2-2 通訳は帰国子女
高校三年生 七月
「代表団が来るんだよ。カナダから」
「わざわざカナダからですか?」
音楽室に着くなり、夏休みに開催されるイベントの話を始めた、吹奏楽部顧問の光永先生。
話によれば、うちの高校は来る今年の十一月、とあるカナダの公立高校と姉妹校関係を結ぶことになっているらしい。
どうも、前生徒会長が中心になって進めた計画なんだって。
全然知らなかった。
そしてなんと、その事前行事として、カナダの高校から親善大使が表敬訪問に来るみたい。
「うん。で、最初は予定してなかったけど、やっぱり歓迎セレモニーやろうってことになったらしくて、生徒会執行部から、吹奏楽部と放送部に協力依頼がきてさ」
「うわ、放送部ですかぁ……」
よりによって放送部と一緒とか、あたし、どうしたらいいのでしょう。
期末考査も終わって、あとは夏休み突入を待つだけというこの時期。あたしたち吹奏楽部は、夏の吹奏楽コンクールに向けての練習で忙しい。
たぶん放送部も同じのはず。
放送部はついこの前、県予選で優勝して念願のNHKコンテストの全国大会への出場が決まったって聞いた。たしか、全国大会はあたしたちの吹奏楽コンクールの県大会と同じ時期じゃなかったっけ。
どうやら、親善大使がやって来るのは八月上旬らしい。
そうすると、そのころは一応、放送部も吹奏楽部もそれぞれの大会が終わってるけど、それでも大会前から準備に取りかからなきゃならないのは間違いない。
それに、もしあたしたちが県大会で支部大会進出校に選ばれたら、次の本番は八月中旬。
そうなったらもう、歓迎セレモニーなんてやってる暇はないのに。
「あのう……、先生? それで吹奏楽部は何をやるんですか?」
「間違いなくやるのは、カナダ国歌と相手校の校歌の演奏だろうね」
「ああー、やっぱりゼロから練習が要るのをやるんですね」
「なんだぁ? 藤田らしくないじゃないか。いつもの感電しそうな元気はどうした」
「はぁ、最近、ちょっと発電機の調子が良くなくて」
「なんだそりゃ」
実際そうだ。
あのインタビューの一件以来、あたしはあっくんと口をきいていない。
一緒に登校することも、一緒にお弁当を食べることもなくなった。
放送室の前を通ることすらも。
お母さんに話したら、『高校生の男女なんだからそれが普通。だいたい「あっくん」という呼び方も悪い』って笑われた。
そんなものなのかな。
「とにかく、明日の放課後に説明会があるから、お前、代表な?」
「はぁ、やっぱそうなりますよね」
「当たり前だろ、部長なんだから」
そうか、部長だからね。
放送部の部長はかの有名な弁護士志望の橋本くんだから、たぶん、説明会にあっくんが来ることはない。とりあえず、明日はなんとか乗り切れそうだ。
あたしの浮かない顔をちょっと心配してくれたのか、先生は「頼んだぞ?」って言いながら、丸めた楽譜でポンポンとあたしの頭を軽く叩いて思い切りニッコリすると、それから指揮台のほうへゆっくりと歩いて行った。
あーあ、なんだか気が重いな。
「さぁ、席の指定はないから、適当に座れー」
説明会の会場は、セミナーハウスの研修室。
うちの高校には、我が県の県立高校では初の、宿泊もできる研修施設、『セミナーハウス』がある。
正門のすぐ右側、敷地の端っこに建っていて、座学用の研修室と多目的用途の大きな畳部屋、それから、調理実習もできる厨房と食堂も完備されている。
でも、実際はあんまり使われていないけど。
放課後、あたしは基本練習の指揮を副部長くんにお願いして、あまり乗り気でない説明会のためにセミナーハウスへと向かった。
靴を脱いで、備え付けのスリッパに履き替える。
ふと顔を上げると、エントランスの壁に歓迎のレリーフが見えた。
瓦よりひと回り大きいサイズに分割されたパーツが、とっても綺麗に壁一面に並んでいる。そして、その色は目が覚めるような赤。
ただ、あたしはそのレリーフを見て綺麗だなとは思うけど、残念なことにその芸術性はよく分からない。
きっと、あっくんや野元さんならその意味をちゃんと理解して、素敵な講評の文章を書けるんだろうけど。
「後ろに回してくれー」
研修室に入ると、生徒会執行部顧問の富永先生が最前列の生徒に説明のプリントを手渡していた。
