1-1 春風に揺れた黒髪
高校三年生 四月
「だーかーらー、もう聞き飽きたの!」
高校生活最後の一年、その始まりを告げるベルは春らしい暖かなまどろみの中で響き渡った。
今日は、三年生一学期の始業式。
もう慣れっこになってしまった始業式と学期始めのホームルームはあっという間に終わって、いまはもうお昼休み。
午後からは新入生のオリエンテーションなどが予定されているので、二年生、三年生はそれぞれの部活や委員会に散って勧誘や説明会の準備に追われている。
僕ら放送部も勧誘があるから、現在、バタバタとお弁当を口に運んでいるところだ。
それなのに、ほんと忙しいときに限ってこいつはいつも邪魔をする。
「その子の話、もう何回目?」
ちょっと恨めしい感を出した僕の横で、頬にご飯つぶをつけて息巻く栞。
こら、箸を向けるな。
ここは、『放送室』の中の一室、『ミキサールーム』。
『放送室』の入口はひとつだけど、中へ入るとコの字型になった三つの扉が僕らを迎える。
右が『視聴覚室』、左が『スタジオ』。
そして、それらふたつの間にあって、その両方をガラス越しに覗けるようになっているのが、僕ら放送部上級生の憩いの場、『ミキサールーム』だ。
当然、憩っていいのは放送部上級生の僕らだけのはずなのに、なぜかいつも吹奏楽部のこいつもここで憩っている。
「栞、声が大きいよ? ほら、女の子がそんなに下品じゃダメじゃん。ほっぺたにご飯つぶついてるし」
「うるさいわね。つけてるのよ。こうやって食べたほうが美味しいの!」
「はぁ……、そうですか」
僕と栞は、小学生のときからの腐れ縁。小学四年生の秋に栞の一家が隣へ引っ越してきて、それからの付合い。しかも五年生から中学校三年までずっと同じクラス。
比べたら悪いが、栞は奏さんとまったく違うタイプ。おしとやかな感じの奏さんとは似ても似つかない、とにかく元気の塊だ。
美しい長い黒髪が印象的な奏さんに対し、栞の髪型は聖子ちゃんカットをもっと短くパラパラっとしたような感じで、なんというか、すごく活動的。たまに寝ぐせでさらに躍動感が増す。
同じ制服を着ているのに、なんでこんなにも奏さんと違うんだろうか。
「あっくん? また突然なんでその子の話なのよ。一年の文化祭のときに展示を見に行って、その子が書いた詩集にすごく感動したってんでしょ? 栞さんは聞き飽きました」
「まだ彼女の名前を出しただけじゃないか。いや、実はさ――」
「あのねぇ、その彼女、相当嫌われてるの知ってる? 愛想もないし、発言も冷淡みたいだし。結構有名よ?」
「本当は違うのに。みんな、あの詩集を読んだら彼女が本当はそんな子じゃないって分かるんだけど」
「はぁ……、どこまでお花畑なのよ、あんたって」
そう言いながら、僕に向かって突き出していた箸をガチャリと置いて、購買で買ってきた缶のウーロン茶をグビグビとあおる栞。
もうちょっと女らしくできないものかね。
ミキサールームからガラス越しに見えるスタジオでは、栞と違うとっても女の子らしい二年生の放送部女子たちが、きゃっきゃと笑いながらお弁当を食べている。
ふと、そのうちのひとりがいい笑顔で振り返って、ガラス越しに僕へ手を振った。
「副部長ぉー、十二時四十五分になったら体育館集合の放送かけてくれって言ってましたよー。川上先生がぁー」
「はーい。りょーうかーい」
実は、僕はこの放送部の副部長。
去年、二年生の五月、一年生のときからずっと悩まされた文化委員長の任期がもうすぐ終わるというころ、僕は生徒会執行部顧問の富永先生から「次期生徒会で生徒会長になれ」と言われた。
実は、これが唯一の一年生として僕が執行部に入れられた理由。
たまたまそのときの執行部に名乗りを上げたのが二年生ばかりで、さらに次の執行部へ人材を繋ぐために一年生を入れなければということになって、なぜか僕が誘われたんだ。
それも、その『次の執行部へ繋ぐ人材』という部分を伏せて。
