2-4 ふたりだけの秘密
『二の丸公園』は市民の憩いの場。
とても広い広場、見渡す限りの芝生。
すぐ横に大きなお堀があって、その向こうに立派な天守閣がそびえている。
日本三大名城に挙げられるこのお城は、その昔、加藤なんとかっていうすごい武将が建てたらしい。いや、実際に建てたのは大工さんだろうけど。
もう、ずいぶん日が傾いている。
公園の西の端に見える県立美術館が、その優しい朱色を浴びて芝生に長い影を落としていた。
「ここでいいかしら?」
ここに来るまで、野元さんはずっと無言。
公園の一番東の端、目の前に大きなお堀が見える場所。
「いい場所だね。前にも来たことがあるの?」
「そうね。ちょっと考え事するときなんかに」
「そうなんだ」
あたしは遠くに目をやった野元さんの横で芝生に腰を下ろして、それからそっとトランペットケースを開いた。
彼女が見下ろす。
「素敵。綺麗なトランペットね」
「うん。あたしの一番の宝物」
マウスピースを本体に差して、それから彼女へとトランペットを差し出す。
長い黒髪をそっと後ろへ払った彼女は、そのとってもしなやかな手であたしのトランペットを柔らかく受け取った。
そっと傾けて、まるで宝石でも眺めるようにうっとりと視線を落とした彼女。
瞳がゆらりとして、ほんの少し笑みを湛える。
「宝物なんでしょ? 本当に……、私が吹いてもいいの?」
「うん。野元さんに吹いてもらいたいの」
コクリと頷いて、彼女が背筋を伸ばす。
お堀のほうを向いて胸を張り、朱色の空にその美しい姿を浮かび上がらせながら、彼女はそっとトランペットを唇に当てた。
すーっと息を吸う音がした。
凜として立ってトランペットを構えた彼女は、まるで絵のように美しい。
最初の音が聴こえた。
高らかに響く、その美しい音色。
堂々として、でも、どこか悲しげ。
この曲はあたしも知っている。
イギリス民謡の、『アメイジング・グレイス』だ。
綺麗……、本当に綺麗な音。
こんな素敵なトランペットの音、聴いたことない。
あたしのトランペット、こんな音が鳴るんだ。
ふわりと空に溶けてゆく音たち。
気がつくと、あたしはゆっくりと肩を揺らしていた。
そして、まろやかな最後の音が長く長く伸びて消えると、夕暮れの熱が冷めない空気にその余韻がゆらりとした。
「すごいっ! 上手っ!」
思わず出た声。
そして、大ホールに響く喝采に負けないくらいの拍手。
「よして」
そう言って彼女はトランペットを抱き寄せながら、ちょっと目を泳がせて芝生へ腰を下ろした。
「ほんと上手。吹奏楽部に入ればいいのに」
「そんなに熱心にやっていたわけではないし。それに、みんなで協力してやる活動は私には合わないから」
「ふぅん。楽しいのに」
「誰の助けも受けずにひとりでやるのが性にあってるのよ。それに、私は誰からも好かれないし」
「それはちょっと寂しい考え方だねぇ。もしかして野元さんって、人付合いが苦手なの?」
「はぁ? そんなことないわっ。現にこうしてあなたとも――」
ムッとした彼女。
ものすごく分かりやすい。
ふんと鼻を鳴らしながら、トランペットをケースにそっと収めている。
「あはは。すごく苦手って顔に書いてあるよ? ねぇ、その人付合い苦手の克服のためにいまからでも吹奏楽部に入らない? コンクールは終わったけど、まだ文化祭があるし」
「はぁ? 余計なお世話よ。私はもっと他にやりたいことがあるのっ」
「何よ、他にやりたいことって。文芸? でも、やめちゃってるじゃない」
「え? どうしてあなたがそれを知ってるのよ」
「そりゃー、だって、あっくんが……、あ……」
「あっくん?」
動きが止まった彼女。
パタンとトランペットケースの蓋が倒れて閉まると、彼女はそれを乗り越えるようにしてあたしに顔を近づけた。
「それって、もしかして宮本歩くんのこと?」
「えっと……」
「あなた、高校生にもなって『あっくん』なんて呼び方してるの?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで『あっくん』で宮本歩くんだって分かんのよ」
「え? えっと、それは……」
どういうこと?
