口下手な俺は身を引こうと才色兼備の婚約者に、円満な婚約破棄をしようと提案した
【アンソニーの目線】
「ティーン、円満な婚約破棄をしないか」
誰もいない部屋の中で俺の声だけが響く。
両家で勝手に決められた婚約に素直に頷いてくれたティーン公爵令嬢。
彼女は薄い茶色の艶がある髪の毛は上品でいて、容姿の方も整っている。才色兼備で学園ではいつもたくさんの人に周りに囲まれている。
それに比べて俺は気になるような特徴はなく図体が大きい割に奥手で口下手。勉強しか出来なくて、友だちもいない。
優しいティーンは学園生活でほとんど一緒にいてくれた。口下手で友だちも出来ない俺につきっきりで、授業でも隣に座ってくれた。
それなのに俺はティーンに何ひとつ上手く伝えて来れられなかった。それでも隣で優しく微笑んでくれるティーンに甘えてしまっていたんだ。
それも今日、俺なりの方法で恩返しをしたい。
今朝のことである。
俺は、ティーンがフィース王子と笑顔で歓談していたことを校舎の角を曲がったところで見てしまった。
今朝は珍しくティーンと一緒じゃなかった。それがいけなかったのだろうか⋯⋯。
俺はあまりの衝撃に立ち尽くしてしまったが、半分は納得していた。話がろくに続かない俺と会話が盛り上がる王子とは差がありすぎる。ティーンは俺にとってもったいなさすぎる相手だったんだ。
俺は肩をがっくりと落としとぼとぼと歩いて、1人教室へ向かう。あれ以上長くは見ていられなかった。
いつかはティーンが恋に落ちる相手に出会うんじゃないかと思っていた。それは突然やって来たのだ。
俺の目の奥にはティーンと王子の姿が焼きついてしまった。楽しく話す2人の姿。俺には出来ないこと。
あぁ、俺はティーンの事が好きだったんだ。もっと早く気がついて頑張れば良かった。気がついた頃にはもう遅い。
今の俺には何が出来るのだろう。
俺が婚約と言う約束でティーンを縛り付けていては可哀想だと思う。それなら俺が出来ることはティーンに気持ちよく次へ進んでくれるようにすることだろう。それがせめてもの感謝であり、彼女への応援にしたい。
これでいい。円満な婚約破棄をしようじゃないか。
俺と彼女の婚約は2年。
婚約をしてから彼女とは定期的に会っていた。いつも緊張して話せない俺の横で寄り添ってくれるティーン。目が合えば微笑んでくれるティーンに手さえ繋げなかった。
国の行事や公爵家の正式な行事にはいつも2人で参加した。ティーンは他の貴族と会うと差し障りのない話題を選びそれとなく話を盛り上げ、さも楽しげに話している。
それを見てティーンはすごいなあと感心しきっていた。その隣で俺は上手く話が出来ないので、必死に相槌を打ちながら上唇が前歯に張り付くほどずっと同じ顔をしていた。
それで何か問題になったことはないので、及第点はもらえているのだろう。
だが、プライベートはもっとひどいものだった。思い返せば会話らしい会話をしたことがないのだ。
まず会話の糸口がなかった。
勢いで言えれば良いのだけれども、そもそも会話が始まらない。俺も頑張ったことは幾度かあった。だが、声なのか息なのか分からないのにシューシューとした音が俺の口から出てきてティーンは眉をひそめた。
そんなこともあり、手帳にティーンとの会話になりそうなことをたくさんメモして用意していたが、今まで何1つ使えたことがない。
調子良い時には「今日は天気が良いですね」と言えたことがある。するとティーンはにこりとして「そうですね」と返してくれた。
なので「今日は庭園を散歩しますか?」と聞いたら「良いですね。私、庭園好きです」と返ってきた。なんてことのない子どもでも言えることだ。
だけど俺は心の中で飛び上がるほど嬉しくなった。よし、次なる話題を探すぞ。
⋯⋯⋯⋯
ようやく見つかった頃には沈黙が流れていた。沈黙が流れれば流れるほど、喉の奥に用意した言葉は奥へと下がっていく。
庭園を歩いていた間、“何の花が好きですか?”と言う話題を心の中で100回くらいティーンに話していたが、結局その言葉が口から出ることはなかった。
ほろ苦い気持ちが、心の中に広がる。
その気持ちを慰めてくれたのがティーンの笑顔だった。目に焼き付けたティーンの笑顔を思い出す度にほろ苦い気持ちを温かいものに変えてくれる。彼女の優しさが1日中身体に染み込んだのを今でも忘れられない。
俺は好きだからこそティーンがもっと幸せになれる道を探してあげたい。その道が他にあるなら協力してあげたい。
そんなことを考えていると、ティーンが部屋に入ってきた。俺はティーンの姿を見て心臓が飛び出るかと思うくらい、動いて痛かった。しかし、それを顔に出さないように努めた。
ソファに座っていた俺はティーンの方へ顔を上げた。
まだ、練習が足りていないのに⋯⋯ティーンにちゃんと話せるかな?
