日常の裏側
朝。
カーテンの隙間から射す光が、部屋の中に淡く差し込む。
目覚ましの電子音が鳴り響き、リクは枕に顔をうずめたままうめいた。
「……あと五分……」
そう言ってから十五分後、ようやく上体を起こす。
ぼさぼさの髪、だらしないTシャツ。
だがその下の筋肉は、まるで戦場を渡ってきた戦士のそれだった。
異世界での戦いが、彼の身体に染み付いている。
洗面台に立つと、鏡の中の自分と目が合った。
一瞬だけ、瞳の奥が黒く光を帯びる。
リクはすぐに目を細め、ため息を吐く。
「……お前、まだ寝てろよ」
七つの魔眼のひとつ。
無意識でも反応してしまうのが、時々やっかいだった。
制服に袖を通し、トーストをくわえて玄関を出る。
春の風が頬をなでる。
通学路の先から、声が聞こえた。
「おはよう、リクくん」
振り向くと、ミサキがゆっくり歩いてきていた。
ポニーテールを揺らし、手には小さな袋を下げている。
「おはよう、ミサキ」
「今日は少し早いね」
「いや、寝坊しただけだよ」
ミサキはくすっと笑い、袋を差し出す。
中にはおにぎりが二つ。
「昨日、作りすぎちゃって……よかったら」
「……ありがとう。でも、悪いよ」
「別に。リクくん、朝あんまり食べてなさそうだし」
彼女の言葉は、押しつけがましくない。
ただ相手を気遣う自然な優しさ。
リクは小さく頷いて、おにぎりを受け取った。
「そういえばさ、最近どう? レイジくん」
「うん、頑張ってるよ。型も少しずつ覚えてきた」
「ふふ、なんか意外。真面目なんだね」
「不器用なだけだよ。でも……まっすぐだ」
リクがそう言うと、ミサキは少し目を細めた。
その横顔を見て、彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなる。
その時、後ろから勢いよく足音が近づいてきた。
「おいリクーっ! また先行ってんのかよ!」
レイジが、息を切らせて坂道を駆け上がってきた。
相変わらずの寝ぐせ、シャツのボタンも掛け違い。
「おはよう、レイジ」
「お、おう! ……って、ミサキさんもいたのか!」
「おはよう、レイジくん」
「ど、どうもっス!」
レイジは慌てて姿勢を正したが、すぐに笑う。
「……いやー、ミサキさんといるリク見ると安心するな」
「なんだよ、それ」
「いや、だってさ。お前、前よりずっと穏やかになったじゃん。
あの異世界の話、聞いてからずっと気になってたけど……今は“人間”っぽい」
リクは少しだけ目を細めて、口元に笑みを浮かべる。
「それ、褒めてるのか?」
「もちろんだよ、師匠」
レイジは軽く拳を突き出した。
リクも拳を合わせる。
その光景に、ミサキは静かに微笑んだ。
三人で歩く通学路。
車の音と、遠くの子供の声。
何でもない朝の景色。
けれどリクの耳は、すでに街の“ノイズ”を拾っていた。
ほんの一瞬、視界の端に黒い影。
無人ドローン。……監視用。
リクは気づかぬふりをして歩き続けた。
(まだ様子見ってところか)
同じ頃、都内・第七監視課。
藤堂ミナは、無機質なモニターを見つめていた。
画面にはリクたちの映像。
隣の分析官が言う。
「対象G──本日も通常行動。特異反応なし」
「そう……。でも、彼は“異常”そのものよ」
ミナはカップのコーヒーを口に運ぶが、味はしなかった。
あの夜、彼女の部隊を壊滅させた“無名の少年”。
何も残さず、証拠も痕跡もなく。
「藤堂主任。……本当に高校生なんですか、彼?」
「少なくとも、記録上はね。でも、私たちが相手にしてるのは
“人間”じゃない可能性がある」
モニターの中で、リクがミサキからおにぎりを受け取って笑っている。
その平凡な仕草が、逆に恐ろしかった。
「引き続き監視を続けなさい。決して接触しないこと」
「了解」
ミナは小さくつぶやく。
「……あなたはいったい、何者なの」
昼休み。
リクは屋上で風に吹かれながらおにぎりを食べていた。
横にはレイジ。
彼は麦茶を飲みながら笑う。
「なぁリク。最近、平和すぎて怖くね?」
「平和が怖いって、お前くらいだ」
「だってよ、なんか……“嵐の前”って感じしねぇ?」
リクは少しだけ笑った。
「かもな。でも、今はこれでいい」
その言葉に、レイジはふと真剣な目を向ける。
「なぁ、俺……あの時、ミサキさん助けられなかったろ。
あれからずっと思ってんだ。俺、もっと強くなりてぇ。
でも、力を持ってもリクみたいにはなれねぇ気がしてさ」
リクは静かに首を振った。
「強さってのは、目的じゃなくて、誰かを守りたいって気持ちだろ。
お前は、もうその“入口”に立ってるよ」
「……そういうとこ、ずるいんだよな、師匠は」
「褒め言葉として受け取っとく」
放課後。
ミサキがリクのところに歩いてくる。
「今日ね、夕飯作りに行ってもいい?」
「……無理すんなよ。別に毎日じゃなくていい」
「うん。でも……リクくん、ちゃんと食べてるか心配だから」
その目は真剣で、優しかった。
リクはしばらく黙って、ふっと笑う。
「じゃあ、お願いするよ」
「うん。約束」
彼らが歩く帰り道。
茜色の空の下、ビルの屋上でスコープの光が二度瞬いた。
監視ドローンの視線が、静かに彼らを追う。
──そして、藤堂ミナの声が通信に流れる。
「……この平和は、あまりにも静かすぎる」
リクは背後の“視線”に気づきながらも振り返らない。
