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蝿の仲介人  作者:


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第十一話 終焉

「……遅かった……か」


 間に合わなかったのか。

 

 病室に駆け戻った俺が目にしたのは、暗闇に佇む忠犬の背中だった。

 

 

 その足元、ベッドの上では、彼女が寝苦しそうに、だが確かに呼吸を続けている。

 まだ、生きている。

 

 どういうことだ。なぜ忠犬はただ立っているんだ。

 こいつならこんな簡単な依頼を終わらせるのは容易いはず。

 

「……」


 忠犬は無言のまま、一通の紙を俺の胸に押し付けた。

 それは、俺が震える手で書き上げた、妻の暗殺依頼書。

 

 不敗の暗殺者が、()()()その仕事を放棄した瞬間だった。


「っ……」

 


 目頭が熱くなった。

 顔を押さえ、つい取り繕うような一言が出た。

 

「お前が初めて失敗した依頼が、これとはな……」


 忠犬は一瞬だけ立ち止まり、俺の言葉に頷くようにして、音もなく部屋を出ていった。

 その去り際は、暗殺者としての誇りよりも、一人の()()としての静かな抗議のように見えた。


「……あの人は」


 消え入りそうな妻の声が、夜の静寂に溶ける。

 妻はどうやら全てを聞いていたらしい。

 彼女の目からは、幾筋もの涙が溢れていた。


「……すまない。俺は仲介人失格だ。お前の願いを、叶えてやれなかった」


「いいのよ……。



 ……死にたいなんて、嘘だったの」


「……ぇ?」


 俺の心臓が、冷たい氷で撫でられたように凍りついた。


「あなたが……いつの間にか、とても怖い顔をするようになったから、……私が死ねば、あなたはもう、知らない誰かを、自分を傷つけなくて済む。そう思ったの」


 「逝かせて」という彼女の言葉は、俺を地獄から引きずり出すための、精一杯の自己犠牲だった。

 俺が彼女のために怪物を演じていたように、彼女もまた、俺のために「死」を望むふりをしていたのだ。


「そんな……そんなことのために、お前は……」


「私のために頑張ってくれているのに……ごめんなさい。でも、あなたの影にいる彼には、すべてお見通しだったみたい……」


 俺は、彼女のことを何も分かっていなかった。

 「仲介人」を気取って、冷徹な計算で世界を動かしているつもりだった俺は、ただの、救いようのない道化だった。

 愛する妻の真意さえ読み取れず、思考停止の暴力で全てを解決しようとした、最低の夫だ。


「……最後に一つ、お願い。


 ……一緒に、居て」

 


 


 それからの数日間。

 俺は「蝿」としての仕事も、血塗られた金貨の勘定もすべて忘れ、ただの夫に戻った。

 何年もまともに話を交わしていなかった俺たちの間のわだかまりが、雪解けのようにじっくりと消えていった。


 忠犬のこと、小鼠のこと、依頼のこと。

 出会った時の話、二人で過ごした日々のこと。


「ねえ……あなたの故郷の話、もう一度聞かせて」


 妻の声は弱々しかったが、どこか懐かしむような温かさがあった。


 語り合うたびに、俺の魂にこびりついた汚れが、少しずつ剥がれ落ちていくような気がした。


「あなたの故郷に行ってみたかったな……」

「あぁ、いつか連れていくよ……絶対だ……」

「約束ね……?」

「ああ……約束だ」

 

 

 

 数日後。 彼女は俺の手を握ったまま、眠るように息を引き取った。


 そこにはもう苦痛の表情はなく、ただ穏やかな慈愛だけが残されていた。

 

 握り合った二人の手には、寄り添うように二つの銀の指輪が光っていた。

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