「あ⋯⋯」
「アンソニー様、先にいらしていたんですね」
ティーンはにこりと笑顔を向けてくる。この笑顔も見納めだなあ。
「あっ⋯⋯あぁ。⋯⋯今日はいい天気だね⋯⋯」
よし、今日はテンプレートで考える前に挨拶をしたぞ。良い調子だ。
「⋯⋯雲は多く出ていますが、心地の良い日ですね」
あ⋯⋯テンプレートなのがバレた。外の天気くらい確認しておけば良かった。それでも笑って俺と話してくれるティーンは良い子だなあ。
ティーンはどのソファに座ろうか迷っていたが、俺に触れないくらい距離を離して同じソファに座った。
「あのさ、ティーン⋯⋯」
「はい」
ああ、まずい。ひと呼吸置いてしまった。このままだと上手く言えない雰囲気になってしまう。でも今日はあの話を絶対にしなくてはいけない。
「あの⋯⋯円満な⋯⋯円満な婚約破棄をしませんか?」
「⋯⋯円満な婚約破棄ですか?」
心臓がうるさくなり始めてどこかへ行ってしまいたい気持ちで溢れたが、今回ばかりは沈黙を決め込んでいられない。
ちゃんとティーンが分かるように言わなきゃ⋯⋯
「俺たちこのままだと結婚してしまうだろう? ⋯⋯運命の人が別にいるのかもしれない⋯⋯」
あっまた沈黙が流れ始めた⋯⋯こんな説明じゃ、ちっとも分からないよな⋯⋯なんて返したらいいんだ⋯⋯
俺は両手をぎゅっと膝の上で握った。ティーンは俺の言葉を聞いて珍しく眉をひそめた。
「詳しく聞いてもいいですか?」
「うっうん⋯⋯俺たちは婚約してから2年も経った。でも俺は奥手だし口下手だし⋯⋯手も繋げていない。ティーンは⋯⋯その、すごく綺麗だし⋯⋯気が回るし⋯⋯他の人が放っておかないと思うんだ」
俺はちらりとティーンを見る。真剣な顔をしてこちらを見ていた。その顔を見ていると続きを促されているようだった。
俺はぎゅっと握った手を少し緩めてみると、なんだか湿っぽかった。手汗を掻いているみたいだ。ティーンの視線に耐え切れず、視線を落とした。
「今ならまだ、運命の人に出会うのも遅くない⋯⋯と思うんだ⋯⋯」
「分かりました。アンソニー様は気になる令嬢がいらっしゃるということですね」
ティーンは固い口調でそう返した。俺は慌てて顔を上げてティーンを見た。
⋯⋯気になる令嬢ってなんだ? 何でそんな誤解が生まれたんだ⋯⋯そんなことはありえない。とにかく否定をしなきゃ⋯⋯
「違う⋯⋯俺はいない⋯⋯絶対無い⋯⋯」
なんと返せば良いのだろう。俺は否定するしかなかった。伝わらないもどかしさに目が左右に動く。
ティーンは俺を見ながら口を尖らせて腕組みしている。いつもと雰囲気の違うティーンに違和感した。
「ではどういうことですか?」
なんか怒ってる? いつもの優しいティーンじゃない⋯⋯こう⋯⋯ぐいぐい来るというか⋯⋯俺の説明が多分悪いんだろうが⋯⋯
「気を悪くさせてごめん。⋯⋯ティーンは気になる人が⋯⋯フィース王子が好き⋯⋯なの?」
駄目だ⋯⋯上手く言わなきゃっていう気持ちよりちゃんと伝えなきゃって気持ちが強くなって、直接言ってしまった⋯⋯
「フィース王子ですか? いえ⋯⋯もしかして今朝、私が王子と話しているところを見たんですか?」
それを聞いた俺は核心に触れて居心地が悪くなる。なのにティーンは俺との間にあった隙間を埋めるように座り直した。膝が当たりそうになる。
近い⋯⋯手を動かしたらティーンに触っちゃう距離だ⋯⋯。どうしよう⋯⋯心臓が痛い⋯⋯
俺は心臓の音がティーンに聞こえそうなほどうるさく鳴らしながら、必死に答える。
