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光風の伝言  作者: 聖いつき
エピローグ
18/19

エピローグ  再会

     高校三年生  一月


「あっくん、おはよう! 早く乗って。雪が降り込んじゃう」

「うん。あ、おばさんおはようございます。よろしくお願いします」

 車で送ってくれる栞のお母さんに、僕はいつもよりちょっと大げさに頭を下げた。

 今日はセンター試験の初日だというのに、街は見事な銀世界。

 最初は会場の地元国立大学までバスで行くつもりだったけど、昨日の夜、栞から「どうも大雪になるみたいだから一緒に車で行こう」と電話があった。

 「奏さんは?」と尋ねたけど、何やら奏さんのお母さんとの兼ね合いがいろいろあるらしく、栞も無理には誘えないとのこと。結局、この雪の中、彼女はどうにかして自分で会場を目指すということになったらしい。

 実は、あの年末の太宰府行きの日以来、奏さんとは顔を合わせていない。

 どうもずいぶんと体調が悪いらしくあれからずっと学校を休んだままで、さらにそのまま冬休みになってしまったので、かれこれもうひと月ほど彼女とは会えずにいる。

「奏さん、大丈夫かな。体調はどうなんだろう。栞、聞いてないの?」

「え? あ……、あの、あたしも実は詳しいこと知らなくて。あはは」

「ふぅん」

 でも、さすがに今日と明日はかなり無理をしてでも家を出てくるだろう。将来が決まる大事な決戦の二日間だし。

 そして、僕にとって、もうひとつの決戦の二日間でもある。

 実は、僕はバッグの中に、筆記具や受験票のほかに、会場では絶対に必要のないあるものを忍ばせていた。

 それは、一本のカセットテープ。

 江上くんが作曲して、僕が作詞をした、オリジナルソングが一曲だけ収められている。

 タイトルは、『光風の伝言』。

 奏さんの詩をモチーフに、彼女への僕の想いを紡ぎ込んだ。

 伴奏は江上くんのシンセサイザーがまるで本物のレコードのように演奏してくれているけど、その手前に重なっているのは、僕の拙い歌声だ。

 あの太宰府天満宮からの帰りがけ、僕は江上くんの強引な誘いを断れずに、奏さんたちよりひとつ手前の駅で降りて江上くんの家へ向かった。

 江上くんのお兄さんが車で迎えに来てくれて、それから彼の部屋で何度も何度も歌を歌って。

 まぁ、あの日以降、レコーディングする時間なんてまったく取れなかったので、結果、あのとき彼の強引な誘いに乗って正解だった。

 おかげで、この試験の二日の間に奏さんに渡すことができる。

 卒業式のときに渡そうかとも思ったけど、たぶんその後は顔を合わせる機会がないだろうから、できればこの試験の間に彼女に渡したいって、そう思った。

 実は、僕はもうこのセンター試験をほぼほぼ諦めていた。

 ギリギリまで根詰めて頑張ったけどそれほど実力は伸びず、模試の結果も栞の点数にすらまったく及ばない始末。

 もちろん、もう少しランクを落とせば別の国立大学を目指すこともできる。

 でも、そこには奏さんは居ない。

 だから、今日は奏さんの顔が見られればそれでいいって、そんなふうに思っていた。



「あっくん、帰ろ? お母さんの車、商店街のほうで待ってるよ」

「え? あー、ちょっと用事があるんだ。先に帰っててくれないか? 僕はバスで帰るから」

「試験終わったのに用事があるの? じゃあ、明日の朝も迎えに行くから」

 第一日目の日程が終わったあと、一緒に車で帰ろうという栞の誘いを断って、僕は大学の赤レンガの正門の前で奏さんが会場から出てくるのを待った。

 なぜか栞は、僕の『用事』を詳しく聞かなかった。いつもならしつこく聞いて、事によっては一緒に行くなんて言い出すのに。

 陽が落ちて、足元を吹き抜ける風がいよいよ冷たくなっても、奏さんは現れなかった。

 そのうち、道行く車がヘッドライトを点けはじめて、もう制服を着た受験生が誰も門を通らなくなったので、僕は項垂れてバス停へと向かった。

 もしかして、僕は避けられているのだろうかと、ほんの少しそんなふうにも思った。

 しかし、最後に彼女と過ごした太宰府行きの一日や、別れ際の電車の窓から覗いていた彼女の顔を思い出しても、まったく思い当たる節がない。

 そして、翌日の第二日目の日程のあとも、僕は同じように赤レンガの門の前で待ち続け、そしてバッグの中のカセットテープがぽつんと寂しそうにしているのを確かめて、重い足取りでバスに乗った。



