最終話 清算
世界を変える依頼を始めてから、数ヶ月が過ぎた。
「よくやった。これでヴェルガン王国は戦争を続けることはできない」
忠犬が血まみれのナイフを拭い、静かに鞘に収める。背後では炎上する王宮が夜空を赤く染めていた。戦争狂いの国王は今、玉座で冷たくなっている。
「明日にはヴェルガンとエルドラン両国の間で停戦協定が結ばれるだろう。これで何千、何万の兵士が死なずに済む」
忠犬が小さく頷く。
「次は此奴だ」
新しい依頼書を差し出す。そこにはある学者の名前が書かれていた。
「アルキメデス研究所の所長、ドクター・ハインリヒ。此奴は治療薬の製法を秘匿独占し、権力者にしか売らず、世界の医療発展を故意に遅らせた大罪人だ。何万人の命が失われたと思っている」
忠犬は依頼書を受け取り、無言で頷いた。
――――――――――――――――――――――
一週間後。
「完璧だ。ハインリヒの研究資料はすべて回収できたか?」
忠犬が厚い束の書類を机に置く。
「よし、これを各国の医療機関に匿名で送る。もう誰も治療法を独占することはできない」
俺は書類をめくりながら続けた。
そこにふと、見覚えのある症例の治療法を見つけた。
「妻の病気の治療法も…ここにあったんだな。もう少し早ければ」
唇を噛み締め、資料を机に叩きつける。
だが、後悔しても妻は戻らない。
ならば――この治療法を、世界に広めるだけだ。
――――――――――――――――――――――
数ヶ月後。
俺が仲介人として張り巡らせた蜘蛛の巣は、今や世界中の「悪」を絡め取る絞首刑の縄へと変わっていた。
「奴隷商人ギルドの壊滅、ご苦労だった」
忠犬の服に返り血が付いている。凄惨な戦いだったのだろう。
「これで人身売買のルートは完全に断たれた。獣人族の子供も、もう攫われることはない」
窓の外では、解放された獣人の奴隷たちが故郷へと向かう馬車の列が見えた。
その中に、小さなリスの獣人の姿を探してしまう。
――いるわけがない。あの子は、もう。
「……せめて、お前のような子供たちが、もう生まれないように」
馬車が行ったのを確認して、次の依頼書を取り出す。
「次は軍需商人のマルコヴィッチだ。戦争を長引かせて金儲けをする外道め」
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それから、半年後。
「各国の国境線が大幅に変わったな」
地図を広げながら呟く。
「パールハイト公国の圧政からローレンス地方が独立。スレイヤ傭兵団の団長暗殺により、小国への侵攻も停止。商人たちの価格操作も阻止できた」
忠犬が地図上の赤い印を見つめている。それは俺たちが排除した標的たちの位置を示していた。
「食料の流通も正常化された。もう飢餓で苦しむ村はないだろう」
――――――――――――――――――――――
夕日が差し込む病室で、俺は疲れ切った体を椅子に預けた。
ベッドでは、彼の妹が穏やかに寝息を立てている。
かつての妻が、ついぞ手に入れることのできなかった「安らかな眠り」がそこにはあった。
「忠犬、お前が何のために戦っていたのか、ようやく分かったよ」
傍らに立つ相棒に声をかける。
「お前は、守りたいものを守り抜いたんだな。……俺とは違って」
相棒の表情に、ほんの僅かな、だが確かな変化があった。
「なら、良かった」と、俺は本心からそう思った。
救いたい者は、もういない。成すべきことも、すべて終えた。
最後のあの依頼を出すのに、この清浄な病室は似つかわしくなかった。
この空間を穢すことなどしたくない。
俺は立ち上がり、最後の依頼を完遂するために、いつもの、あの不味い酒が置いてある地下室へと向かった。
手に銀の指輪をつけて。
地下拠点の冷たい空気の中、俺は最後の一通となる依頼書を机に置いた。
忠犬がいつものように、音もなく俺の前に立つ。
「これが本当に、最後の依頼だ」
俺は依頼書を相棒の方へ押しやった。
「この1年。世界を混乱に陥れ、国境を変え、要人を暗殺し、お前に殺しをさせ続けた史上最悪の極悪人がいる。
……そいつを殺せ」
相棒がゆっくりと、その紙を手に取る。
依頼書に書かれた名は、
『フジタ サトル』
俺自身の名前だ。
「そいつには、もう生きる理由がない。躊躇いは無用だ。……お前の妹を救ったこの金も、すべての罪も、俺が地獄へ持っていってやる。お前はただ、光の下で妹と共に生きればいい」
相棒の手が、僅かに震えた気がした。
最期に、その瞳に光るものが見えた気もしたが……きっと、何かの見間違いだろう。
俺は机に置いてあった、瓶に残った安酒を喉に流し込んだ。
相変わらず、吐き気がするほど不味い。だが、これでいい。
「……まさか、俺の最期がお前の手にかかるなんてな」
喉元に、相棒の銀閃が突きつけられる。
フードの奥に潜むあいつの瞳は、相変わらず何も語らない。だが、その冷たい金属の感触だけが、妙に心地よかった。
「飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこのことか。
……蝿が最後には野犬に喰われる。ハッピーエンドには程遠いな」
「……」
相棒は、ただ静かにナイフを振りかぶる。
その手は、先ほどよりもはっきりと震えていた。
……あぁ、お前は本当に、不器用なほど優しい奴だな。
お前にこんな重荷を背負わせて――
その影が俺を飲み込む直前、俺は相棒にしか聞こえない声で、そっと呟いた。
「……悪いな、相棒」
俺は静かに目を閉じた。
脳裏には、出会った頃の妻の笑顔。そして、忠犬や小鼠と過ごしたあの日々が浮かんでいた。
――これで、やっと会える。
刹那、無慈悲な銀閃が振り下ろされた。
銀の指輪も同じように輝いていた。
俺たちのしたことで、世界は少しだけ変わったのかもしれないし、何も変わらなかったのかもしれない。
でも、少なくとも。 俺たちのような者が生まれる理由は、一つ減ったはずだ。
それだけで、十分だった。
【完】
需要のあるかわからない筆者のあとがき回へ続く…




