り払うように立ち上がった。

 

 これを認めてしまえば、俺が血に塗れて掻き集めてきた金も、小鼠を死なせてまで手に入れた時間も、忠犬にすべての汚れ役を押し付けていた自分も、すべてがゴミクズになる。

 俺の数年間は、ただ愛する人を殺すための準備期間だったということになってしまう。

 

 認められない。認めてたまるか。


「無理だ。そんなこと、できるわけがない……!」


 俺は逃げるように病室を飛び出した。

 


 それから三日間、俺は療養所の近くにある寂れた酒場で、泥のような安酒に溺れた。


 懐にある銀の指輪を取り出しては、その輝きに自責の念を覚え、また箱に閉じ込める。

 

 ――俺が悪かったのか、世界が悪いのか。

 答えの出ない問いを繰り返し、吐くほど飲んでも、耳の奥には彼女の声がこびりついて離れなかった。


 


 四日目の朝。俺は再び、彼女の部屋の扉を開けた。


 そこには、俺が逃げ出した三日前よりも、さらに一回り小さくなった彼女の姿があった。


 溢れた鮮血がシーツを赤く染め、呼吸の一つひとつが、肺を焼くような苦痛を伴っているのが見て取れた。彼女はもはや、俺の名前を呼ぶことさえできず、ただ薄く目を開けて俺を見つめた。

 その瞳には、恨みも怒りもなく、ただ、早くこの地獄から解放してほしいという、祈りだけが宿っていた。


 俺が彼女のために延命のための薬を買い、時間を買い、命を繋ぎ止めることは、彼女にとって「愛」などではなく、終わりのない「拷問」でしかない。

 その残酷な事実から目をそらし続けていた。


 そのことに俺はついに屈した。屈してしまった。


「……」


 俺は彼女の横に座り、氷のように冷たくなったその手を、今度は優しく、壊れ物を扱うように握りしめた。


「……わかった。……引き受けよう、――」


 俺の返答を聞き、彼女は満足そうに、本当に僅かだけ口角を上げた。そして、目を閉じた。


 俺は、彼女に悟られぬように顔を伏せ、声を殺して慟哭(どうこく)した。


 一方で、その震える手を握りしめながら、冷徹な仲介人としての思考を動かしていた自分もいた。

 このまま放置すれば、彼女は数日、あるいは数週間、呼吸すらままならない地獄を彷徨うことになる。

 

 

 そんなものは()()()ではない。

 この世界で、最も確実に、痛みもなく彼女を眠らせる方法は――()()しか思い浮かばなかった。

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