「うん、見た。⋯⋯王子と楽しそうだった⋯⋯ごめん⋯⋯」
「そうですか」
気持ちよく送り出すはどこに行ってしまったんだろう⋯⋯
俺は反省をするように顔を下へ向けた。
「⋯⋯ティーン、上手く伝えられなくてごめんね」
ティーンの手が上に動く。そのまま両手で頬を隠している。俺はそれが何のサインか分からなかった。
「いえ、王子は恋愛対象ではありません。他の方も恋愛対象ではありません」
ティーン、それはどういう意味なんだ⋯⋯? こんな時でも俺に気を使ってくれているのかな⋯⋯
俺はティーンとの距離があまりにも近いので首を少し傾げて距離を確保しようとする。
「⋯⋯でももっといい人が見つかる⋯⋯かもしれない⋯⋯でしよ? ⋯⋯俺は協力したい⋯⋯ティーンが幸せになる道を⋯⋯探したい」
「アンソニー様は別の方を見つけるおつもりなんですか?」
「⋯⋯でも俺の話を聞いたら、円満な婚約破棄をするのに⋯⋯気にするでしょ?」
「どういう答えか聞いてから考えます」
今日のティーンはなんだか変だ⋯⋯いつもと違って意地悪と言うか⋯⋯
俺も少し口を尖らせてしまった。ティーンの前だけはいつも自分が分からなくなる。ティーンの表情や言葉に一喜一憂してしまうのだ。
「なんだか今日のティーンは意地悪みたいだ⋯⋯」
「意地悪なのはアンソニー様でなくて?
そもそも円満な婚約破棄ってどういうことですか? 私のことをどう思っているんですか?」
「俺はティーンのこと⋯⋯好きだ⋯⋯でも君の幸せが他にあるなら⋯⋯身を引きたい⋯⋯んだ」
俺の顔は真っ赤になっているだろう。顔がすごく熱い。ティーンはさっきまで怒ったできた様子だったが、俺の顔を見て今までで1番嬉しそうに笑顔を返した。
「それなら円満な婚約破棄は出来ませんね」
「えっ⋯⋯でも⋯⋯」
「アンソニー様が私を好きなのに円満には出来ないですよね」
「でも⋯⋯君には幸せになってもらいたいんだ。もっと君が幸せになる道があるなら協力したい。こんな⋯⋯口下手で面白くない男といる必要はないんだよ⋯⋯大切な人だからこそ、幸せになってほしい⋯⋯」
俺は子どものように駄々をこねた。
どうして仕事の時のように上手く伝えられないんだろう⋯⋯ティーンは優しいからこの話を無しにしようとしてくれているだろうな⋯⋯
俺の心の中では裏腹にティーンは満足そうに、にこにことしている。
「それでしたらその前に、実は1つ謝らなきゃいけないことがあるんです。アンソニー様の手帳の中を見てしまったことがあります」
「へっ? ⋯⋯手帳ってあの⋯⋯メモがいっぱいある⋯⋯?」
俺はポケットから手帳を取り出してティーンに見せながら聞いた。
「たまたまアンソニー様が席を外した時に手帳が机から落ちまして、ページが開いてしまいましたの」
うわあ、1番見られたくないやつが見られてしまった⋯⋯どうしよう⋯⋯あれにはティーンと話したいことや従者から聞いたティーンの好みの事柄などがたくさん書かれている⋯⋯。それだけじゃない⋯⋯俺の日記的な成果報告も書いてある。“今日はティーンと話せた”とか⋯⋯
「私、とても嬉しかったんです。こんなに考えてくださっていたんだなって」
「記憶から消して⋯⋯頼む⋯⋯」
ティーンは手を上げるとなんと、俺の手を両手で握ってきた。それを見て目を丸くしながら手を引き抜こうとする。
まずい、手汗⋯⋯手汗⋯⋯
「アンソニー様は言葉が少し足りないだけです。私のことをこんなに気にかけてくれる優しいアンソニー様が大好きですわ」
大⋯⋯大好き⋯⋯大好き??