「そっ、それはっ、宮本歩くんと仲がいい藤田さんの口からそんな呼び名が出れば、誰だって容易に彼のことだと想像がつくでしょうっ?」
「はぁ? どうしてあたしがあっくんと仲いいなんて知ってんのよ。あんた、なんか隠してるでしょ」
「隠してなんかっ……、なっ、何よ、あなたなんて隠し事どころか、実際に隠れてコソコソと人を尾行してきたくせにっ」
みるみる真っ赤になった彼女の頬。
もう、吹き出しそう。
「あはは、もうだめっ。お腹がよじれそう。野元さん、面白いっ」
ジトリと恨めしそうな目をあたしに向けた彼女。
それから、大きな大きな溜息をひとつつくと、彼女は前のめりになった体をゆっくりと戻して居住まいを正した。
すごい呆れ顔。
「ねぇ、あなた、私と話しててイヤにならないの?」
「イヤに? ならないよ? なんで?」
「だって、たいていの人は私と話していると不機嫌になるのに」
「ああー、ちょっと上から目線っぽい発言は多いけど、それってなんか、ちっちゃな子どもが大人ぶって偉そうに話してるようにも見えて、けっこう可愛いし」
「はぁ? 何それ。あなた変わってるわね」
「そうねぇ、変わってるかもー。同級生の可愛い女の子をコソコソと尾行してしまうくらいだしねぇ」
ちょっとおどけたあたしの言葉を聞いて、眉をひそめた野元さん。
その目が再びジトリとあたしを睨む。
負けじとあたしもじっと見つめ返した。
一秒……、二秒……と過ぎる、向かい合った無言。
そして、先に目を逸らしたのは……、彼女のほう。
パッと下を向いて、そのしなやかな手が口元を押さえる。
「ふふっ。あなたって……、面白い」
遠くのほうで風の音がして、しばらくしてから彼女の長い髪がふわりと揺れた。
「面白い? そうかな。あはは」
「あなたみたいな人、初めて。ねぇ、ちょっと聞いていい?」
素敵な笑顔。
「あなた、歩くんの彼女なの?」
「え?」
何? その質問。
「ちちち、違う違う。あたしとあっくんは単なるご近所さん。ちょっと腐れ縁ってだけ」
「そうなのね。あんまり仲がいいから付き合ってるのかと思ったわ」
「それねぇ、なんであんたがそんなこと知ってるのよ。だいたい『あっくん』で彼って分かること自体ナゾなんだけど」
「だって、私、ずっと見てたから」
「え? 見てたって、何を?」
彼女がすーっと息を吸った。
朱色の芝生に落ちた彼女の長い影が少しだけゆらりとした。
「彼を」
遠くを見つめる綺麗な瞳。
思わずその美しい横顔に息を飲む。
「彼って、あっくんを?」
「うん」
突然の彼女の告白。
それって、あっくんが好きってこと?
もしそうだったとしたら、もしかして両想いってことじゃない?
それは……、困るんだけど。
「私ね? 一年生のとき、文化委員長だった彼のところへ文芸部の文化祭展示の申請をしに行ったんだけど、そのときけっこうな無理難題を彼に押し付けちゃったの」
「へ、へぇ、そうなんだ」
これは知っている。何度かあっくんから聞かされた話。
「それがね? 笑っちゃうのよ? その無理難題、ぜーんぶ私がお願いしたとおりにしてくれてね。相部屋がイヤだとか、音を出す部活の近くはイヤだとか」
「あー、それ、ちょっとだけあっくんが話してたの聞いたことがある。けっこう大変だったみたい。反対意見とかあって」
「そうでしょうね。私はたったひとりの部活だし、たぶん無理だろうと思っていたんだけど、彼は私の希望をぜんぶ聞いてくれた。それに――」
野元さん、嬉しそうな顔。
「それに、文化祭本番のとき、忙しいはずなのに、わざわざ私の展示を見に来てくれた」
これも知っている。
あっくんが野元さんへの想いをすごく強くしたっていう、詩集『光風の伝言』をもらった、あの話だ。
「私はね? 実は『ある人』を待っていたの。でも、結局その人は来てくれなかったわ。代わりに、私の詩集をわざわざ読みに来てくれたのは……彼、宮本歩くん」
「そう……だったんだ」
「すごく嬉しかった。すごく私を気遣ってくれて、そして私の本を読みたいって思ってくれて」
あたしは真っ直ぐ野元さんの目を見た。
「ねぇ、野元さん、もしかしてあっくんのこと……、好き?」
遠くを見つめていた彼女はゆっくりと目を伏せたあと、ひと呼吸おいて真っ直ぐあたしに目を向けた。
「そうね。大好き」
綺麗な瞳、吸い込まれそう。
そっか。やっぱり野元さん、あっくんのこと好きなんだ。
「じゃ……」
そっと手を伸ばして、あたしは野元さんの手を取った。
「あたしたちは……、恋敵ってわけだ」
きょとんとした彼女。
それからひと呼吸おいて、その顔はちょっと意地悪な笑顔になった。
「あら、話が違うわ。単なるご近所さんじゃなかったかしら」
「それはその……、そうなんだけど。野元さんには、ほんとのこと話してもいいかなって思って」
「ふふ。そんなこと、とうにお見通しよ?」
