1-3 それは本物の想い
「どうしたの? なんか元気ないわね」
大好物の煮込みハンバーグをよそいながら、僕の顔を覗き見上げた母さん。
その顔はちょっと心配そう。
「え? 別に……、元気だよ?」
「そう? あ、分かった。栞ちゃんとケンカしたんでしょ」
「いや、ケンカはしてないけど」
「栞ちゃん、最近、ぜんぜんやって来ないじゃない。前は一緒に勉強してたのに」
「勉強はひとりでするもんでしょ」
「おー、そうか。そうだよねぇ。男の子と女の子だしねぇ。もうそんな歳かぁ。なーんか笑っちゃうわ。あはは」
そんな歳?
いままで栞を女性として意識したことはない。
母さんのその言葉はちょっと癇に障ったけど、僕は何も言い返さなかった。
でも、確かにいまの僕はちょっと元気をなくしているかもしれない。
ただ、そんなに心配してもらうほどのことじゃないんだ。
奏さんがどうして文芸部をやめてしまったのか、それが少し気がかりなだけ。
彼女の詩集、『光風の伝言』の結びの一節。
『信じる心 夢見る気持ち 小さな手のひら 手放さないで』
真っ直ぐに未来へ瞳を向けた彼女の凛とした姿が目に浮かぶ。
それなのに、どうしてだろう。
彼女は、もしかしたら手放してしまったのだろうか。
信じる心も、夢見る気持ちも。
「歩先輩、茶道部と華道部の取材、終わりましたっ」
「こっちもっ、サッカー部と卓球部、終わりましたっ」
テレホンサービス用の部活動紹介の取材は、一週間というハードスケジュールながらもみんなの協力のおかげで順調に進んでいた。
特に、あの作戦会議に途中参加してきたワッピこと中村咲美くんはめちゃくちゃヤル気で、自らデンスケを担いで体育部の部室を飛び回っている。
たぶん、大好きな野球部の先輩へのアピールなんだろう。実に微笑ましい。
しかし、こちらは微笑ましさの欠片もない。
「じゃ、次、僕行ってくるから、そのデンスケ貸して」
ずいぶん抵抗したが、結局、吹奏楽部の取材は僕がやらされることになってしまった。
彼女たちいわく、『栞のために行ってやれ』とのこと。
なんで栞のためなんだとさらに抵抗したが、まったく取り付く島無し。
なんでも、栞は僕のことが好きなんだそうだ。
そんなこと、栞が言うはずないから、きっとみんなの勝手な想像。
違うんだ。みんな。あいつは昔からああなんだ。
遠慮なしに距離も近いし、僕を暇つぶしの道具みたいに思っている節がある。
そう言ってかなり抵抗したんだけど、乙女心を分かっていない僕が悪いと言われて、結局、このありさま。
まぁ、女子多数の放送部でうまくやっていくためには、このテの女子のノリを甘んじて受け入れざるを得ないときが少なからずあるから、仕方ない。
しかし、吹奏楽部部長の栞を相手にインタビューをするなんて、どんな悪ふざけをされるか……。
「NBCテレホンサービス、今日の部活動紹介は吹奏楽部です。紹介をしてくれるのは部長の、三年一〇組、藤田栞さんです。ではまず、吹奏楽部の人数を教えてください」
パイプ椅子に脱力しつつ腰掛けて、渋々とマイクを差し出す。
同じくパイプ椅子に浅く腰掛けた栞は、ちょっとかしこまって肩をすくませている。
「えっと……、はい。あたしたち吹奏楽部は四十六人? ……で活動しています。男子が七人で、あとはぜんぶ女子です」
「男子は少ないんですね。では活動内容を簡単に教えてください」
「えっと……、主な活動は入学式や卒業式なんかでの校歌演奏や、夏の吹奏楽コンクールへのしゅちゅじょ……ん、んんっ、しゅ……、しゅちゅじょうなどで……、えっと、それから……文化祭では――」
「はい、カット」
「えーっ?」
「えー、じゃない。何回やったらいいのさ」
「もー、言えないのよ!」
苦笑いの吹奏楽部の面々。