「ティーン⋯⋯本当?」
「はい、何度でも申し上げますわ。アンソニー様、大好きです。アンソニー様は私のこと好きですか? 大好きですか?」
そりゃあ俺だって⋯⋯あぁ、言うタイミングを逃した⋯⋯沈黙すればするほど言えない⋯⋯
俺はティーンの言葉にも手を握られていることにも混乱して、喉元まで上がった言葉は口から出ない。
⋯⋯ふう、考え方を変えるんだ。
婚約というのはそもそも将来結婚するための約束だ。結婚みたいに正式な契約ではないと言っても、口頭での約束ないし、書面での約束となる。そういった意味では効力を発揮するな。つまりお互いが合意の下なされる訳であって、片方のみでは婚約とは言えない。俺もそれに同意している訳なので、ティーンが俺のことを大好きと言うなら、俺もそれと同様に大好きとちゃんと伝えるべきなんだ。
「うん⋯⋯ティーンが大好きです」
「ふふっ嬉しい」
■
アンソニーとティーンが婚約する1年前。
【ティーンの目線】
私は幼い頃から公爵家の務めとしてそれ相応またはそれ以上の身分の人と結婚することを暗黙の了解で強いられてきた。
だから私は決意をしたのだ。
絶対に好きな人と結婚する、と。
私は10代に入ると1人で婚活を始めた。
まずは対象になる人を考えなくてはならない。父に貴族名簿を借りると、母と共に喜んでいるようでニコニコしながら貸してくれた。それは絵が添えられた親切なもので身分や関係図、生い立ちと共にその人の簡略な顔の絵が添えられている。
最後までページをめくってみた。すると絵が無いページもあったが、公爵家のページにはほとんど絵が添えられていた。
物心がついたばかりの子どもから白髪が混ざったおじさんまで選り取り見取り。
私のストライクゾーンはそこまで広くない。さすがに婚約の適齢があるので歳が離れすぎている人は除外した。
公爵家の数自体はかなり絞られたので、モウイチド見直す。同じ公爵家でも兄弟がたくさんいるので3人くらい候補に上がったりしている。しっかりと見ないといけない。
婚約者は家門、見た目、性格を見ることが多いがやっぱり家門が大事だと言われる。
もちろん公爵家の特色からうちにメリットのある家の方が良いのは分かる、でも私は次女だ。
私の姉は優秀で第2王子と婚約した。それもあって私は割と自由に決められると思っていた。貴族名簿で20人くらいまで候補を絞ってみる。
でもまだ学園には行っていないので、そもそも出会いの場がない。会わないことにはこれ以上決められない。
公爵家では多いことなのだが、もともと家庭教師をつけて教えてもらう。
その後社交界デビューに近い15歳くらいから学園に入ることが多いのだ。
私は母に度々予定を聞いてチャンスはないか探っていた。
私が14歳の頃、姉の婚約者である第2王子の20歳の誕生日パーティーが大々的に行われることになった。私たちは姉の家族ということもあり、家族で招待された。
当日は私も気合の入った流行を取り入れたドレスで身を飾りパーティーに出席した。第2王子、王族への挨拶が終わるとその日の役目は終わる。
私たち家族は王族への挨拶の列に並んで挨拶が終わるとほっとした様子で王族のいるホールから遠ざかる。
そこへ王様の声が上がるのを聞いた。
私は思わず振り返る。そこには同じ年とは到底思えない高身長の眉がキリッとした男らしい格好良さ溢れる男の人が王族と挨拶をしていた。
「アンソニー・クルーシャルが王様にご挨拶申し上げます。王様にお目にかかれたこと恐悦至極に存じます――」
なんとも流暢に挨拶を始めた。私は聞き耳を立てていた。すると私と同じ歳であることが分かった。
なんて格好良いの⋯⋯アンソニーに一目惚れした。
そして私はすぐさま父にあの人のことを聞いた。
「あぁ、彼はクルーシャル公爵家の3男のアンソニー様だろう。公爵家の中でも特に優秀だそうだ」