 それから、僕が国立を諦めて本命にした、あの『図書室の幽霊』が有名な私立大学の合格発表が行われても、鉛色の空が少しずつ彩りを取り戻して、卒業のベルが校舎に鳴り響いても、奏さんは僕の前に姿を現さなかった。



 大学では、『放送研究部』というサークルに入った。

 栞は僕が入れなかった地元国立の理学部にあっさり合格して、キャンパスが近い僕の大学へしょっちゅう遊びに来るようになり、高校のときと同じく、僕の放送研究部の常連部外者になった。



 奏さんが東京の大学に通っていることは、それからさらにあとになって栞から聞いた。

 あの太宰府の帰りに駅で奏さんとお母さんが揉めたこと、奏さんがお父さんと一緒に暮らすためにこの街を出て行ったこと、その後しばらくは栞と手紙を送り合っていたけど、お父さんの仕事の関係で引っ越しをしたらしく、いまはどこに居るのか分からなくなってしまったことなど、いろんな話を聞いた。

 そして、彼女が僕に好意を持ってくれていたこと、彼女がその好意を、大好きだったお父さんの姿を僕に重ねていただけの憧れであったと自己完結してしまったことも、栞は泣きながら教えてくれた。

 そうして、僕の初恋は終わったんだ。




     『現在』  十二月


「歩くんね? 私のこと、覚えているかしら」

 他愛ない、日曜日の午後。

 新幹線の高架が見下ろす都市公園の遊歩道で、私は実に懐かしい呼び名で呼び止められた。

 隣を歩いていた学生服姿の息子が、あまりに親し気に呼ばれた父の名に驚いて、思わず足を止めている。

 今日は、この陰鬱な冬雨がしとしとと降る中、春から専門学校へ通いたいという高校三年生の息子の希望により、その説明会に同伴してここへと来た。

 ちょうど雨も上がり、車を停めた立体駐車場へと畳んだ傘を揺らしながら息子と並んで歩いていたとき、小さな水たまりが点々とする石畳の遊歩道で、その聞き覚えのある清楚な声が私を呼び止めたのだ。

