2-3 真夏の追跡劇
高校三年生 八月
夏休みも一週間が過ぎて、八月になった途端、青空に浮かぶ下ろしたてのシャツみたいな真っ白な雲が、悠々とあたしたちを見下ろすようになった。
木の陰をはっきりと道路に落とす、真夏の太陽。
その太陽が、県立劇場の前の通りにゆらゆらと陽炎を湧き立たせている。
「みんなー、お疲れさまー」
吹奏楽コンクールの県大会。
去年と同じように、今年も取材と称して数人の放送部員が応援に来てくれた。
結果は金賞。でもあたしたちの金賞は、支部大会へは進出できない、ここで終わりの金賞。
あたしの吹奏楽の夏はこれでおしまい。
県立劇場の正面玄関を出て、前の道路まで続く屋根のある通路を見渡す。
ちょっとだけ期待していたけど、やっぱりあっくんの姿はなかった。
当然だよね。最近はずっとこんな感じ。
居ないって分かっているのに、いつの間にかあっくんの姿を探している。
数人の男女のグループが、県立劇場の前の通りを話しながら歩いていた。
大学生かな。すごく楽しそう。
県立劇場のお隣は、四年制商科大学と短期大学が同じキャンパスを共有している、文系の私立大学。
何やら、図書室にとっても優しい幽霊が住んでいるって話が有名らしい。
図書室で勉強に疲れて眠ってしまった学生の肩に、そっとコートをかけてくれるって。
でも、コートを着ない夏はどうするんだろうなぁなんて、そんなことを考えながら県立劇場を出て大学のほうへ歩くと、お父さんが大学入口の銀杏並木に車を停めてあたしを待ってくれていた。
「栞、お疲れさま。ん? ほかの三年の子は一緒に送らなくていいの?」
「うん。トランペットの子はみんな保護者が来てるから大丈夫」
「そっか。それなら乗って。お母さん先に行って待ってるから」
「うん」
このあとは慰労会。
もし今日の結果が支部大会へ行ける金賞だったら、この会は慰労会じゃなくて激励会になるはずだった。
まぁ、予想はしていたけど。
ゆっくりと走り出す車。
車の中はちょっとタバコ臭い。最近流行のクレーンゲームで獲った小さなぬいぐるみが、カーコンポの前にいくつもぶら下がっている。ぜんぶお父さんが酔っ払った帰りに獲ってきた戦利品。すごく邪魔。
その下のプラスチックの箱の中には、無造作に入れられたカセットテープたちがいっぱい。お父さんが好きなブルーハーツとかBO∅WYの曲が入っている。
「なんか聴く?」
「いいえ、結構ですぅ。お父さんの好きな歌、うるさいのばっかりだもん。ラジオでいい」
「ラジオ? あ、そういえば、さっき歩くんが挨拶してきたな。ラジオ番組で東京行ってたって。NHKの……コンクール? コンテスト?」
「えっ? あっくんが?」
「うん。車停めてたら、県劇のほうから来た歩くんがお父さんを見つけて、わざわざ寄ってきてくれたんだよ。ずいぶん丁寧な挨拶をしてくれた」
あっくん、演奏を聴きにきてくれていたんだ。
「な、なんか言ってた? あたしに。お疲れさまとか、頑張ったねとか」
「いや、別に。でも、栞、会場で会わなかったの? 歩くんと」
「え? あ、まぁ……ね」
「ふぅん。まぁ、もうそんな歳だよね」
「そ、そうかな」
何それ、そんな歳って。
あー、でもいい。
嬉しいっ! すっごく、すっごく嬉しいっ!