「お父様、私あの方と婚約を結びたいですわ」
父は私の言葉を聞くと目を丸くした。父は少しため息交じりの低い声になる。
「⋯⋯アンソニー様だけは諦めなさい。あの方は氷の彫刻と呼ばれるほど、女性に興味を示さないことで有名だ。そして驚くほど寡黙な方だと聞く。法律以外の事には興味がないことで有名だ」
「⋯⋯それなら私はお飾りの妻でもいいです。あの方もそのうち結婚が必要になるでしょう? お話だけでも通してもらえませんか?」
せめて顔だけでもタイプのど真ん中だったので、どうしても話を進めてほしかった。あの方なら話をしなくても隣にいれるだけで幸せな人生になれると確信した。
父はため息をつきながら、王族への挨拶が終わってこちらの方へ戻ってくるクルーシャル公爵に近づくと挨拶を始めた。
私の父は私の方を少し見て目配せをしている。それを見たクルーシャル公爵も私の方を見る。
私はすぐさま父の隣についた。こういう時の行動力はすごいのだ。
「クルーシャル公爵様、お初にお目にかかります。私、ティーンと申します。今後ともよろしくお願いいたします」
クルーシャル公爵も笑顔で返してくれた。そしてアンソニーを手招きする。
「こっちは息子のアンソニーだ。法律以外はあまり興味がないが仲良くしてやってほしい」
「⋯⋯アンソニーです。⋯⋯よろしくお願いいたします」
私はアンソニーの正面に立った。口数の少ない挨拶だったが、嫌悪はしていないようだ。私はとびっきりの笑顔を返す。
「私はティーンと申します。もしよろしければ、私に法律の大事さ、奥ゆかしさを教えていただけませんか?」
そう言うと、アンソニーは顔を輝かせて、パーティーが終わるまでずっと法律の話をしてくれた。私にはちんぷんかんぷんだったが、どタイプのアンソニーを目の前で鑑賞できる事は楽しい以外の言葉が見つからなかった。
それから父に話を進めてもらうと、アンソニーから“婚約までに3回会う必要がある”と言われたそうだ。
随分、昔の形式に則った婚約までの道のりだったが、私は二つ返事だった。
その3回ともの食事は私にとってとても楽しかった。私は見ているだけで満足だったのだ。口数は少ないが、気遣ってくれる素振りは見受けられる。
女性関係の浮いた話も全くなかったし、このまま婚約にたどり着きたいと強く思った。
なので私は古典的に1回毎に会ったあと、お礼の手紙を書いた。
すると薔薇の花束と共にとても形式張った返事が来た。綺麗な字で何枚もの便箋に渡って返事が書かれている。
私はアンソニーから貰った薔薇を押し花にすると栞に使った。
しかし、3回目に会う頃には私は少し焦っていた。
もうすぐ学園の入園の時期になってしまう。何としても入園前に婚約にたどり着きたい。じゃないと令嬢たちがわんさかアンソニーに集まってきて、辟易してしまうかもしれないからだ。
私がアンソニーを見つけたの。アンソニー、どうか私を選んで。
私は苦手な法律を少しかじってアンソニーに聞いたりもした。他の話題は続かないが、法律の話だけは盛り上がる。
3回目に会った時は法律の話でひとしきり盛り上がった後、私は一番大切なことを聞いた。
「アンソニー様、お父様からも確認してこいと言われたのですが、私たちは公爵家でしょう。もうそろそろ婚約者が必要だと思いますの。もしそのような話が進んだら、アンソニー様は私と婚約してくださいますか?」
お父様、ごめんなさい。お父様を理由に婚約について聞いてしまいました。本当は私がアンソニー様を好きなんです。見た目はもちろんどタイプでしたが、それ以上に性格も優しくて誠実だって分かったんです。それでこの人以外いないと確信しました。
アンソニーの表情は変わらない。少し間があってアンソニーは口を開いた。
「⋯⋯うん。俺でよければ⋯⋯」
私は聞いた瞬間に口元が大きく緩みそうになったので、両手で頬と口元を覆った。