 ゆっくりと視線を向けると、そこには美しく長い黒髪を雨上がりの風に揺らす、グレーのコートをまとった女性の姿があった。

 凜とした佇まい、経年をまったく感じさせない若々しい姿の彼女と、品のいい臙脂色のマフラーが一瞬で私を当時へと呼び返した。

「やっぱり歩くんね? 私よ? 野元奏」

 放心する私の腕を、息子が心配そうに小さく突いた。

「父さん?」

「え? あ、ああ」

 我に返るのに、そう時間はかからなかった。

 小さく咳払いをして、コートの襟を直す。

「や、やぁ、ずいぶん久しぶりだね。高校卒業以来? よく僕だって分かったね」

「ええ。だって、あなた全然変わってないもの。そちらは息子さん? 奥さんの若いころにそっくりね」

「そうかな。結婚前の痩せてたころのあいつには似てるかもね。ほら、挨拶は?」

 先程は私を気づかせた息子が、今度は私に促されて小さく頭を下げた。

「キミはまったく変わらないね。高校時代とまったく同じ」

「そうかしら、嬉しいわ。あなたもあのときのまま。とっても素敵よ?」

「あはは、ありがと。ここへは仕事? なんの仕事しているの?」

「そうね。強いて言うなら物書きかしら。企画事務所を経営しているの。イベントやドラマ制作の企画をしたり、ときには脚本を書いたりしているわ。他愛ない仕事よ」

「へぇ、大したもんだ。僕は物書きの仕事は諦めちゃったからね。地元を離れてこの街の公務員になって、それからずっと事務屋だよ」 

 彼女がチラリと腕時計に目をやった。

 ずいぶん懐かしくて、もっといろいろなことを尋ねてみたいが、あまり引き止めると迷惑だろう。「あ、忙しいよね。また今度ゆっくり――」

「ねぇ、歩くん、ちょっと電話していいかしら。せっかくあなたに会ったから」

「え?」

 そう言って彼女はおもむろにスマートフォンをコートのポケットから取り出すと、手慣れた手つきでディスプレイに指を走らせた。

 スピーカーモードらしく、呼び出し音が聞こえている。

「もしもし? 私よ? いまちょっといいかしら」

『おおう、奏っち、もう東京についたぁ? 早くしないと事務所閉めて帰っちゃうよ?』

「まだ出張先よ? あと二時間後くらいの便で帰るわ。それより、目の前にとっても懐かしい人がいるの。誰だか分かるかしら。スピーカーだからこのまま話して?」

『懐かしい人? いやー、想像がつきませんなぁ。はろー? どなたでありますかぁ』

 この可愛らしい声は、彼女に間違いない。

 思わず笑みが出た。

「もしかして、ワッピ? 僕、宮本だよ」

『おおおっ? 歩先輩っ? え? 奏っちと密会しているのですかっ? こーれは奥さまに報告せねば』

「いやいや、たったいま偶然ここで会ったんだよ。でも、どうしてキミたちが連絡を取り合ってるの? ワッピ、大学時代は彼女がどこへ行ったかまったく知らないって言ってたじゃない」

『あら? 奥さまはなんにも話してないのですかぁ?』

 見ると、奏さんがクスクスと笑っている。

「咲美? 彼女ったら、まったく何も話していないんだと思うわ。たぶん、私のことを彼に話すのがイヤなんじゃないかしら」

『うひひ、乙女だねぇ。歩先輩? 実はアタシと奏っちは一〇年くらい前から一緒に企画事務所をやっているのですよー。でもこれ、奥さまには話しておいたはずなんですが』

「そうなの? 結婚してしばらくして、あいつがなんとか奏さんの連絡先を調べて僕らの結婚を知らせたっていうのは聞いたけど……、ふたりが一緒に会社やってるなんてまったく聞かされてない」

『あらぁ、そうですかー。十二、三年前にとある駅で奏っちとばったり再会しまして、それから昔みたいにあっという間に意気投合して、なーぜかあれよあれよという間に一緒に会社を起こすことになってしまいまして』

 はぁーっと息を吐く奏さん。

「駅じゃなくて空港ね。ほんと、最近物忘れが激しいのよ? やっぱり甘いものばっかり食べてるからかしらね」

『なんですとー? 奏っちもいっぱい食べてるくせに。でもぜんぜん太らないのは不思議。そうとう燃費が悪いよね』

「失礼ね。だって私は努力しているもの。それより、どうやら彼の奥さまはずいぶん太っているらしいわよ? たぶん、優しい旦那さんがたくさん甘やかしてるのね」

 息子が下を向いている。

 笑いをこらえているらしい。

 それにしてもあいつ、ずいぶん前から奏さんともワッピとも連絡を取り合ってたんだな。

『優しいのはウチのダーリンも負けていないのです。学生時代と変わらず、毎日のようにお菓子を買ってきてくれますし』

「あ、そうだった。江上くん、元気? たしかワッピを追いかけて東京へ行ったんだよね? 噂は聞いたよ」

『はぁい、元気ですよー? 相変わらず歌を作って歌っております』

 江上くんは私と同じ地元私立大学へ進学して、同じ『放送研究部』でずっと一緒に大学時代を過ごした。

 実は、ワッピも我らが『放送研究部』の後輩だ。

 江上くんを追いかけて私たちの大学へとやって来て、私たちとかけがえのない青春の一ページを共有した。

 実に懐かしい。

 その後、先に卒業した江上くんは地元の会社で働いていたが、ワッピが卒業後に就職で一定期間だけ東京へ行くと聞いて大慌て。

 なんと彼は、そのとき勤めていた会社をあっさりやめて、ワッピを追いかけて東京へ行ったらしい。

 その後、風の噂でふたりが結婚したことは聞いていたが、結局、結婚式も披露宴もやらなかったようで、さらに同窓会にも顔を出さないので会う機会はまったくなくて……。

『ねぇー、奏っち? それにしても、これってば、あの歌みたいでちょっと面白くない?』

「あの歌? いつかあなたたちが話していた、高校時代に歩くんと江上くんが私のために作ってくれたっていう歌のことかしら。私、聴いたことないから分からないわ」

『あら、聴いたことなかったっけ? あるのよ、あるのよぉ。ふたりの再会を予言した歌詞がぁ。ね? 歩せーんぱい?』

 そうだ。この場面はまさに、あの歌に描いた情景そのものだ。


 時が流れて 大人になって 

 見知らぬ街角 あなたを見つけたら


 信じる心 夢見る気持ち 

 忘れずにいたと 微笑みなげるよ


 当時、十七歳の私が、これ以上ないくらいに背伸びをして、彼女のために書いたあの歌詞の一節。

「そうだね。ワッピ、ありがと。おかげで、大事なひと言を言い忘れずに済みそうだ」

『はぁい、どういたしまして。それじゃ、またそのうち。奥さまによろしく伝えてくださいねー。あ、それから、さっさと帰って来いって、そこで偉そうにしているウチの社長のほっぺをつねっておいてくださいな。はっはっはー! ではではー』