見渡すと、呼ばれているのは放送部や吹奏楽部だけじゃないみたい。運動系の部活の主将や、外国とパソコン通信をやっている物理化学部の部長も居る。
少し考えて、後ろの出入口ドアに一番近い、最後列の真ん中あたりに腰を下ろした。説明会が終わったらすぐに駆け出して、みんなのところへ戻って練習に加わるために。
正直、この時間はとても惜しい。
早くトランペットを鳴らしたい。
そう思いながら、ふとついた小さな溜息。
そして、説明会が始まるまで机に突っ伏していようと思って両手を前に突き出した、そのとき……。
カチャッ。
周りはざわついていたのに、なぜかその音が耳の奥に突き刺さった。
ゆっくりと開いたドア。
そしてあたしは、ドアの向こうに現れたその姿に、思わず息を飲んだ。
すっと伸びた背筋。
凜とした佇まい。
胸まである長くて綺麗な黒髪がふわりと揺れた。
一斉にみんなの視線が集まる。
「野元……さんだ」
すーっと周りの談笑が止む。
そう、彼女だ。
いまはもうなくなってしまった文芸部の最後の部員で、あっくんがずっと想いを寄せている人。
野元奏さん。
なぜ、彼女がここへ来たんだろう。
「先生、席はどこですか?」
「おー、野元。すまんな。席の指定はないから、どこでも好きなところに座れ」
その答えを受けて、すーっと室内を見渡す彼女。
なんて綺麗な瞳なんだろう。あっくんが好きになるのも無理はない。
そんなことを考えながら、何気なく彼女の視線の先を追っていると、それは徐々に最後列へと流れて、そしてなぜかあたしを向いて止まった。
「え?」
不意に合ってしまった目。
ドキッとした。
一秒、二秒と、彼女の美しい瞳があたしを捉える。
あたしはハッとして、思わず下を向いた。
ゆっくりと近づいてくる足音。
なんだろう。
彼女はあたしのことを知らない。
あたしが一方的に彼女を知っているだけ。
いままで一度も話したことはないし、一緒に何かの係をやったこともない。
それなのになぜか、彼女はあたしのことを知っていて、それであたしを見つけてこちらへ歩いてきているような、そんな感覚に陥った。
下を向いたあたしの視界の右端に、彼女の足が見えた。
ゆっくりと、あたしの背後を右から左へ通り過ぎる彼女。
彼女の香りだろうか。
爽やかな柑橘系の香りが、あたしの背後でゆらりとしている。
すると彼女は、あたしの左をひとつ空けて、ふたつ隣の席に音もなく腰を下ろした。
手に汗がにじむ。
あたし、どうしてしまったんだろう。
単に同学年の女の子ってだけなのに、なぜこんなに緊張するのか分からない。
横目でそっと彼女を見た。
その何者をも寄せ付けないような雰囲気。
それは、あたしが思い描いていたようなお星さま大好きの文芸少女とはまったく違った。
視線を戻して、ハンカチを取り出した。
そして、手の汗を拭きながら、もう一度彼女を視界の端に捉える。
彼女は真っ直ぐに正面を見据えて、何かを見極めようとする姿勢でそこに頑として座っている。
強い意志。
手に取るように感じ取れる、強い意志だ。
それに引き替え、あたしはなんだ。
大事な説明会だというのに、心はここになくて、いい加減で無責任。
そして、いかにも一生懸命なふりをして、素直で可愛らしい女子を演じながら、ここに居る。
「じゃ、みんないいか? センテニアル高校親善大使対応担当者説明会を始めます」
富永先生の声でハッと我に返って、プリントに目をやる。
親善大使は、教師一名と生徒三名の計四名。
カナダから飛行機で東京へ来て、新幹線と在来線特急を乗り継いでやって来るらしい。
先生たちと生徒会長がターミナル駅で出迎えて、それから車で学校へ移動するみたい。セレモニーはそのあとだ。
学校へ着いてすぐに、正面玄関での吹奏楽部のファンファーレでの出迎えや、放送部が司会とPAをやる体育館での部活動紹介と交流会が予定されている。
「で、今回の訪問団はみんなカナダの人で、当然、会話は英語なんだが」
みんながプリントから目を上げる。
「その通訳を、三年六組の野元にしてもらう」
先生の言葉を聞いて、何人かの生徒が後ろを振り返った。
ハッとして下を向く。
あたしを見たわけじゃないのに。
通訳? 野元さんが?