野元さんがあたしの手を握ったまま立ち上がる。
そして彼女はその手にぎゅっと力を込めると、すっとあたしに眼差しを投げた。
「ねぇ、藤田さん、私たち、友だちになれるかな」
真剣な表情、ほんとに綺麗。
あたしも手を繋いだまま立ち上がる。
それからもう片方の手で制服のスカートをパッパッと払ったあと、あたしはさっきの彼女よりもっと意地悪な顔を作って、その顔をそっと覗き見上げた。
「ほんと、野元さんって人付合い下手そうね。友だちなんてね? なろうって言ってなるもんじゃないのよ?」
「それって、自然に、いつの間にかってこと? 安易なのね。私には真似できない」
「ぷっ。野元さん、絶対友だち居ないよね」
「失礼ね。ひとり居るわよ? そうね、かなり不躾だけど、とても可愛らしい友人が」
「え? そうなの? 同級生?」
「そう。あなたもよく知ってる人。柄にもなく吹奏楽部の部長なんてやってるんだけど」
「こら」
「ふふっ。私の人付合い下手をからかったお返し」
「あはは、おあいこ」
ふたりして、透き通った空を見上げる。
柔らかな風がそっと頬を撫でて、青々とした芝の香りがふわりと通りすぎた。
野元さんが、すっとあたしを見る。
「ねぇ、私たちの名前って、反対って思わない?」
「反対?」
「うん。音を『奏』でるのが好きな『栞』と、『栞』を挟んで本を読んだり物語を書いたりするのが好きな……、『奏』」
「ああー」
そんなこと考えもしなかった。
そう言われればそうだ。あたしたちの名前は反対。
なんか不思議。
「ねぇ、野元さん」
言葉を続けようとあたしがそう呼ぶと、彼女は一瞬「あ……」っと口を開きかけて、それからすぐに視線を外して下を向いた。
不思議に思って、そっとその顔を覗き見上げる。
すると彼女は絡めた指先をもじもじさせながら、芝生に瞳を向けたまま小さく口を開いた。
「かっ、『かなで』でいいわ」
「え?」
「あ、あなたたちは安易に友だちになったら、すぐに下の名前で呼び合うんでしょ? だから、その……」
「あー、あはは。じゃ、ねぇ、『かなで』?」
あたしの呼びかけに、彼女の肩がぐっとすくんだ。
そして、一瞬の間があったあと、その愛らしい唇から小さく小さく「よしっ」というつぶやきが漏れて、彼女はパッと顔を上げて真っ直ぐにあたしを見た。
「な……、何? ししし……、しお……」
だめだ。
すごく可愛い。
「もうっ、ちゃんと呼んで? はい、やり直し。ねぇ……、か、な、で?」
「なっ、何っ? しおりっ」
「あはは、よくできましたっ! あたしっ、嬉しいっ!」
思わず、ぐいっと彼女の腕を引き寄せた。
一瞬、肩を強張らせた彼女。
あたしはさらにぐぐっと顔を近づけて、その綺麗な瞳をじっと見つめた。
彼女の目が少しだけ泳ぐ。
そして、それから彼女はすーっと大きく息を吸うと、ぎゅっと上げていたその肩をゆっくりと下ろした。
「うん……、私も、嬉しい」
なんか素敵。
彼女は、普通の女の子だ。
あたしと同じ、どこにでも居る、普通の。
すっと息を吸った。
いつか、彼女にあの事を話したい。
彼女に、どうしようもない、あたしの胸の内を聞いてもらいたい。
「あの……、あのさ、今度、あたしの悩み、聞いてもらえるかな」
「いいわ。どうせ、歩くんのことでしょ?」
「あはは、まぁ、そんな感じ。あっ、そういえば今日、どうして英会話教室に行ったの?」
「ああ……、あの先生はお父さんの友だちなの。英語ってずっと使わないでいるとだんだん忘れちゃうから、今回、通訳を依頼されたし、ちょっと勘を取り戻そうと思って」
「へぇ、忘れちゃうんだ」
通訳を依頼されたから……、そっか、やっぱり奏ってすごい。
さすがだよね。あたしも見習わなきゃ。
「偉いね。すごい責任感。あー、でも、その責任感ってすごいけど、奏ってそのぶんかなりプライドも高いよねぇ」
「プライド? 失礼ね。そんなことないわ」
「いやぁ、高い高い。それもとびっきり」
「ふんっ、栞ってほんっと意地悪ね」
「あはは。でも、あたしには分かるからいい」
「ふふっ、ありがとう」
夏の日の夕暮れ。
広い二の丸公園は人影疎らでもうずいぶん涼しげに見えたけど、あたしは熱を帯びた夢からなかなか目を覚ませずにいるような、そんな感覚だった。
奏はすごい女の子だけど、それでいて普通の女の子。
あっくんのことを好きって言って、あたしのことを『栞』って呼んでくれて。
高校最後の夏休み、もっと彼女のことを知りたい、もっと仲良くなりたいって、心から思った。
でも、しばらくはあっくんには内緒。
ふたりは両想い。
もし、奏とあっくんが付き合うことになったら、あたし、ちょっと普通じゃいられないかもしれない。
でも、少しだけ、それも仕方ないかなって、実際、ふたりはお似合いだよねって、そんなふうに思いながら、あたしは奏と一緒に公園をあとにした。