1-2 消えた文芸部
高校三年生 六月
奏さんと同じクラスになって二か月が過ぎたけど、僕はまだひと言も彼女と言葉を交わせていない。
もしかしたら、彼女はあのときの僕のことを覚えていないのかもしれないって、最近はそんなふうに思うようになった。
先週末は、生徒会長選挙があった。
ちょうど一年前、新生徒会長にはならず、新執行部にも残らずに次の執行部に仕事を引き継いだのが、まるで昨日のよう。
僕のあとを引き受けて新執行部になった人たちは、もしかしたら逃げるようにして去った僕を軽蔑しているかもしれない。
生徒会長選挙が終わると、七月初めの期末考査が始まるまで行事らしい行事はない。
たぶんいまが、一番みんなゆっくりできる期間。
二学期になると、九月の体育大会、一〇月の中間考査と続き、十一月は文化祭と期末考査といった感じで慌ただしく行事が連続する。
三学期は、受験だの卒業だのであっという間だろうし。
「おー、宮本くん、ちょうどよかった。いまいいかな」
梅雨入り間近の月曜日。
放課後になって放送室へ向かう途中、廊下で僕を呼び止めたのは、そのとっても優しい声。
数学科主任の川上先生だ。堅い教科の割に、物腰は柔らかい。
いつも優しい笑顔のこの先生は、なんと、我が放送部の顧問であり、そして僕らの最大の理解者。
しかも、いままでに数々の高校の放送部を、NHK杯全国高校放送コンテストの全国大会へ連れて行った、それはそれはすごい先生だ。
いや、我が校はまだだけどね。
「はい。なんですか?」
「いやぁ、ちょっと頼みがあってね」
そう言って川上先生がワイシャツのポケットから取り出したのは、折れ曲がってヨレヨレになった一枚のプリント。
「制作でしょうか?」
「うん。校長先生からの提案なんだけど、みんながやってくれてる『テレホンサービス』の番組のことでね?」
テレホンサービスは、川上先生の発案で始まった、我が校独自の電話広報サービスだ。
学校外から特定の番号に電話をかけると、ミキサールームに設置されている専用の機械が自動応答するようになっていて、校内行事や各種大会の結果など学校の日常的な情報を聴くことができるという、かなりハイテクなサービス。
プリントの見出しは、『テレホンサービス部活動紹介』となっている。
「うわ、なんですか、これ。ずいぶん細かい指示ですね」
「ちょうどいま学校を盛り上げる話題がないから、この間にテレホンサービスで各部活動を紹介する番組をやってくれないかって、校長先生が」
「また、校長先生ですか。この前も……、いや、でもなんで僕に言うんですか? 部長の橋本くんに言えばいいのに」
「いやぁ、彼は難しいからなぁ」
橋本くんの名前を出した途端、眉をハの字にした川上先生。
我が放送部の部長である橋本くんは、ひと言で言うと、『かなりの独自世界を展開している大物』だ。
ギター好きで、アコースティックギターを習いに行ったけど『教える熱意が足りない』と講師とケンカしたり、英語の時間に先生の発音が悪いと自ら手本を示して抗議をしたりする、まぁ、一生懸命が行き過ぎてトラブルを起こす典型といった感じ。
将来は弁護士になりたいらしい。
うちの高校の学力じゃ、弁護士はちょっとムリだと思うんだけど。
「いや、橋本くんには話したんだよ? でも、『部活紹介はビデオでやるべき!』って、にべもなく一蹴されてねぇ……。で、宮本くん、これ、やってくれないかな」
「いいんですか? 部長無視で」
「まぁ、その、彼は難しいから」
「あはは」
たぶん、このとき僕の顔は思い切り緩んでいたに違いない。
なぜなら、これを口実にして文芸部の奏さんに話しかけることができるって、そんなことを考えていたから。
「歩先輩、これって時間ないんですよね。急いで取りかかりましょう」
早速、部員のみんなにこのことを話すと、二年生の女の子たちが快く助手に名乗りを挙げてくれた。
「うん。効率よく取材ができるように、各部長にインタビュー内容を事前に知らせておいて、あらかじめ回答を作っておいてもらおうと思うんだ」
「インタビューの収録は音だけでいいですか?」
「そうだね。『デンスケ』だけでいこう」
何やら江戸時代の名前みたいな名称だけど、この『デンスケ』っていうのは、こういう取材で使う肩掛けの携帯用カセットテープレコーダーの愛称。
僕らが付けた愛称じゃなくて、放送業界で一般的に使われているもの。なぜそう呼ばれているかは分からないらしい。
「歩先輩、デンスケは三台あるんで手分けしましょうか。早くしないと期末考査期間になっちゃいます」
「うん。じゃ、文化部と体育部で分けるかな。スケジュールは――」
「はい! はい! はい! アタシっ、取材行きたいんでありますっ! ややや、野球部に立候補するのですっ!」
「うわっ、びっくりした」
二年生の女の子たちを押しのけて僕の前に突然飛び出したのは、スタジオの端っこでこれを聞いていた一年生の彼女。
中学時代も放送部をやっていた期待の新人、中村咲美くんだ。
ちっちゃくて、ちょっとクルッとした可愛いショートカットの彼女。とにかくいつも元気いっぱいで可愛らしい。
「なんだ、ワッピか。野球部って、また、タッくん先輩?」
「そぉーでありますよぉー」
とあるアニメの『わぴこ』という女の子キャラに感じがそっくりなので、入部当初は、『ワピちゃん』とか、『ワピコちゃん』って呼ばれてたんだけど、最近はみんな『ワッピ』って呼んでる。
「ワッピ、遊びじゃないぞ? 取材なんだから」
「分かっているのですぅ。でも、タッくん先輩ってばちょーカッコイイので、ちょっとだけ取材を忘れてしまうかもであります。はい」
「ダメじゃん」
ここ数年、世の女の子たちは口癖みたいにこの『ちょー○○』を連発するようになった。
日本語の乱れに憂いを感じている僕としては、どうも耳障りでしょうがない。
この『ちょー』を連呼してしゃべるタレントがテレビに出ていると、思わずチャンネルを変えたくなってしまう。
こんなに『ちょー』を強調するんだったら、そのうちNHKだって台風情報で『ちょーおおがたぁーの、たいふう?』みたいな言い方しちゃうんじゃないかと心配してしまう。
「あのね? ワッピ。取材っていうのは――」
「そぉぉーだっ! 歩先輩っ! みんな意中の人が居る部活の取材を担当するのはどうでありますかっ? そうしたらみんな楽しいですしっ! 張り切れますしっ!」
「いや、ワッピ……、あのね? 取材というのは――」
「はっはっはー! そうしたら、歩先輩の担当はもう決定なのでありますっ!」
「え? 決定? なんだよそれ」
「歩先輩は吹奏楽部の取材担当に決定なのです!」
彼女が放った言葉は、僕の脳に染み渡るのに少し時間がかかった。なんで僕が吹奏楽部の取材担当に決定なの?