嬉しいわ⋯⋯アンソニー様が婚約してくれるって⋯⋯
その日、屋敷へ帰ると真っすぐ父の部屋に行って先ほどのやりとりを話した。
私は何とか学園に入園する前に婚約に漕ぎ着けたのだ。私にはまだやることがある。
アンソニー様はものすごく優秀でらっしゃるから私が劣っていては令嬢にやっかみを受けるかもしれませんわ。
苦手な法律に引き続き、やりたくない勉強を前倒しでやるために、父にこれから家庭教師を増やしてもらうことにした。父はやる気のある娘に喜んだようだ。頼んだ次の日にもう家庭教師が来た。
私はいきなり知識を詰め込み始めたので、頭がくらくらした。私は人生で一番勉強をしていた。入園直後にテストがあってその順番にクラス分けがされるのだ。
テストが終わり、私は放心状態でペンを置いた。だが、奇跡は起きた。
私は学年で2位になった。アンソニーとは大差だったが、2位なら胸を張ってアンソニーの隣にいれる。
私はその掲示板の前でアンソニーに会った。
やはり周りの令嬢はちらちらどころかレーザービームのように穴が開くほどじいぃってアンソニー様を見ているわね。本当に婚約が間に合ってよかったわ。
「あら、アンソニー様。さすがですね」
「⋯⋯ティーンはすごいね⋯⋯」
あぁ、これからは甘い楽しい学園生活が始まるのね。
私は朝アンソニーが来る馬車を出待ちした。教室へ辿り着くまでにアンソニーが令嬢に捕まる可能性がある。
私はロータリーでそろそろしながら待っていると、アンソニーのクルーシャル公爵家の紋章が入った馬車がやって来た。
アンソニーは馬車から下りると目を丸くしていた。
「あれ⋯⋯ティーン⋯⋯」
「アンソニー様、おはようございます」
あぁ、制服を着ているアンソニー様は美しい⋯⋯。ずっと見ていたいわ。
私は他の令嬢に見せつけるように教室までアンソニーの隣を歩いた。もちろん教室の中でも隣に座る。
「まぁ、あれがアンソニー様」
令嬢たちから漏れる言葉に聞き耳を立てる。
「隣を歩いているのはティーン様ですって。2人とも絵になりますわ」
アンソニーは動く彫刻のように顔だけではなく身体美ですもの。やっぱり注目されるわよね。
それからアンソニーの隣に座る私にたくさんの令嬢たちが声をかけ始めた。
「ティーン様もとても優秀で羨ましいですわ」
「そんなことをありませんわ。デイジー様はお花にはとても詳しいようで今度庭園をご一緒したいわ」
ふふん、私を持ち上げてもアンソニー様には近づけさせませんわよ。学園にいる間はずーーっとアンソニー様の隣は私だけですもの。
私の学園生活は楽しくて仕方がなかった。
だが、それは2カ月しか続かなかった。
なんと、アンソニーは飛び級したのだ。私は悔しくて影でハンカチをかじってみた。
私はもっとアンソニー様とドキドキ、甘い学園生活をしたかった⋯⋯隣で授業を受けて、“これはどういう意味ですの?”なんて聞いて、アンソニー様から“あぁ、これはね⋯⋯”なんて、屈んできたアンソニー様のお顔が近くなって、きゃっ心臓が持ちませんわ⋯⋯なんて甘酸っぱいこともたくさんしたかった⋯⋯
そしてさらに4ヶ月もすると、アンソニーはまた飛び級した。
その日自分の部屋に帰ると枕に顔を埋めて暴れた。
そのまま1年でアンソニーとの学園生活は終わった。
私は悲しい気持ちでいっぱいだったが、アンソニーと会った日にあるものを見つけてしまった。アンソニーが私にお土産があると言うので部屋を出て行った。
すると床に何かが落ちていた。
ちらりと見ると手帳のようで中のページが開いてしまっていた。それにはアンソニーの直筆で何かたくさん書いてある。
開いているのを見るのは少しくらい良いかしら?
私は落ちているページを覗いてみた。
“ティーンが好きな花は百合→庭園に誘ってみる?”
“ティーンは淡いピンクが好き→ハンカチをプレゼントしようか?”
