5-2 太宰府遠行
あっくんは奏が好き。
ずっと前から、奏と仲良くなる前から知っていた事実。
そして、何度も何度も、自分に言い聞かせてきた、どうにもならない事実。
ふたりは両想い。
お互い、どうしようもなく優しくて、相手に迷惑をかけちゃいけないって思って、その想いを口にしないでいる。
でも無意識に、その距離はとても近くなっている。
もう、あたしが居る場所は……。
「あっくん、いいねぇ。奏、あんまり甘やかしちゃダメ」
「そうね。ちょっと過保護かしら」
「あはは。そうだ! いまからマフラー買いに行こうよ。ね? あっくん」
見苦しい抵抗だ。
きっと、奏の目にはそう映る。
奏はなんだか、小さな子どもを見るような瞳。
あっくんは少し面倒くさそうな顔をして、奏のマフラーに顔を埋めている。
もうすぐ夕暮れ。
スタジオの中はいよいよ寒い。
縦長のはめ込み窓の外では、ごくごく小さな粉雪が風に吹かれて疎らに舞っていた。
「また栞の思いつき発言」
ボソリと呟いたあっくん。
「だってぇ、奏だって寒いんだよぉ?」
「分かってるよ」
そう言ったあっくんは苦笑いしながら、マフラーをそっと外して奏に返した。
ふたりの間を裂こうなんてつもりはまったくない。
あっくんは奏と一緒に居たくて、何度も奏に進路希望を尋ねて、それから自分の希望を決めた。
奏とまったく同じ地元の国立大学、まったく同じ学部、まったく同じ学科。
私はずいぶん迷ったけど、何度も奏に「一緒に」って言われたので、一応、奏と同じ国立大学の違う学部だということにした。
そう、とりあえず、『そういうこと』にしただけ。
いつかあっくんは、あたしを遠ざけたのはあっくん自身があたしの将来を狭めていると思ったからだと言った。
だから、一緒に居られないって、あたしのことを思えばこそ一緒には居られないんだって、そう言った。
だったら、それはいまも変わっていない。
奏はあっくんの将来を狭めているし、あっくんはあたしの将来を狭めている。そしてあたしはたぶん、奏の将来を狭めているんだと思う。
どうするのが正解なのか、それは分からない。
もし、いまあたしたちが思い描いた将来がそのまま訪れたら、たぶん、あっくんと奏はめでたく付き合うことになって、あたしはそれを祝福することになると思う。
いつも、素敵な笑顔を振り撒く元気ガールを演じているあたし。
たぶん、そんな僻みや妬みなんてまったく縁遠いとみんなから思われているあたしは、その大多数の期待を裏切って、思い切り奏を妬むだろう。
表面ではふたりを応援している振りをして、心の底では奏を恨むと思う。
だから、あたしはふたりと一緒に居られない。ふたりの幸せを願うからこそ、あっくんのことも、奏のことも大好きだからこそ、あたしは一緒に居られない。
もし、あっくんが国立に落ちても、第二志望にしているのは国立と川を挟んで学生街を共有している、あの『図書室の幽霊』の私立大学だ。
すぐ近くだし、いつでも気軽に会える距離だから、ふたりはずっと一緒に居られる。
一昨日、お父さんに相談したら、隣の県の吹奏楽部が有名な私立大学なら行ってもいいって言ってくれた。
そこなら、吹奏楽を続けるためという、ちゃんとした行く理由がある。
あっくんも奏も居ない、その遠い町の大学が、あたしが大好きなふたりの幸せを守ってくれることになると思う。
「ねぇ、みんな。さらに思いつき発言だけどね? みんなで太宰府に行かない?」
思い切り眉をハの字にして、肩をすぼめて可愛らしく首を傾けた。
顔を上げたあっくんが、「はぁ?」という顔をしている。
振り返った奏も綺麗な瞳を大きくした。
「えっと……、ダザイフって、太宰府天満宮のことかしら」
「そうそう! 全国的に有名な学問の神様だよ? 隣の県で電車でつーって行ける距離なのに、行かないなんてもったいないもん」
「そういうの、もったいないっていうものかしら」
見ると、咲美ちゃんもお菓子の袋を胸の前に持ったまま、瞳をキラキラさせている。
「し、栞先輩……、それって、アタシも参加可能でありますか?」
「お? もっちろーん! まだ受験は二年先だけど、予行演習ってことでいいんじゃないっ?」
「えええ、江上先輩も誘っていいですかっ?」
「江上くん?」
ちょっと頬を紅くして、お菓子の袋をぎゅーっと握りしめた咲美ちゃん。
ん? どうしたの?