「は?」
意味が分からない。
ワッピがきょとんとしている。
一瞬、ザワっとしたスタジオ。さっき制作補助に名乗りを挙げてくれた二年生の女の子たちが、ちょっと苦い顔をして固まっている。
「むむむ? 二年の先輩方も言ってあげるのです! 歩先輩っ! 遠慮しなくていいのでありますよぉー。吹奏楽部には歩先輩の最愛の人、藤田栞先輩が居るではないですかぁ!」
「は?」
なぜか凍り付いた、スタジオの空気。
栞?
僕は一度も栞を恋愛対象として見たことはない。
それどころか、そろそろ幼馴染みを卒業して袂を分かたなければと考えているほどなんだが。
「栞はそんなんじゃないぞ?」
「はっはっはー! いまさら隠さなくていいのでありますっ! 栞先輩ってば、いっつも部活終わりに歩先輩を迎えに来るではありませんか」
「いや、ただ近所ってだけだし」
「さらにわざわざ放送室にお弁当食べに来ますし、しかもー、歩先輩の隣にぴたーっとくっついて食べてますしぃ?」
「僕は来るなって言ってるんだ。それにくっついているんじゃなくて、ミキサールームが狭いだけだろ? 変な勘違いは迷惑――」
僕がそう言って身を乗り出したところで、二年生の女の子が突然ワッピの腕を引っ張った。
「ワッピっ! 違うのっ! 歩先輩の意中の人はっ――」
「何をするのでありますかっ! こういうことはハッキリ、ガツンと言わないといけないのでありますっ! 歩先輩っ!」
僕と栞はそんなんじゃない。
僕が本当に好きなのは――。
「あのね、変な勘違いしないでくれないか?」
「勘違いなどしておりませんっ! 正直に言うのでありますっ!」
「うるさいなっ! 僕が本当に取材したいのはっ……」
「おおっ? 取材したいのはっ?」
「文芸部っ!」
「はぁ? 文芸部ぅ?」
一瞬、時間が止まる。
「そうっ! ぶんげ……いぶの……、野元……、奏さん……」
つい……、口走ってしまった。
ワッピがポカンと口を開けている。
二年生の子たちは、なんとも言えない……、苦笑い。
ワッピの腕を掴んでいる二年生の女の子が、呆れたような溜息をついた。
「はぁ……、ワッピ、その栞先輩&野元先輩ネタは放送部ではタブーなのよ」
なんだよ、タブーって。
「なんと、そ、それは本当なのでありますかっ? 歩先輩が、ののの、野元先輩を……」
うわ……、すごい顔。
二年の女の子も、すごい顔。
「はぁ……、そうなのよ。残念なのよ。歩先輩ってば、好きらしいのよ。あの美人が」
なんなの? その反応。
いや、それより、なんでみんな僕が奏さんのこと好きだって知ってるのさ。
憐れみいっぱいの表情で僕を見上げるワッピ。
そんな顔するな。
「そうですかぁ。歩先輩は……、あの美人が好きなのでありますね……。アタシはあの人は嫌いですけど、先輩のことは応援するのであります」
いえ、応援してもらわなくて結構です。
僕も思わず溜息をつくと、さらに大きな溜息をついた二年生の女の子が、何やら申し訳なさそうに口を開いた。
「やっぱり、歩先輩、気づいてないんですね。そのプリント、もう一度よく見てください」
「え? プリント?」
「はい。今年の春、二年生になって文芸部に入ろうって思った友だちが居たんですけど……、部活動一覧には文芸部が載っていなかったらしくて」
文芸部が、載ってない?
僕は、さっき川上先生からもらったプリントをポケットから取り出すと、もう一度スケジュールの部分を上から順に確認した。
「ない……、ほんとだ……。文芸部が……ない」
「でしょう? なんか、もう廃部になってるみたいなんです」
「廃部っ?」
衝撃だった。
一年生のときの、文化祭での文芸部展示。
僕は、あのときから今日まで、奏さんの文芸部はずっと変わらず活動しているものとばかり思っていた。
みんなが眉をハの字にして、僕を囲んで溜息をついている。
なぜだろう。
なぜ、彼女はやめてしまったんだ。
喉の奥に、その言葉が何度もむせるように込み上げた。
僕は、もう一度食い入るようにプリントを見た。
でも、何度そのプリントを確認しても、奏さんが心を尽くして頑張っていたあの『文芸部』の名前は、その紙面のどこにもなかったんだ。