 ワッピらしい、ケラケラという笑いを残してあっさりと切れた通話。

 きょとんとした奏さん。

 私が苦笑いして肩をすくめると、奏さんも呆れ顔でクスリと笑う。

 そして彼女がそのスマートフォンをポケットにしまうのを見届けて、私はすっと息を吸って胸を張り、真っ直ぐに彼女に向き合った。

 ゆっくりと上がった彼女の瞳が、あのころとまったく変わらない揺らめきで私を捉える。

「奏さん」

 私は、その懐かしい呼び名で彼女を呼んだ。

 私を見つめ返す、美しい瞳。

 そして、いまもそこにある、あのときと変わらない優しい笑顔。

 ああ、忘れるものか。忘れられるはずがない。

 あのころ、私の心をこれ以上ないくらいにいっぱいに満たしていた、この笑顔を。

 ありがとうも、さようならも、ちゃんと言えないまま私の手の届かないところへ行ってしまった、あなたのことを。

 そして私は、柔らかな笑みと共に、その約束の言葉を彼女へと向けた。

「ずいぶんいろんなものが変わってしまったけど、僕は……、ずっと忘れずに居られたと思う。信じる心も、夢見る気持ちも……」

 その瞬間、陽光の向こうから届いた柔らかな風が彼女の髪をふわりとさせた。

 私の言葉を受け取って、少しだけ瞳を大きくした彼女。

 そして、何かを言いたげにわずかに震えたその唇はついに声を帯びることなく、それからゆっくりと満面の笑みの一部となった。

「ありがとう……。嬉しいわ」

「そうだ。あの歌のカセットテープがまだ残ってるから、データにして今度送るよ。よかったら聴いて」

「そう? 江上くんはもう残ってないって言ってたけど、あなたは持っていたのね。楽しみにしているわ」

 彼女に届くことがなかった、あの歌。

 時が流れ、かつては手から手へ渡されていたメロディーも、いまは無味な電子データとして容易に届けられるようになった。

 あれから三十余年、とうにセピア色になったあのころの私の想いをいま受け取って、彼女はどう感じるだろうか。

 再び、彼女が腕時計へと目をやる。

「そろそろ時間」

「そうか。足止めしてごめん。じゃぁ、また今度」

「ええ。会えて嬉しかったわ。じゃ、また」

 そう言って、ゆっくりとその一歩を踏み出した彼女は息子の横を通り過ぎながら、「お母さんによろしくね」と小さく手を挙げた。

 息子が会釈する。

 私は振り返らなかった。

 息子だけが振り返り、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を追っていた。

 雨上がりの都市公園。

 遊歩道にできた小さな水たまりには、晴れやかに澄み渡る青空が映えている。

 彼女の髪をふわりとさせた風が再び届き、その水たまりに柔らかなさざ波を立てた。

 心地よい、まるで小春を思わせる風。

 彼女の後ろ姿に目をやったまま、息子が私に問う。

「綺麗な人だね。父さんの友だち?」

「ああ。高校のときの同級生だよ。まったく変わってない」

「あっ、もしかして、母さんがリビングに飾ってる写真の……」

「そうだ。父さんと母さんの間に写ってる人だよ。母さんの……、いや、父さんと母さんの親友だ」

「親友? でも、ずいぶん会ってなかったんだよね?」

「会ってなくても親友さ。親友っていうのはそういうもんだ」

「へぇ」

 おそらく、この高校三年生の息子にもかつての私と同じ『現在いま』があり、そしてそれがいつか時を経て、過去からの『光風の伝言』となって届くことだろう。

 郷愁を具体的な言葉にすれば、それはとても陳腐になることが常だ。

 己がその年齢に達したことへの寂寥感が過ぎ去った時を神聖化して、それらを必要以上に美化するからだ。

 しかし、楽しかったことも辛かったこともそうして美化され、『記憶』から『思い出』へと昇華するからこそ、人は『現在』を活き活きとして生きられるのだろうと、私は思う。

 ここで奏さんと出会ったことも、明日になれば思い出のひとつとなり、平穏な日常の一部となるのだ。

「よし、帰ろうか」

 そう言って私は、振り返ったままの息子の肩を叩き、さて、彼女に偶然会ったことを話したら妻はどんな顔をするだろうかと、そんなことを楽しげに考えながら、再びゆっくりと歩き始めたのだった。


          おわり

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