ただ前を歩くミサキの姿を見つめ、
小さく、独り言のように呟いた。
「……俺の“日常”に、手を出すなよ」
夜の街。
昼間の喧騒が消え、光だけが残る時間。
人々が帰路につくなか、リクは静かに駅前を歩いていた。
「……あれから一週間、ずっとついてくるな」
街灯の下、歩くたびに小さな電子の視線がついてくる。
監視ドローン。
そしてその背後にいる“誰か”。
リクはコンビニの袋を片手に、ふっと笑う。
(まぁ、悪意がある感じじゃない。警戒レベルってとこか)
彼の感知の魔眼は、すでに監視網の位置を完全に把握していた。
だが、リクは動かない。
──この“平穏”を守るために。
その頃、都内第七監視課。
「対象G、変化なし。今夜も通常行動」
「まるでこっちを気づいてないみたいね」
藤堂ミナはモニターを見つめながら、眉間に皺を寄せた。
直感が告げている。
「……気づいてないわけがない」
分析官たちが視線を交わす。
ミナの手が机の上のファイルを叩いた。
「彼の行動パターンを照合して。
誰と会い、どこへ行き、どんな視線を向けているのか。
一つでも異常があれば報告して」
「了解」
マンションの明かりが点く。
カーテンの隙間から、リクが見える。
台所に立ち、エプロン姿のミサキと話している。
モニター越しの映像に、ミナの表情が少しだけ和らぐ。
「……普通の高校生、か」
彼女は小さく息を吐いた。
だが、その次の瞬間、画面がノイズに覆われた。
「な、なんだ!?」
「信号が途切れた! カメラ全滅!」
ミナがヘッドセットをつける。
「全班、報告を。何が起きた?」
「不明です! 外部干渉は検知されず!」
「バカな、そんなわけ──」
その時、部屋の照明が一瞬だけ落ちた。
停電ではない。
“存在”が消えた。
そして、彼女の背後から声がした。
「──監視ってのは、もう少し遠くからやるもんだよ」
心臓が跳ねる。
ミナは振り向いた。
そこに立っていたのは、制服姿の少年。
どこから入ったのかもわからない。
夜風が彼の髪を揺らし、微笑が浮かぶ。
「……アマミヤ・リク」
「そう、それ。名前覚えてくれてたんだな」
リクは両手をポケットに入れたまま、部屋の中央まで歩いてくる。
ミナの部下たちは銃を構えるが、リクは一瞥もしない。
「撃ってもいいけど、多分、当たんないよ」
「あなた……どうやってここに──」
「ドアからだよ。普通に」
嘘ではなかった。
センサーにも、鍵のログにも、侵入の痕跡はない。
まるで最初から“そこにいた”ような存在。
ミナは冷静を装いながらも、汗が背を伝う。
「監視の理由、教えてもらえる?」
「……あなたが異常だからよ。
あの夜、あなたは五人の能力者を無力化した。武器も使わず」
「防御しただけさ。……向こうが先に仕掛けた」
「じゃあ、あなたは何者?」
リクは笑う。
「ただの高校生。……帰還者って言葉、知ってる?」
ミナの瞳が揺れる。
その言葉を、彼女も知っていた。
「まさか……異界帰還者が実在するなんて」
「信じなくていいよ。俺も、もうあっちの世界の人間じゃない」
沈黙。
モニターのノイズだけが部屋を埋めた。
リクは少しだけ表情を曇らせる。
「俺さ、この世界が好きなんだ。
うるさくて、馬鹿みたいで、でも優しい。
だから……壊されたくないんだ」
ミナはその言葉の“重さ”を感じ取った。
敵意はない。
けれど、力の質が違う。
彼が本気になれば、この建物ごと消える。
「俺のことは放っといてくれ。
俺も、あんたたちをどうこうする気はない」
そう言って、リクはドアの方へ歩き出した。
その背に、ミナが声をかける。
「待って! 一つだけ聞かせて。
あなたの“力”は……何なの?」
リクは立ち止まり、振り返る。
目が、ほんの一瞬だけ光を帯びた。
「見たら眠れなくなるよ」
そう言って笑い、彼はふっと消えた。
本当に、空気のように。
沈黙。
誰も動けなかった。
電子音だけが、再び室内に戻る。
分析官が震える声で言う。
「主任……あれは……人間じゃ……」
「黙って。……記録は全消去。今の件は、全員“見なかった”」
「で、ですが──」
「命が惜しいなら、忘れなさい」
ミナの手が小刻みに震えていた。
だが、唇には薄く笑みが浮かぶ。
「──本物、だった」
同じ頃。
自宅のキッチンでは、ミサキがカレーを煮込みながらつぶやく。
「リクくん、遅いな……」
玄関のドアが開く。
リクがコンビニ袋を下げて入ってきた。
「悪い。ちょっと寄り道してた」
「ううん、大丈夫。お腹、すいてるでしょ?」
「うん。……いい匂いだ」
ミサキが笑い、リクも微笑む。
その笑顔の裏に、たった今まで“異能機関の中心”にいたとは思えない静けさがあった。
「なあ、ミサキ」
「うん?」
「……ありがとうな。こうして普通にご飯食べられるの、久しぶりなんだ」
ミサキは驚いて、少しだけ頬を染めた。
「な、何言ってるの……当たり前でしょ」
二人の間に、静かな夜が流れる。
テレビからはニュースの音。
“都内で小規模な停電が発生”──そんな報道が流れていた。
リクは苦笑する。
「……悪い、ちょっと電気使いすぎたかも」
「え?」
「冗談」
食事を終え、窓の外を見る。
月がきれいだ。
その光の下で、リクは小さく呟いた。
「この世界は、まだ守れる」
──たとえ、誰にも理解されなくても。