“ティーンは苺が好き→今度苺のデザートが美味しいところをお母様に聞いてみる”
――――。
私は心を奪われた。
私を少しくらい気に入ってくれればいいなと淡い期待をしていたが、違ったら多分受け止めきれない。それくらい私の心はアンソニー様でいっぱいだった。
それでもそういう事は聞かないし意識しないようにしていた。
本当は気になって仕方がなかった。
婚約と言う約束でアンソニー様を縛っているのではないかって。
アンソニーの手帳を思い出す。私のことをこんなにも気にかけてくれている。私に宛てた優しいアンソニーに胸が熱くなった。
私は視界が滲んだが上を向いて耐えた。もうすぐアンソニーが戻って来る。
「私はアンソニー様と結婚したいわ」
誰もいない部屋の中で私の声だけが響いた。
アンソニーは学園を卒業すると、弁護士試験と裁判官試験の両方に受かったようで、裁判が被らないように兼務をし始めた。
法廷に出る格好はそれは素敵だった。魔導師のような長いローブを着ているのだ。私は裁判室の中には入れないので、出口が見える柱の陰からこっそり見ていたことがある。
格好良すぎて、そのまま走り寄りたい衝動に駆られたくらいだわ。
私の生涯の伴侶はアンソニー様、あなたしかいないのに円満な婚約破棄なんて何が起きても起こらないわよ。
■
円満な婚約破棄はどうやら出来そうもない。
【アンソニーの目線】
俺はティーンに手を握られて、どうにも平常心を取り戻せそうになかった。
手汗⋯⋯ティーンに嫌われちゃうよ⋯⋯法律の第1条第1項からおさらいしようかな⋯⋯
「アンソニー様は法廷に立ってお話している姿はとても格好良いですよ。周りの令嬢の熱のこもった視線は1つも気づかなかったんですか?」
「うん⋯⋯何にも⋯⋯気がつかなかった」
ティーンがいてくれるのに他の令嬢なんて見る必要がないよ⋯⋯それにティーンが1番綺麗だし⋯⋯
俺は真っ赤になったままの顔を仕方なくティーンに向ける。ティーンの笑顔があまりにも可愛いので、見続けてしまう。
「ふふっ、アンソニー様は法廷での饒舌な話具合に言葉の魔術師とは言われているんですよ。学園も首席でしかも飛び級で2年も早く卒業した上にそのまま、裁判官資格を最年少で取得。最年少記録も塗り替えてアンソニー様のクルーシャル公爵家の中でも、このままいくと1番の実力になると噂されているんですから」
ティーンは嬉しそうに俺のことを褒めてくれる。
まぁ、そんな噂はあるのかもしれないけど、法律のことならすらすら言えちゃうんだよね。筋書きが決まっているからかな。暗記していることは言えばいいだけだから、ちゃんと言えるんだよね。
「それでフィース王子にアンソニー様と懇意になりたいと相談を受けたのです。今や王族の皆様も、アンソニー様を囲いたくてしょうがないのですよ」
「あぁ⋯⋯それで王子と話していたんだ⋯⋯良かった⋯⋯」
俺の勘違いだったんだ⋯⋯ティーンは王子は好きじゃない⋯⋯そうか⋯⋯本当に良かった⋯⋯
こうして俺はようやくこの日ティーンと少し仲良くなれた。それをきっかけにどうしても言いたいことがあった。
「あのさ、ティーン⋯⋯」
「もう円満な婚約破棄だなんて絶対に言わないで下さい」
「あ⋯⋯ごめん⋯⋯なさい」
「違うことでした?」
「そのティーンの握っている手⋯⋯手汗がひどいから離して⋯⋯ほしい」
ティーンは俺の方を見るといたずらっぽい顔を向けている。
「私たち将来結婚するんですよ。結婚式で何をするか知っていますか?」
「うん、婚姻届を書く。その日にお互いの署名をして、魔法で法的に処理をしてもらって婚姻届を受理してもらうんだ。⋯⋯あ⋯⋯ごめん」
やり方のことになると、つい説明臭くなってしまった。⋯⋯あれ、そうじゃないのかな⋯⋯ティーンが呆れた顔をしている⋯⋯
ティーンは少し咳払いすると、俺を下から覗き込んできた。俺は目を瞬きしている。
「それもありますが、アンソニー様、私たちは誓いの口づけをするのですよ」
「あ⋯⋯そうか⋯⋯口づけ⋯⋯」
恥ずかしいという気持ちよりも不安の波が押し寄せてくる。
俺は結婚式までに間に合うかな⋯⋯
「間に合わせて下さいね。一緒に特訓をしましょう」
俺の頭は“口づけ”という言葉がぐるぐると回っている。
恥ずかしいな⋯⋯でも苦手とか言ってる場合じゃないよな⋯⋯こんな可愛い子が俺の奥さんになるなんて本当にいいのかな?