もしかして咲美ちゃん……、おいおい、タッくん先輩はどうしたっ?
「咲美? 江上くんは部外者よ?」
「奏、あたしたちも思い切り部外者なんだけどね。あはは。咲美ちゃん? もちろん江上くんも誘うから心配要らないよ? でも、どうして?」
咲美ちゃんが、ちょっとだけ目を泳がせた。
どうしたんだろう。何か事情が?
「あああ、あのですね? 江上先輩、実はとっても無理しているのです。なので、息抜きをさせてあげたいと思いましてっ」
「江上くん、無理してるの? 勉強のし過ぎとか?」
「それが……、皆さんに言っていいものかどうか……、あのぉ」
小さな肩をすぼませた咲美ちゃん。
奏がその顔を覗き見上げる。
「咲美? 彼に惚れたわね?」
「そそそ、そういうことではないのですっ! あの、江上先輩、実は、国立を目指しているのは表向きらしくてっ、元生徒会長なので仕方なくそうしているだけでっ、先生や周りの人から期待の言葉をかけられるたびに胸が苦しいのだと……、そのっ」
咲美ちゃん、いまにも泣き出しそう。
「辛そうな江上先輩を見ていると、アタシも辛いのです」
横目で見ると、奏はうっすら笑っている。
たぶん、「うわぁ、可愛いっ」って思ってるんだろうな。
そうなんだ。江上くんもあたしと同じ、建前の第一志望。
歴代の生徒会長はみんなどこかしらの国立大学へ進学している。
江上くんはいつか、「俺にはあの美しいレンガ色と銀杏並木のキャンパスが良く似合う」って、地元国立より自由で明るい校風のあの私立大学に行きたいって言っていた。
そう、あっくんの第二志望と同じ、地元国立にとても近い私立の商科大学。
江上くんの成績なら、たぶん地元国立はそんなに問題ないはずだけど、それでも彼は私立へ行きたいんだね。
かけられている期待の大きさ、それに反して思い描いている、自分が望む未来の姿……。
彼も、『元生徒会長』という肩書のせいで誰とはなく将来を狭められているんだ。でもちゃんと、それに負けないで静かに抵抗しようとしている。
「咲美ちゃん? じゃ、咲美ちゃんが江上くんを誘ってあげて? 江上くんには咲美ちゃんの笑顔が一番効くんだから」
「なっ、なっ……」
真っ赤になった咲美ちゃん。
奏がいまにも吹き出しそうにして笑いをこらえると、その向こうからあっくんの難しい顔が覗いた。
パタンと数Ⅱの参考書が閉じられると、ふわりと白い息が奏の向こうで広がる。
「なんか、行くこと決定になってるけど、ワッピのお母さんとか、高校生だけで隣の県までなんてダメって言うんじゃない? お金だってかかるし」
「あっくんとあたしはまず大丈夫だよね。咲美ちゃんは? お金持ってる?」
「いくらぐらいかかるのでしょうか。あんまり持ってないのです」
「それなら、あたしが咲美ちゃんのお母さんに話してあげる! 奏も大丈夫だよね?」
パッと奏に目をやると、どうも複雑な表情。
「えっと、そうね。うちはちょっと母が厳しいから、もしかしたらダメって言うかも。でも、なんとか頼んでみるわ」
たしか、奏はお母さんからお金を管理されていたと思う。
どんなことでも自分の価値観と違うと思ったら、容赦なく切り捨てる奏のお母さん。
奏も少し似たところがあるけど、お母さんほどじゃない。
何度もお家におじゃまして奏のお母さんとは親しくなったけど、たぶんお母さんがダメだと決めたらあたしがどんなに説得してもダメ。
それどころか、もう二度と家に来ないでって言われちゃうかも。
もし奏のお母さんがOKしてくれなかったときは、この太宰府行きは中止だね。
「あっくん、今度の日曜日、十二月一〇日、いいかな」
「仕方ない。栞の思いつき発言に付き合うか。江上くんには本当にワッピからでいいの? 僕、言おうか?」
「いいんじゃない? どうも、しょっちゅう電話で話しているみたいだし。ねー? 咲美ちゃん?」