もうね、言葉なんてかけてもらえなくていい。
あっくんが会場まで足を運んでくれたこと、それだけで充分。
あたし、よく分かったんだ。
あたしは、あっくんの単なるご近所さんのひとり。あたしがいままで勝手に、あたしはあっくんの特別なんだって思い込んでただけ。
だから、来てくれただけで充分。
「栞? どうしたの?」
「え? ううん。なんでもない。ほら、ちゃんと前向いて運転してよ」
あたしはいま、どんな顔をしているんだろう。
きっと、嬉しさと寂しさが一緒になって、へんてこりんな顔なんじゃないかな。
あたしはちょっと恥ずかしくなって、ゆっくりと窓のほうへと顔を向けた。
そして、ああ、これで楽しかった吹奏楽部の夏と一緒に、ずっとくすぶってたあたしの恋も終わるんだなって、そんなことをぼーっと考えながら、走り去る夕暮れの街並みを眺めていた。
県大会から一夜明けた今日は、お昼からコンクールのあと片付け。
散らかり放題だった音楽室と音楽準備室は、昨日、本番から帰ってきた下級生たちがある程度片付けてくれていたけど、三年生の私物なんかはそのままだから、今日は三年と有志の下級生だけのお片付け会。
練習はお休みなのに、下級生たちがいっぱいお手伝いに来てくれたおかげで、お片付け会は夕方を待たずにあっという間にお開きになった。
「さぁーて、栞ー、どうするー? どっか寄って帰る?」
「もう、なんでついてくるのー? あたし、みんなとは行かないよ? 用事あるから」
「ええー? もしかしてオトコぉ?」
「そんなわけない。ちょっと楽器屋さんに行って職人さんにトランペットのお手入れしてもらおうと思って」
「それなら、その前にスパイシーなピザでも。みんなも行くよね?」
「行く行く!」
「だからぁ、あたしは行かないんだって」
ちょっと都会の女子高生っぽい会話を気取ってるけど、実はウチの高校から市街地まではかなり遠い。
西の外れの田んぼ道を、自転車でえっちらおっちら東へ東へ。ずいぶん走って、例のターミナル駅の付近まで来るとやっと街らしくなり始め、さらにその駅を通り過ぎて交通センターの辺りまで来ると、ようやく繁華街へとたどり着く。
交通センターの向こうに見える、お城の石垣。
なんか、敵の兵隊が登って来られないようにちょっと反ってるらしいけど、見た目にはよく分からない。
市役所の裏の駐輪場は、意外に空いていた。
「栞、ほんとに一緒に行かないのぉ?」
「あんたたち本気で行くの? こんな暑いのに激辛ピザとか」
「いやいや、吹奏楽部はいつも全力のっ、全開のっ、本気だからっ!」
「何よ、その『二十四時間タタカエマスカ』みたいなノリは。まぁ、辛いの食べ過ぎておなか壊さないようにね? 明日はカナダ国歌をちゃんと練習するから」
「はいはーい。じゃ、栞、また明日ぁー。栞の分まで食べとくねー」
あたしの行きつけの楽器屋さんは、商店街の中。
実は、この街の商店街はちょっとすごい。
天井がとっても高くて、幅も大型バスが通りに対して横向きにすっぽり入るくらいのとんでもない広さ。さらに、三つのアーケードが逆L字に繋がったその長さは、なんと一五〇〇メートルもあるらしい。
高さ、幅、長さが、ぜんぶ日本一なんだって。
その一番北にある『上通り』に、あたしの行きつけの楽器屋さんがある。
吹奏楽部イケイケ担当の彼女たちと別れて、トランペットの手提げケースを揺らしながら歩き出したアーケード。
見渡すと、制服姿の女子はあたししか居ない。
一度家に帰って着替えてから来ればよかったかなぁなんて考えながら、すーっと視線を楽器屋さんの看板へと移した、そのとき。
「ひっ」
ドキッとした。
この前、セミナーハウスの研修室で感じた、あのときと同じ感覚。
通りを流れる人の波。
その波間の向こうに見え隠れする、見覚えのあるその姿。
すぐに、じわりと背中に汗がにじんだ。
彼女だ。
人垣の間を、ゆっくりとこちらへ向かって歩いて来ている。
思わず立ち止まった。
そして無意識に、その姿に目を奪われる。
真っ直ぐ正面を見据えた瞳、凛とした佇まい。
あれほどまでに艶やかで美しい黒髪を、見間違えるはずがない。
野元奏さん。
キュッと足首を絞った爽やかなストーンウォッシュジーンズに、広く襟が開いた白いブラウス。
細いストラップの茶色のショルダーバッグを揺らすその姿は、学校でのキリリとした制服姿からは想像できないくらいに可愛らしい。
ハッと我に返る。
どうしよう。
どんな顔したらいい?
それとも気がつかない振りをして通り過ぎる?