音を出さずにじっとインタビューの様子を眺めている他の部員たちが、栞のあまりの噛みように乾いた笑みを浮かべている。
「自分の部活の紹介だよ? なんで人数答えるのに疑問形なのさ。それに『えっと』も多い。だいたい、言えない原稿を考えてくること自体がおかしいだろ」
「ええっと、こ、これはっ、副部長が考えてくれたのっ!」
「なんで自分で考えないんだよ。どうしていつもそうなんだ。もっと真剣に――」
「あああ、あたしは真剣よ? ただ、そのっ、文章作るのがちょっと……」
「はぁ……、あーあ、さっすが、理数科さまだな」
ムッとする栞。
なんだよ、その顔。事実を言ったまでだろ。
「ふん。あっくんはいいよねー。文章書くの得意だし、いっつもなんか夢みたいなことばっか書いてるし」
「何それ。なんか文句あんの?」
栞が、ふんっと鼻を鳴らしてマイクと反対のほうを向く。
「別にぃー。そりゃ、こんな理数系の計算女子より、文芸やってるようなお星さまな少女のほうがいいよねー?」
「何が言いたいんだよ」
「よほどお星さまが好きなんだろうなーって」
「バカにしてるの?」
思わず出た低い声。
眉間にシワが寄る。
その僕の顔が気に入らなかったのか、栞はバッとこちらを振り向いて顔を近づけた。
「何? その顔。バカになんてしてないよ? そうだなー、あたしも詩でも書いてみるかなぁー、お星さま少女が書くみたいなキラッキラの――」
「――いい加減にしろっ!」
ガチャン!
音楽室に響いた、パイプ椅子がひっくり返った音。
向こうで小声で話していた吹奏楽部の面々が一斉にこちらを振り向いた。
立ち上がった僕を、栞がポカンとして見上げている。
僕は、ギュッとマイクを握りしめて、ギリリと奥歯を噛んで栞を見下ろした。
「お前がバカにしているのは僕のことじゃないんだろう?」
「な、何よ。そんなにマジになんなくていいじゃん。冗談よ? 冗談」
「悪いが、こんなにも価値観が違うとは思わなかった。取材はあとで別の部員にさせる」
「え? いや、そんなつもりじゃ――」
「練習の邪魔して悪かったな」
「あ、あの、あっくん!」
どうしても我慢できなかった。
いつもの栞の悪ふざけであることは、頭では充分に分かっている。
でも、我慢できなかったんだ。
僕が奏さんを想っていることが、そんなにも滑稽なのか。
栞だけじゃない。
みんな、みんな、そうだ。
激しく開け放った音楽室の扉。
背後で栞が何か叫んだのが聞こえた。
もう、あいつと話すことは何もない。
たぶん、もう二度と話すこともないだろう。
そんなことを思いながら、喉を突く怒鳴り散らしたい気持ちを必死で飲み込んで、僕は放送室へと戻ったんだ。
「年末にピロティーで流す、『今年の重大ニュース・トップテン』のビデオって、もう準備を始めないとダメじゃないですか?」
「は? まだ六月ですけど」
半開きになったスタジオの扉の向こうから聞こえた、二年生の女の子たちの話し声。
僕は、収まらない怒りをふつふつとさせつつ、その隣のミキサールームの扉の前で立ち尽くした。
「いやぁ、『もう』六月ですよ。ネタ集め始めないと、編集に使う素材が集まらないかと」
「まぁ、あんまり慌てなくてもいいんじゃない? もうトップニュースは決まってるし。なんといっても、今年はニュー元号、『平成』の話題でお腹いっぱいよ」
「あー、確かに。まさか生きているうちに時代が変わるとはねぇ」
ダメだ。
まだ収まらない。
みんなに気づかれないように、そっとミキサールームの扉を開ける。
「何それ、なんかお婆ちゃんみたいな言い方ね。あ……、歩先輩、お帰りなさーい。早かったですね」
「歩先輩、どうでしたー? 吹奏楽部のインタビュー。栞先輩と仲良く――」
思わず、立ち止まった。
スタジオから、ガラス越しに僕にかけられた言葉。
栞が?