「いい、いやいや、次はどんなお菓子がいいかとか、たまにそんな電話がかかってくるので――」
慌てふためく咲美ちゃん。
受験前の最後の息抜き。みんな一緒の小旅行。
奏のお母さんが許してくれたらいいな。
高校三年生 十二月一〇日
「みんな、お待たせ」
「奏っ、よかったぁ。急に来られなくなったのかと思った」
そう言ってあたしが奏の手を握ると、あたしの後ろであっくんと江上くんが小さく手を挙げた。 江上くんの横には、小学生の遠足のようなリュックを背負った可愛い可愛い咲美ちゃん。
「奏先輩っ、遅いのであります! 早くしないと電車が来てしまうのです!」
冬の午前、日曜日のターミナル駅。
柔らかな日差しが降り注ぐ足元は意外に暖かかったけど、日の当たらない改札まで来るとさすがに寒い。
駅員さんも寒そう。切符切りのハサミを持つ手がぶるぶると震えている。
「さぁ、しゅっぱーつ!」
ちょっとおどけて奏の背中を押した。
北へ向かう電車は、隣の県に入ったところでJRから私鉄へ乗り換え。そして、さらに太宰府の手前で天満宮が終点の路線に乗り換える。
電車に乗って席を探しているところで、後ろの江上くんとあっくんの話が聞こえた。
「なんか悪いな。俺のために」
「え? 僕らは僕らの合格祈願に行くだけなんだけど」
「あ? 咲美っちは宮本が俺を息抜きさせたいって誘ってると言ってたぞ?」
「ふぅん。それはそのままワッピが僕らに言ったことだよ? よかったね。大事に思われているんだ」
「ええっ?」
なんかもう、吹き出しそう。
「江上先輩はアタシとこっちに座るのです」
「お、おう」
そう言って江上くんの手を引っ張った咲美ちゃん。
四人掛けのボックス席。
あたしと奏に向き合って、あっくんがひとり。
通路を挟んだ隣のボックスに、向き合った江上くんと咲美ちゃん。
まだ出発したばかりなのに、江上くんはもうセイラーバッグから大量のお菓子を取り出している。
ホクホク顔の咲美ちゃんは、そのお菓子を手に取りながらそっとあたしに耳うちした。
「おふたりの修羅場、拝見するのであります。いひひ」
咲美ちゃん、あたしたち、そんなことにならないよ?
あたしは、あっくんと奏の間には……。
お昼を少し回ったところで、私鉄は終点へ。
天満宮の玄関口らしく、神社みたいな造りの駅舎がとってもいい感じ。
あたしは、高校受験のときに一度だけ連れて来てもらったことがある。そのときは車だったから、この駅は前を通ったときに眺めただけだったけど。
参道は人でいっぱい。
上品な石畳が敷かれていて、立派な鳥居が何本も立っている。
両側には修学旅行のときに寄るようなお土産屋さんがずらりと並んでいて、そのところどころに『梅ケ《が》枝餅』という名物を売っているお店がとってもいい匂いをさせていた。
どのお店で売っているのも同じ『梅ケ枝餅』なんだけど、どうやらそれぞれちょっとずつ違うみたい。
「咲美っち、ヤケドしないようにな。慌てて食べるなよ?」
「はぁい。分かっているのであります」
気がつくと、もう咲美ちゃんはその名物を頬ばっていた。あまりに熱そうなので、江上くんが横で心配している。
もう、見せつけちゃって。
先頭を行くあたしと奏の後ろを、あっくんがゆらりと景色を眺めながらついてきている。
最後の大きな鳥居のところで両側のお店が途切れて、参道はそこから左へ。奥に拝殿の門が見えると、その手前の池にはとっても素敵な赤い太鼓橋がかかっていた。
太鼓橋のアーチを越えて、少し伸びあがりながら溜息をついた奏。
「さすがに多いわね。こんなところに神頼みに来るくらいなら、家で勉強していたほうがいいと思うんだけど」
たしかにそうだけど、そっくりそのままお返ししますって言われそう。