えっと、えっと、えっと……。
おろおろと視線が泳ぐと、すぐ横のメガネ屋さんの看板が目に飛び込んだ。
思わず駆け込む。
自動ドアのすぐ横で、じっと息を潜めた。
「よかった。うまく逃げられたかも」
逃げた?
なぜ逃げる必要がある?
でも実際にいま、あたしは逃げて身を潜めて、彼女が通り過ぎるのを待っている。
すごくドキドキしている。
来た。
やっぱり彼女だ。
自動ドアのガラスの向こう、ほんの数メートル先を通り過ぎていく彼女。
あたしは息を押しころしている。
聞こえるはずなんてないのに。
「いらっしゃいませ」
「きゃぁ!」
びっくりした。
振り返ると、カウンターの向こうで店員さんが不思議そうな顔をしている。
「あの……、メガネをお探しですか?」
「あ、あはは。いやー、その、目はめちゃくちゃいいので……、ごめんなさい」
「はぁ」
しどろもどろのあたし。
なんでこんなに慌てるんだ。
引きつった顔のままメガネ屋さんから飛び出すと、あたしはすぐに彼女の背中を探した。
なぜだ。
逃げたのに。
自分でもなぜそうしようと思ったのか分からない。
気がつくと、あたしは彼女のあとを追っていた。
抱えたトランペットケースが鉛のように重たい。
ちょっと背伸びをしてアーケードを見渡す。
見つけた。
人垣の向こう、揺れる長い黒髪。
その姿は、鮮やかな夏の色合いの風景の中で揺れているはずなのに、なぜかあたしはその背景にまったく彩りを感じない。
いまのあたしにとって、彼女の背景は白黒写真。
そして、色づいて見えるのは彼女だけ。
彼女の後ろ姿だけだ。
あたしはその鮮やかな一点にだけ視線を向けて、何かに取り憑かれたようにアーケードを歩いている。
どれくらい歩いただろう。
次に我に返ったのは、アーケードから脇道に入った、とある雑居ビルの前だった。
ビルの入口に吸い込まれていく彼女。
突然終わった、あたしの追跡劇。
見上げると、角が斜めになった雑居ビルの二階の窓には、『英会話教室』の文字が掲げられている。
『野元は中学二年までイギリスで生活していたらしくてな。英語ペラペラなんだよ』
英語ペラペラの彼女が、英会話教室?
どうして?
不思議に思いながら、ビルへと足を踏み入れる。
ちょっと薄暗い、古い建物。
階段を二階に上がると、そこには通路から中が見渡せるガラス張りの部屋があった。
『Welcome! 英会話教室』
そう書かれたボードが、部屋の入口に立てかけられている。
まるで泥棒のように足音を潜めて、ゆっくりとその入口に近づいた。
何をやっているんだ、あたしは。
こんなところを彼女に見つかったら……。
「あなた、こんなところで何してるの?」
「ひえっ?」
背後からかかった、透き通った声。
振り返ると、そこには……。
「のっ、のっ、野元さん。こここ、こん、にちは」
「やっぱり、藤田さんね? あなた、どうしてこんなところに――」
「あはは、いい、いや、ちょっとみみみ、道に迷ってしまって」
「どう迷ったらこんなところに入り込むのよ」
「どうって、その、違うのっ、いや、あのっ、そっ、そういう野元さんはっ、こっ、ここで何しているのっ?」
「は? いまはあなたのことを聞いているんだけど」
思わず『いひひ』って顔をして、トランペットケースを抱きしめた。
彼女の目がジトリとあたしを捉える。
もうダメだ。
つーっと背中を伝う汗。
「えーっと、その、さっきアーケードで野元さんを見つけて、その、声をかけようかと思いながら――」
「あたしをつけてきたの?」
「えっ? そ、そんな、つけてきたとか――」
「つけてきたのね」
「えっと、あの……、はい」
「呆れた……。何? 目的は。何を企んでいるの?」
「たたた、企むとかっ、そのっ、ただちょっと興味が……」
うわ、あたし、すごく気持ち悪い。
ああもう、どうにでもなれっ。
「そっ、そうっ! 興味よっ? 単なる興味っ! 野元さん、何してるのかなぁって思って!」
「何それ。何だっていいでしょ? あなたに関係ないじゃない」
「いやいやいや、でもこれはちょっとおかしくないっ? 英語ペラペラの野元さんが英会話教室に通ってるとか!」
「はぁ? 人の勝手でしょっ?」
口を尖らせて、バッと長い黒髪を後ろへ払った彼女。
うわ、可愛いっ!