栞がなんだって?
「みんな、うるさいぞっ! インタビューの音声編集は終わったのかっ?」
思わず出た、僕らしくない怒号。
スタジオのみんなが固まっている。
僕は乱暴に調整卓の椅子を引くと、それからガシャンと音を立ててそこに座った。
そして、デンスケから栞の声が入ったカセットテープを掴み出し、これでもかと壁へ投げつけた。
「なんだって言うんだ!」
ミキサールームに響いた、ガチャンという不愉快な音。
調整卓の横では、ビデオ編集用パソコンのMSXⅡの画面がジリジリと小さなノイズを立てていた。
時間が止まったような静寂。
その静寂から浮き立って響いた、コツッ、コツッという窓ガラスの振動。
雨だ。
程なく、その振動は低い連続音となって、窓の外はみるみるうちに降りしきる雫で真っ白になった。
「あのう……、外に栞先輩が来てますけど」
おずおずとミキサールームを覗き込んだ二年生の子が、雨音を背景にボソリとそう言った。
何しに来たんだ。
僕は椅子をくるりと回して、彼女に背を向けた。
小さく聞こえた、扉が閉まる音。
その後、栞がどうしたのかは知らない。
たぶん、二年生の子から僕の様子を聞いて、そのまま音楽室に戻ったんだろう。
自分でも、なぜこんなにも激しい怒りを感じたのか分からない。
栞の悪ふざけには慣れているつもりだったのに。
少し落ち着こう。
もう少しで部活も終わる時間だ。
スタジオでは、みんながテスト中みたいに静かにしている。
部長の橋本くんは今日も来ていない。
将来、弁護士になる夢を叶えるためだろうか、我が校レベルでは少々難しい国立大学を目指して、三年生になってから塾通いをしているらしい。
しばらくして、雨は小降りになった。
その様子を眺めて少し気分が落ち着いた僕は、スタジオに居るみんなに謝ろうと椅子から立ち上がった。
そのときだ。
ドドンと大砲のような音を立てて開け放たれたミキサールームの扉。
「はっはっはー! もぉー、話しちゃった! タッくん先輩と話しちゃったー!」
大声と一緒にドカドカと足音をさせながら入って来たのは、例のワッピこと、中村咲美くん。
デンスケに繋がったダイナミックマイクをブンブン振って、ケーブルをちぎれんばかりに振り回している。
「歩先輩っ! もー、聞いてくださいよー!」
そして、防音ガラスの向こうに見えたのは、いーっと頬を引きつらせた二年生の面々の顔。
「や……、やあ、ワッピ」
「もうですねー。アタシ、死にそうな目に遭ったのですよぉー。野球部のとある先輩がですねぇ――」
ワッピがそう言って、僕の隣に腰掛けようとした瞬間。
「――アタシの声が可愛いって言って……、ぎゃっ! ななっ、何をするのですかっ!」
ワッピの背後から飛びかかったのは、スタジオから駆け込んできた二年生の子たち。
「うぎゃぁぁぁ!」
「ワッピっ、大人しくしなさいっ!」
「いまダメなのっ!」
そして彼女たちはずいぶん荒々しくワッピを羽交い絞めにすると、あっという間にミキサールームから引きずり出し、さらに放送室の外へと連行していった。
ずっと向こうで、ワッピの断末魔のような声がしている。
その声が聞こえなくなると、急に肩に何か重たいものがのしかかった。
自己嫌悪。
また、みんなに気を遣わせてしまった。
もう十七歳だというのに、まるで小さな子どものような自分がイヤになる。
でも、あの抑えられなかった怒りは子どものような気持ちで感じたものじゃないって……、この胸が張り裂けそうな彼女への気持ちは絶対に本物だって……、僕はこのとき、そう強く強く思ったんだ。