まぁ、あんまり深く考えずに、文化系の催しは嫌いじゃないし、みんなの役に立てる仕事ならちょっとくらいやってもいいかなぁなんて思ってOKしたんだけど、新執行部が始動しだして「しまった」って思った。
でも僕は、生徒会長にはならなかった。
それどころか、執行部にすら残らなかった。
何度も富永先生から説得を受けたけど、実は僕にはもっと他にやりたいことがあったんだ。
それは、いま毎日楽しく活動している、この『放送部』。
元々、小説を書いたり、劇や番組の脚本を書いたりするのが好きだった僕は、中学のときから放送部に興味があった。
おぼろげに、将来は放送作家みたいな物書きの仕事ができたらいいななんて思いながら。
だから僕は、次期生徒会長候補としてかけられていたすべての期待を裏切って、念願の放送部に入ったんだ。
「ところでさぁ、栞は吹奏楽部の部長なんだろ? なんで放送室でメシ食ってんのさ。吹奏楽部もオリエンテーションの準備で忙しいだろうに」
「うふふ、お昼はここで食べるって決めてるの」
「勝手に決めるな」
栞は吹奏楽部だ。トランペットを吹いている。
ほんと、いつも堂々としていて何をするにもカッコイイ。
実は、僕も中学のときは栞と一緒に吹奏楽をやっていた。と、いうより栞に無理やりやらされていたって感じだけど。
「もーう、いいじゃん。音楽室寒いしぃ、二年の時もずっと来てたし。それにぃー、あっくんとぉー、一緒に食べたら美味しいしぃー?」
「そんな可愛い子ぶってもダメ。あのさ、その『あっくん』はたいがいでやめてくれないかな」
「えー? あっくんはあっくんじゃん」
「んんっ、とにかく今日から放送室は部外者立ち入り禁止」
「はいはい、なんか三年生になったら急に堅苦しくなったね。ほらほら、あっくんも早くお弁当食べないと、オリエンテーションの準備の時間がなくなっちゃうよ?」
まさに暖簾に腕押しとはこのことだ。いつも、どう抵抗しても効果がない。
「ふん。準備の時間が迫っているのは吹奏楽部だって同じだろうに。はぁ……、彼女の名前を出しただけで、なんでこんなに脱線するんだよ」
そう言って立ち上がろうとすると、栞が箸で僕のシャツを掴んだ。
「あーもう、はいはいはい! 聞けばいいんでしょっ? いいわよっ。聞いてあげるわよっ。話しなさいよっ!」
「うわっ、危なっ。大きな声出すなよ。いや……、大した話じゃないんだけどさ――」
そう言いながらもう一度腰を下ろした僕を見て、ぎゅっと眉を寄せて目線を外した栞。
続いてグサッと箸がお弁当に突き刺さって、グワッと大きなご飯の塊が栞の口に押し込まれる。
なんだよ、そのヤケ食いみたいな食べ方は。
「――ほんと大したことじゃないんだけど、実は……、今回のクラス替えでさ、僕、なんと彼女と一緒のクラスになったんだよ」
その瞬間、なぜか栞がピタッと動きを止めた。
大きな口の直前では、次に放り込まれるのを待っていた山盛りのご飯が箸の上で静止している。
「えっと……、栞……?」
なんだと思ってその顔を覗き見上げると、次の瞬間、その山盛りご飯の塊が音もなく弁当箱の上にボロッと落ちた。
「な、な、なんですとぉ? いい、一緒のクラスって、一緒のクラスってことっ?」
「いや、意味分かんないし。一緒のクラスって言ったら一緒のクラスだろ」
「はぁ?」
慌ただしくひったくられるウーロン茶の缶。
「ぷはっ! こっちこそ意味分かんないしっ!」
「うわっ、つば飛ばすな!」
思わずのけ反って栞のしぶきをかわす。
ほんと、下品なやつ。
仕方なくポケットティッシュをそっと差し出した。
「いや、だからね? 普通科はまたクラス替えがあって、『文系』だった彼女が『理系A』に来てさ、僕と同じクラスになったんだよ」
「ええっ? 三年でもクラス替えがあったのっ?」
栞は理数科だ。僕よりはるかに頭がいい。
僕の高校は一学年一〇クラスで、どの学年も一組から九組が普通科、そして一〇組だけが理数科になっている。