思わず思い切り意地悪な顔になる。
「へぇー、野元さん、もしかして……、ほんとはしゃべれないとかぁ?」
「なっ、なんですってっ?」
顔を真っ赤にした彼女。
その可愛らしい口元がわなわなと震えたかと思うと、突然、ググッと握った両手が真っ直ぐ下に突き下ろされた。
「Hey, you!! Shut up and go home!! Otherwise, I destroy your trumpet into pieces now!!!!! OK!?」
野元さんの割れんばかりの大きな声。
教室の中で、講師の外国人男性がパッと顔を上げてこちらを見た。
思わずのけ反ると、腰に手をあててちょっと前傾姿勢になった野元さんの肩から長い黒髪がはらりと落ちた。
ぜんぜんなんて言ったのか分からない。
いや、最後のほうの『トランペット』だけ分かったかな。
「うわぁ、いい発音っ!」
「うるさいわねっ。早く帰りなさい!」
ふんっと鼻を鳴らして振り返る野元さん。
教室に入ろうとした彼女のちょっとイカった肩に、あたしは思わず声をかけた。
すごい神経。
怒らせたばかりだっていうのに。
「ちょっ、ちょっと待って! 最後のほう、『トランペット』って言ったよねっ?」
ピクンと首をすくませて、立ち止まった野元さん。
お? なんか反応した。
彼女がゆっくりと振り返る。
うわぁ、怖い目。
「いまの、『トランペット』だけ聞き取れたっ! なんて言ったの?」
「あなた、いったいなんなの? まだ私を怒らせる気?」
「ねぇ、なんて言ったの?」
「もうっ! 『早く家に帰らないと、そのトランペットを粉々に砕くわよ』って言ったのっ!」
「やっぱり『トランペット』であってたんだ! でもっ、なんでこれがトランペットだって分かったのっ?」
「はぁ?」
抱きかかえていたトランペットケースを、両手ですっと彼女の前へ差し出す。
「なんで?」
「なっ……、なんでって、私もトランペットを習っていたからよ」
「ほんとっ?」
プイと口を尖らせた彼女。
でも、よく見ると頬がほんのり紅い。
指先で黒髪の先っぽをくるくるしているし、もしかして。
「ねぇ! あたし、野元さんのトランペット、聴きたいっ!」
「ええっ?」
「最近吹いていないんでしょっ? 吹いてみたくないっ?」
「べ、別に吹いてみたくは――」
「ねぇ! 聴かせてよっ! 野元さんのトランペットっ!」
すごい厚かましさ。
もっと怒っちゃうかな。
グッとアゴを引いた彼女が、目を丸くしてあたしを見ている。
すごく綺麗。
あたしがゆっくりとトランペットケースをまた抱き戻すと、彼女はすーっと息を吸って、それからこれでもかというくらい深い溜息をついた。
「はぁ……、敵わないわね。ちょっと待っていなさい」
教室へ入る野元さん。
講師さんに何か英語で話しかけている。
さすがネイティブって感じの、とっても流暢な英語。
その発音に聞き惚れていると、すぐに彼女は通路へと戻ってきた。
「行きましょう」
「え?」
少し怒った顔。
でも、やっぱりちょっとだけ頬が紅い。
「聴きたいんでしょ? 私のトランペット」
「え? う、うん! いいの?」
「あなたが聴きたいって言ったのに、何? それ」
「あはは。で、どこ行くの?」
「お城。二の丸公園でいいかしら?」
ビルを出て、ふたりで肩を並べて歩き出した歩道。
もうすぐ夕方。ちょっとだけ柔らかくなった日差しを浴びながら、路面電車の軌道を横切って、交通センターから市民会館に続く通りへと出た。
ずっと向こうに、立派な石垣とお城へ上っていく坂が見える。
なんか不思議。
あたし、野元さんと肩を並べて歩いてる。
こんなに近い距離で、一緒に。
横目でちょっと見ると、なぜか目が合う。
すると彼女はすぐプイッと反対を向く。
すごく可愛い。
あたしはドキドキしていた。
彼女は普通の女の子だ。
ちょっと素直じゃないけど、みんなと同じ、普通の女の子。