ちらっと横目で彼女を見ると、なぜかまた目が合った。
思わずまた下を向く。
「あー、野元は中学二年までイギリスで生活していたらしくてな。英語ペラペラなんだよ。それで通訳を依頼したんだ」
研修室がほんの少しざわついた。
彼女、帰国子女なんだ。
すごい、英語ペラペラとか。
「お父さんの仕事の関係で三歳からイギリスに居たそうで、それから――」
「先生」
ガタン!
突然鳴った、椅子の音。
ふたつ左隣の席で、彼女がすっくと立ち上がる。
「個人的な話はやめてもらえませんか」
瞬時に研修室がしんとなって、みんなが肩をすくめた。
見ると、先生が目を丸くしてのけ反っている。
「あ……、ああ、そうだな。すまない」
ちょっと引きつった先生の顔がなんともいえない苦笑いになると、彼女は再び音もなく椅子に腰を下ろした。
こ……、怖い。
そして、なんだか微妙な雰囲気になった説明会はそれから日程を追いながら進んで、最後は各セクションごとに分かれてのリーダー決めが難航。
そうして、もう最終下校の寸前になってやっと終わった。
「よし、一応、説明会はこれで終わりだ。みんな、頼んだぞ? かいさーん」
たぶんもう、吹奏楽部の練習は終わっている。
やっと解放されたって感じで、ガヤガヤしながら椅子を引くみんな。
あたしは一瞬左を見ようとしたけど、ハッとして反対を向いた。
そして、そっと立ち上がる。
左には顔を向けず、背中を丸めて、まるで逃げるように。
その瞬間。
「ちょっと、藤田さん」
「ひっ?」
ドキッとした。
突然、背後から聞こえた透き通った声。
思わず首をすくめる。
彼女の声だ。
あたしを呼んだの?
いや、彼女があたしの名前を知っているはずがない。
人違い?
でも、呼ばれたのはあたしの名前だ。
「ちょっと、聞こえてる?」
「え? ええっと……」
恐る恐る、じわっと振り返った、後ろ。
するとそこには、手に持ったハンカチをパタパタとはたく野元さんが居た。
「落としたわ」
見ると、彼女の手には、見覚えのあるハンカチ。
それはあたしのだ。
さっきまで謎の緊張で出た汗を拭っていた、あたしのハンカチ。
彼女がちょっと眉根を寄せて、それをグイとあたしに差し出す。
笑顔はない。
「どうしたの? 要らないの?」
「どどど、どうもしない。い、要る。あたしの、はんかち」
なんなんだ。
あたしは何を焦っているんだ。いきなりカタコトになって。
彼女が一歩近づく。
「あなた、吹奏楽部の部長さん、藤田さんよね?」
「ううう、うん。あたし、ふじ……た。あたしのこと……、知ってるの?」
またカタコトだ。
落ち着け、栞!
「ええ、知っているわ」
思わず、背筋が伸びた。
「あああ、あの、な、なんであたしのこと知ってるの?」
美しい瞳が、凛としてあたしを見つめている。
「さぁ、なんでかしらね」
意味深な言葉。
あたしは、さらにドキッとして少しのけ反った。
「えっと、その――」
「――で、ハンカチはどうするの?」
あたしの言葉を遮りながら、彼女の手がもっと突き出される。
あたしは慌てて両手を出した。
「ごごご、ごめんなさいっ。いただきますっ」
意味が分からない。
あたしがしどろもどろになってハンカチを受け取ると、彼女はその手をすっと引いて、それから肩にかかった黒髪をゆっくりと後ろへ払った。
そして、すっとあたしから視線を外して、ゆっくりとあたしの横を通り過ぎた彼女。
その足音が扉を出てレリーフのほうへと遠ざかって行ったあと、あたしはハッとして振り返った。
「あっ、あのっ……、ありがとうっ!」
ゆらりと残った、彼女の香り。
『あなた、吹奏楽部の部長さん、藤田さんよね?』
どうして、彼女はあたしのことを知っていたんだろう。
レリーフの前の彼女の姿が消えると、背後で「早く出ろー」という富永先生の声がした。
あたしは、解けない数学の問題文を何度も何度も読み返しているような、なんだかそんな落ち着かない気分になって、彼女が居なくなったレリーフの前のエントランスをぼんやりと眺めていた。