「奏は初めて? あたしとあっくんは高校受験のときに連れて来てもらったことがあるの」
「一緒に?」
「え? えっと、うん。あたしのお母さんが……、車で、一緒に」
「そうなのね」
そう言って少しだけ目を伏せると、奏は小さく頷いてまた顔を上げた。
満面の笑み。
「合格したら、今度はふたりで一緒にお礼参りに来たらいいわ。あたしはちょっと自信がないから」
「えー? 奏が受からなかったら、あたしもあっくんも全然だめじゃない。今日しっかりお願いしよ?」
「イギリス育ちの私に日本の神様がご利益をくれるかしら」
あたしとあっくんは確かに二度目のお参り。
たぶん、奏の中学三年の冬はお参りどころじゃなかったんだと思う。
もちろん、ふたつもランクを落としてあたしたちの高校を受験したんだから神頼みは必要なかったんだろうけど、両親の離婚やいろんな問題が山積みで、まったく気分が晴れることのない日々を送っていただろうから。
楼門を過ぎると、廻廊で囲まれた境内の中を正面の拝殿へ向かって石畳が真っ直ぐ延びていて、たくさんの受験生がおみくじを結び所で結んでいた。
五人一緒に、大きなお賽銭箱の前に並ぶ。
「じゃあ、はいっ。みんな一緒に。神様、みんな合格でお願いします」
「はぁ、日本の神様に通じるかしら」
「大丈夫、通じるよ。ちゃんとみんな合格だから」
「ほら、そのお菓子、このセーラーに入れな」
「おおう、ありがとなのです。これで手が合わせられるのです」
あと何度、この五人がこうやって一緒に並ぶことができるんだろう。
たぶん、もうそう多くはない。
みんな一緒には居られなくなって、少なくともあたしはあっくんと奏とは一緒に居られなくなって、いつか懐かしく今日のことを思い出すんだろう。
「さて、目的は果たせたねぇ。帰る前にみんなで一緒に写真撮りたいね」
拝殿の横から境内を出たところで、あとに続くみんなのほうを振り返ってニコリとした。
すぐにあっくんの苦笑いが目に入る。
「また始まった。栞の思いつき発言。そしてカメラなんて持って来てないんだよね?」
「あはは、そうねー。でも売店にあるんじゃない? あの宣伝してるやつ」
「ああ、あの『撮れルンです』ってやつ? 仕方ない。僕が買ってくるよ」
あたしたちを追い越して、売店へ走って行ったあっくん。
それから廻廊の外をぐるりと回って池の前まで戻ってくると、向こうにさっき渡ってきた太鼓橋が見えた。
池の手前であっくんが手を振っている。
「ここがいい。太鼓橋をバックに撮ろう」
さすが放送部って感じのカメラアングルの選び方。池の向こうの太鼓橋を背景にして、その手前に並んで撮るんだって。
「はい、笑って?」
最初、あっくんがカメラマンになって、あたしと奏を写してくれた。
それから、江上くんと咲美ちゃん。
そして、女子三人が一緒に写ったあと、あたしがカメラマンを代わって男子ふたり。
「ひととおり撮れたね。じゃ、行こっ」
そう言ってあたしがカメラをあっくんに返そうとしたとき、突然、奏がそれを取り上げた。
「栞、ちょっと待って。江上くん、カメラマンお願い」
「え? おう、いいぞ」
カメラを受け取った江上くん。
くるりと振り返った奏が、あたしとあっくんに両手を伸ばした。
「私たち、三人で……いいかしら」
「え?」
「うんっ、もちろんっ!」
見ると、あっくんはちょっと固まっている。
「あっくん? ほら、並んで!」
「えっと……、うん」
ニコリとした奏が真ん中に立って、そしてあたしとあっくんの手を握った。
ハッとしたあっくん。
あたしは奏の手を強くぎゅっと握り返した。
温かい手。
「ほらー、もっと寄れぇ。撮るぞー」
奏があたしとあっくんをぎゅっと引き寄せる。
「栞、歩くん、今日は本当に楽しかった。今日のこと、私、一生忘れない」
小さく聞こえた、カチリとシャッターが切れる音。