理数科は優秀な頭脳を持つ生徒が集められた特別扱いの我が校のホープ集団。そして、ひとクラスだから当然、三年間クラス替えがない。
それに対して、普通科は学年が変わるときに進路希望に合わせたコース選択をやるから、進級のたびにクラス替えがある。
二年生のとき奏さんが居た『文系』は、文系国立大学を目指すコース。
僕の『理系A』は、文系私立大学や看護婦さんなどを目指す、『文系』と純理系の『理系B』との中間のコースだ。
目指す大学が変わったのか、それともまったく別の進路を目指すことにしたのか、その理由は分からないけど、奏さんは『文系』から僕と同じ『理系A』へとやってきたんだ。
今朝、クラス替えの掲示板を見ていたときに、なぜか廊下で彼女を見かけた。
これは新学期からツイているなんて思っていたら、今度は教室に入ってビックリ。
僕の席は窓側から二列目の一番後ろ。
そして、その左斜め前の一番窓側の席にあったのは……、あの美しい黒髪の後ろ姿。
一瞬、意識が飛びかけたけど、僕はすぐに再び掲示板へと走った。
もう一度よく確認して見つけたのは、僕と同じ『三年六組』の一覧に記された、『野元奏』という名前。
夢じゃない。
今日から卒業まで同じ教室で彼女と過ごせるんだって、胸が躍った。
「――で、それをあたしに言ってどうする気なのよ」
ハッと我に返ると、そこにはジトリと半眼で睨む栞の顔。
「うわ、い、いや、別にどうする気もないけど……。単なる世間話として話しただけさ。なんでそんなに怒るんだよ」
「いやぁー……、怒ってはないけどさ、ちょっと呆れてんの。どうしてあんな子がいいのかって思って」
「たぶん、栞にはずっと彼女のことは分からないだろうね」
「ふん」
突然、ガチャリと箸を置いた栞。
そして、食べかけの弁当をずいぶん乱暴に蓋を閉めて巾着袋に押し込み始めた。
「何をそんなに怒ってんのさ」
「怒ってなんかない! あのさ、あっくん、あたしが一緒に理数科を受験しようって言ったときも、高校でも一緒に吹奏楽やろうって誘ったときも、結局、ぜんぶ無視したよね」
「え? 僕は無視したつもりはないけど」
僕が少々眉根を寄せると、それを見た栞は「あっそ」っと言いながらドンと床を蹴って立ち上がった。
「栞?」
「無視したもん。そして、今度はあんな子はやめたほうがいいっていう忠告も無視するんだ」
「なんだよそれ」
「あーあ、なんかしらけちゃった。部活行ってこよ。今日は一緒に帰らないから。じゃ」
「あの」
乱暴にサブバッグを抱え上げて、ドカドカとミキサールームを出てゆく栞。
ドドンと押し開けられた扉が、栞の背中を隠すようにゆっくりと閉まる。
なんなんだ。
「歩先輩っ!」
「うわっ」
突然、再び開いた扉の向こうで二年生の女の子が眉を上げて大きな声を出した。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのじゃありませんっ! もうちょっと乙女心を気にしてあげてくださいっ!」
「乙女心? 誰の?」
「栞先輩のですっ! かわいそうじゃないですか!」
「かわいそう? なんでさ」
栞の乙女心を気にしろって言うんなら、僕の純情だって気にしてほしいもんだ。
「はぁ……、もういいです」
これでもかと深い溜息をついて、げんなりとスタジオへ戻った彼女。
いままで栞が居て賑やかだったミキサールームは、まるで真夜中のようにしんとなった。
そして僕は、「ふん」なんて言いながら乱暴に弁当箱を手に取ったものの、なかなかその蓋を開ける気分になれずに、それからしばらく栞が『あんな子』と評した彼女のことを思い出していた。
『宮本歩です。二年六組でした。放送部です』
そう自己紹介したあと、僕は左前の長く美しい黒髪の後ろ姿にチラリと目をやって、それからちょっと上品に腰を下ろした。
左前の窓際の席。
そこに、あの彼女が座っていた。