「ティーン⋯⋯よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
俺は1年後にティーンと結婚するまでに何度顔を赤らめたのだろうか⋯⋯。
あの円満な婚約破棄騒動から1カ月が立つと、俺は決意を固めてティーンの手を握ることが出来た。
心臓は痛いほど鳴っていたし、やっぱり手汗がすごかった。
ティーンは目を丸くしたが、目を細めて俺の胸へこつりと頭をつけた。
多分俺の顔は真っ赤だったんだと思う。
目が潤んでしまったしティーンの名前しか呼べなかったけど、ティーンを今まで以上に近く感じた。
半年も経つと、俺は新たな決意をしてティーンの目の前に立った。
まるで動く人形のようにガタガタと滑らかさを完全に失った動きでティーンを抱きしめた。
するとティーンは俺の背中に手を回して抱きしめ返してくれたが、俺は心臓がもたないほどだった。
俺は自分の心臓を呪った。ティーンに近づくと早く死ぬ呪いにでもかかったかのようだった。
ちゃんと抱きしめるのにはそれから3ヶ月もかかった。
あと結婚まで3ヶ月しかないぞ?
頑張ってどうにかなるものではないのかもしれない。
待てよ? あの作戦ならどうだろう⋯⋯?
毎日のようにティーンに会いに行っていたが、結婚式の準備もあり週に1回くらいに頻度は減っていた。
それでも俺には秘策があった。
目の前に見える可愛らしい顔。⋯⋯大丈夫⋯⋯。
「愛してる⋯⋯」
そこへ扉が勢いよく開いた。
「アンソニー様! 一体どこのどなたなんですか?」
「ひえぇ、ティーン? わぁ、恥ずかしい⋯⋯」
思わず声を上げちゃった⋯⋯だって、ティーンの肖像画でイメージトレーニングしてたなんて幻滅されちゃうよ⋯⋯
ティーンは俺の持っている小さな肖像画を覗き込むと、相好を大きく崩して抱きついた。
「アンソニー様、なんていじらしい方なんでしょう⋯⋯それで練習なさってくれていたんですか?」
「聞かないで⋯⋯恥ずかしい⋯⋯幻滅した?」
「惚れ直しましたわ」
たまに見せる少し男らしいティーンに俺も惚れ直す。⋯⋯いや、惚れっぱなしか。
それでも時間は矢のように過ぎていき結婚式当日を迎えた。
公爵家同士の結婚式だったので、規模は大きい方だと思ったが、想像以上だった。
俺は頭の中で今日の結婚式についておさらいした。
参列者は王様をはじめとする王族の方々。以前お会いしたティーンのお姉さんは第2王子の奥さんだったのか。通りで「これからは家族ぐるみでよろしく」と言われるはずだ。⋯⋯それからその国のほとんどの公爵家も来る予定だ。
結婚式って一大イベントなんだなぁ。こんな大規模な結婚式は王族だけなのかと思っていた。
ティーンと結婚の誓いの部分以外は丸暗記させてもらって本当によかったなぁ。緊張のあまり俺の失態で泥を塗るところだった。
丸暗記すれば、それを実際にするのは簡単だ。予定に沿って必要な動きをして、必要な台詞を言うだけ。
結婚式は着々と進んでいった。
結婚式前日にどうしても緊張してしまうことをティーンに打ち明けると「そんな姿のアンソニー様を見れるのは私だけで嬉しいです」と満足そうに言ってくれた。
俺の大好きなティーンに少しでも気持ちを伝えたい。
俺は大聖堂の中央で止まるとティーンと相対する。そしてティーンに近づいた。
俺の顔は真っ赤になっているかもしれない⋯⋯緊張で目も潤んでいるかもしれない⋯⋯それでもティーンが好きだ⋯⋯大好きだ⋯⋯
ティーンの肩をそっと掴むと俺はティーンの唇に自分の唇をそっと重ねた。
恥ずかしながら、その後のことはよく覚えていない。
それでも隣で嬉しそうに笑うティーンがいるから、多分大丈夫だったんだと思う。
■
「それでね、お父さんは結婚式でようやく私に口づけをしてくれたのよ。だからその人にはその人のペースがあるの。周りと比べて気にすることはないわ」
ティーンは5歳になる娘にそう伝える。娘には初めて好きな人が出来たそうなのだ。
「ティーン、何の話をしているんだい?」
遠くからアンソニーが歩いてくる。ティーンは立ち上がるとアンソニーに近づき、頬にキスをした。
アンソニーは目を丸くして顔を赤らめながらキスされたところを手で隠している。
「いきなりびっくりした⋯⋯」
「ふふふ、アンソニー大好きよ」
「俺もティーンのことは大好きなんだから、いつになったって照れちゃうよ」
嬉しそうに笑いかけてくるティーンを見るとつられて笑ってしまった。
「あっずるい! 私も!」
そう言いながら娘がこちらに駆けてきた。
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