暖かな日差しの中に、ふわりと広がった白い息。
並んだ奏の向こう、あっくんが放心したように足元に焦点の合わない瞳を向けていた。
あたしはどんな顔をしていただろう。
意地悪な顔をしていたかも。
帰りの参道。
前を行くあっくんと江上くんは、何やら歌のレコーディングがどうのという話をしている。
たしか、江上くんの曲に詞を書いてくれってあっくんが頼まれた……、あの歌の話かな。
「どうせもう、今日が最後の自由な日曜なんだろ? いいじゃねぇか。伴奏のマスターテープもレコーダーも家にあるし。な? 帰りに寄れよ」
「いや、しかし、あの詞はまだ仮で書いたやつだし。それに、そんなぶっつけ本番で歌なんて歌えないよ。だいたい、なんで僕が歌うことになってるのさ」
「あれぇ? お前、想いを伝える歌なのに自分で歌わねぇのか?」
今日の帰りがけ、江上くんの家へ行って歌のレコーディングをしようって話みたい。
あっくんが自分で歌うんだ。
もしかして……、奏のため?
ふと、隣を歩く奏に目が行った。
奏はあっくんたちのことはまったく気に留めていない様子で、じっと咲美ちゃんを見下ろしている。
「ねぇ、咲美。もしかして、あなたたちもう付き合っているの?」
「え? ななな、なーにをおっしゃいますかっ! ちょっと気が合っただけなのです」
「そう? もっと親密に見えるけど。アレはどうしたのよ。あの、野球部の……、パックン?」
「タッくんですっ!」
奏はすごく意地悪な笑顔。思わずあたしも加わる。
「咲美ちゃーん。夏まではあんなにタッくん先輩がーって言ってたじゃない? もう冷めちゃったの?」
「えーっと、冷めたというか……、その、元々そんなんじゃないのです。タッくん先輩は、なんというか――」
そんなんじゃない?
そんなんじゃない『好き』って……。
「――なんというか、タッくん先輩は、その……、アイドルなのです。もともとアタシを好きになってもらいたいとか……、そんなことまったく思ってないのです。つまりその……、手が届かない存在と言いますか……」
「咲美ちゃんにとっては、テレビの中のアイドルと同じってこと?」
「まぁ、そんな感じであります。あ……、その、決して江上先輩なら簡単に手が届くとか、そんなことではなくてですね――」
思わず、前を行くあっくんの背中を見た。
あたしはどうだろう。
たぶん、あっくんにとっての奏は、もともとはそんな存在だったんだと思う。
おそらく、奏にとってのあっくんも。でも、いまは……。
ふわりと広がる白い息。
慌てふためく咲美ちゃんの手を、奏がギュッと握る。
「分かっているわ。あなたにとってとても現実的で、そして本当に自分を大切にしてくれるという実感を得られた……、その相手が江上くんだったってことでしょう?」
「え? その……、難しいことはよく分からないのですが、江上先輩はとっても近くに感じるのです。アイドルのような実体のない感じではなくて」
「そう……」
奏がゆっくりと目を伏せた。
「それは、実体のない『好き』だったっていうことね」
「え? えっと、アタシなにかおかしいことを言いましたか?」
「ううん? まったくおかしくないわ。むしろ、自分を正しく見ていると思って、とても感心したの」
「そ……、そうでありますか」
その直後、奏がついた、聞こえるか聞こえないかの小さな溜息。
視界の端で、そっと奏を見た。
いつの間にか、伏せられた視線は真っ直ぐに上がって、いつかセミナーハウスで見た、あの巌とした信念を秘めた瞳がそこにあった。
その眼差しは、あっくんの背中を捉えている。
そう。あっくんはもう、実体のない相手じゃない。
奏にとって、この世界で一番の理解者であり、そしてかけがえのないパートナー。
大丈夫。心配しないで。
あたし、ちゃんと祝福するから。