彼女の肩越しに見えた、春らしいまどろみの中の緑の息吹。
窓には、頬づえをついた彼女の横顔が、その向こうの柔らかな陽光のシャワーを背景にしてふわりと映っていた。
溜息が出るほどの、その綺麗な横顔。
あの一年生の一〇月、生徒会室を訪れた彼女と出会って以来、僕はずっと彼女の後ろ姿を静かに追ってきた。
彼女が僕のところへ展示希望を出しに来た、あの一年生のときの文芸部文化祭展示。
そこで僕は、もう一度だけ彼女と言葉を交わした。
『お邪魔します』
『え? あ、文化委員長。視察かしら』
『まぁ、そんなところ』
いろいろ考えたけど、三年生はどこもクラス展示をやらないことになっていたので、僕は彼女の文芸部の展示場所を、一番陽のあたる三年一組にした。
三年棟の最上階、三階の一番奥で中央階段からも離れているから、教室の前を談笑しながら往来する人もほとんど居ない。
そして、隣の三年二組には新聞部、直下二階の三年五組には写真部と、音を出したり大声で呼び込みをしたりしない部活を割り当てて、クイズ研究会などの騒がしいものはできる限り特別棟のコミュニティルームへ配置した。
『そう。それにしても……、ずいぶん寂しいところにしてくれたわね』
ニコリともせず、彼女が放った冷ややかな言葉。
『ごめん』
そう言って僕は思わず下を向いた。
やっぱりもう少し中央廊下に近い教室のほうが良かったかな……なんて思いながら。
すると彼女は、その僕の顔を覗き見上げるようにして、ちょっとだけ口角を上げた。
『でもまぁ、私が願っている人だけ来てくれればいいから』
机の上に積み重ねられていた、詩集の小冊子。
彼女はその一番上の一冊を手に取って、そっと僕に差し出した。
『ありがとう』
そう言って、僕を真っ直ぐに見つめた瞳。
吸い込まれそう。
そしてその瞳がほんの少しゆらりとすると、すぐにとても優しい柑橘系の香りがふわりと香った。
薄緑の表紙。
『詩集 光風の伝言』
そう題された、とても端正な小冊子。
彼女がひとりで書いたのだろうか。
彼女が言った「ありがとう」が、何に対してだったのかは分からない。
でも、僕は嬉しかった。
そして、どうしてもその嬉しさが抑えきれずに、僕はその場でその小冊子を開いた。
作者本人の目の前で少々不躾だとは思ったけど、僕はどうしてもすぐにその詩集を読みたくて、その場で立ったまま冊子を開いたんだ。
ちょっと目を丸くした彼女は最初は茫然と立っていたけど、そのうちそっぽを向いて椅子に座った。
しんとした教室。
廊下のずっと向こうで、女の子たちの談笑がかすかに聞こえている。
どれくらいそうしていただろう。
無心で追った、彼女が綴った仁愛に溢れた数々の言葉たち。
息が苦しい。
『感動』という言葉があまりにも陳腐に聞こえるほどの、例えようのない胸の高鳴り。
生まれて初めての感覚だった。
そうして、本当にあっという間に、彼女の言葉たちは僕の胸をいっぱいにしてしまったんだ。
『本当はすごく優しいんだね』
いま思えば、どうしてそんなことを言ってしまったのか分からない。
でも、あのとき率直にそう思った。
僕がそう言って詩集をそっと閉じると、彼女はハッと息を飲んで膝の上のスカートを両手でキュッと握った。
『知ったようなことを……、言わないで欲しいわ』
もしかしたら、馬鹿にしたように聞こえたのかもしれない。
彼女は小さな声でそう言って、窓のほうへ顔を向けてしまった。
それ以来、僕は彼女と言葉を交わしたことがない。
どういうわけか、二年生の文化祭では文芸部の展示はなかった。
彼女はいまも詩を書いているのだろうか。
『野元奏。元、二年九組』
クラス替えの自己紹介だというのに、彼女はそれだけ言うと、長く美しい黒髪をサッと後ろに払って着席した。
ほんの少しざわついた教室。
そして、すぐに周囲が元の静寂を取り戻すと、彼女はまた頬づえをついて、その横顔を映す春色のガラスの向こうへと視線を投げたんだ。