4-3 詩の中に見つけた彼女の真実
「悪かったな」
そう言って俺は、スタジオの扉を後ろ手で閉めた。
とんでもなく、気分が悪い。
俺は、他人の意見に耳を貸さない独善的な人間じゃない。
ただ、合理的に考えて導き出した己の答えを、臆することなくハッキリと口にするだけだ。
野元が泣いていた。
女を泣かすのは趣味じゃない。
気分が悪いのは、きっとそのせいだろう。
いや……、違う。
本当は、悔しいのだ。
俺の『合理性』が浅薄だと値踏みされたことが。
俺の『合理的思考』には芸術性がないと一蹴されたことが。
俺は、計算され尽くした合理性の中にこそ、真の芸術性が宿ると信じてきた。
『音楽は数学よりエライ』
中学一年生のときに聞いたその言葉が、俺にずっとそう思わせてきた。
それは、音楽の高橋先生から教わった。
珍しい、男性の音楽教師で、太めの体型と愛嬌のある笑顔でみんなから親しまれていた。
『江上くん、知ってるかい? 数学では、1は3で割れないだろ? でもね、音楽ではそれを簡単にやっちゃうんだよ』
高橋先生は、ピアノを前にして笑顔でそう言った。
1は3で割り切れない……、数学では常識だ。『0.3333……』という循環少数になって、その完全な答えは絶対に出ない。
しかし、音楽は違う。
三連符や五連符などの『連符』は、いとも簡単に1を奇数で割ってしまう。
音の隔たりもそうだ。
よく基音として用いられる『A』の音、つまり、ハ長調でいう『ラ』の音は、周波数が四四〇ヘルツ。
その一オクターブ上の『ラ』は八八〇ヘルツで、その隔たりは四四〇ヘルツだが、その間にある音の数、十二で四四〇は割れない。
この周波数は指数関数になっているので、一オクターブの隔たりは、場所によって二二〇ヘルツだったり八八〇ヘルツだったりするが、そのいずれも十二では割れないのだ。
つまり、割れずに残った『余り』は、人間の耳では判別できないほど微細にされて、見事に振り分けられていることになる。
なんと、あのピアノの鍵盤に並んでいる八十八個もある音は、そのひとつひとつが数学的には答えとして得られない数値の隔たりによって、美しい音階を刻むように並べられているというのだ。
高橋先生は、これをすごく楽しそうに俺に話してくれた。
『ね? すごいだろう? だから、音楽は数学よりエライんだよ』
背中に電気が走ったような感覚。
本当にすごいと思った。
その言葉に魅了されて、俺は妹が習っていたピアノのバイエルを開いて、ピアノ弾きの真似事をするようになった。
それから数年。
いつしか俺は、人が書いた曲を一生懸命に練習して弾けるようになっても、それは所詮『他人の曲』だと思うようになった。
どうせやるなら、伝えたいことを自分の曲で表現したい、そう思って、何も書かれていない五線譜に向き合うようになった。
ルーズリーフに走り書く、名もない曲の旋律。
毎日毎日、稚拙なオリジナル曲をアップライトピアノで垂れ流しては、ご近所の憐れみを買った。
高校生になってしばらくして、市街地にある我が町指折りのアーケード、『下通り』のレコード屋さんの地下に、この街では初めてとなるライトミュージック専門の楽器屋がオープンしたことを知った。
シンセサイザーとの出会い。
世は、アナログからデジタルへと移行する過渡期。
世界的な総合楽器メーカーの『YAMAHA』が送り出した、FM音源デジタルシンセサイザー『DX』シリーズが世界の音楽シーンを席巻していた。
高校生の俺には、そんな高級なシンセサイザーを手に入れることは夢のまた夢だったが、同じ『
YAMAHA』が出していた少々廉価な別のシンセサイザーをなんとか入手して、仲間を募ってバンド活動を始めた。
高校二年になってしばらくして、突然、担任の先生から変な誘いがあった。
『江上くん、生徒会長やらない? 文化祭でなんでもやっていいから』
俺の担任の富永先生は、生徒会執行部の顧問をやっていた。
何やら、五月いっぱいで任期を終える生徒会執行部の文化委員長、同学年の宮本ってやつが次期生徒会長になりたくないって駄々をこねているらしい。
元々現生徒会発足時に一年生は宮本しか居らず、居残って次期生徒会長にならなければならないことは初手から分かっていたそうだ。
そんなんならなんで文化委員長を引き受けたんだって、ちょっとムカついた。
この能動性ゼロの我が校では、自分から生徒会執行部をやりたいって言うやつはまずいない。ましてや、生徒会長ともなればずっと待っていても永遠に立候補者は現れない。
富永先生は、おそらく藁をも掴むつもりで俺に声をかけたに違いない。俺が一年生の時にノリでやらされたクラス委員長の印象が強かったと見える。
さて、生徒会長なんてガラじゃなかったが、この『文化祭でなんでもやっていい』という甘言は実に魅力的だった。
あんなことや、こんなこともやっていいのだろうかなんて、そんなことを考えていたらなし崩し状態でOKさせられてしまい、結局、俺は生徒会長を引き受けた。
賛否両論だったが、先生がいいって言ったんだからと開き直って、俺はオリジナルの文化祭テーマソングを作って、それを全校生徒一三〇〇人に歌わせた。
作詞は生徒会執行部の女の子たちがやってくれて、歌もみんな一緒に歌ってくれた。
いい思い出になった。
野元のことは、生徒会長になってすぐ、富永先生から聞いた。
『ひとり、孤立している生徒が居てな。二年九組の野元っていう女子。中学のとき日本に帰ってきた帰国子女なんだが、どうもまだ日本に馴染めないらしくて、クラスメイトとも口をきかないらしいんだ』
富永先生は、野元の担任から相談を受けていたようだ。
どうにかして彼女を集団の中に取り込みたいという彼女の担任の思いを受けて、俺に話を持ちかけてきた様子だった。
『成績はすこぶるいいし、今回の生徒会執行部に入れたいと思って話しに行ったんだが、興味がないと一蹴されてな。文芸部をやってるようだが、部員は野元ひとりだけで、人間関係作りにはまったく役に立ってなくて』
そこで俺は提案した。
先日、先生から聞いた、『文化系部活予算削減』の話が口実に使えるのではないかと。
『たしか、予算って人数割りで、小さい部活ほど貰いが少ないんですよね? どうです? 予算獲得のためにと言って、小さい部活に他の部との統合を持ちかけるのは。そしたら文芸部もどこかと一緒になって、その野元って子もひとりじゃなくなるでしょ』
自分では名案だと思った。
そして、俺の案は教師陣の賛同を得てとんとん拍子に駆け上がり、文化部部長連合会の会合で議題に出された。
しかし、思惑は見事に外れた。
野元を人の輪の中に引き入れるどころか、その野元自身が猛反発をして会を停滞させ、最後はひとり席を立って部屋を出て行ってしまった。
その後、反対意見は出なかったので文化部の統廃合は決定事項となり、どの部がどの部と一緒になるのかは後日また会議の場を設けようということでお開きとなった。
出て行った野元は、それから数日にわたり各部の顧問のところに押しかけて、その主張を語って回ったそうだ。
生徒会室にもやってきて俺と言い合いとなり、騒然となったところに顧問の富永先生が止めに来て、やっと収拾したなんてこともあった。
実際のところ、言っていることは綺麗事ばかりで具体的なビジョンは何もない。
それで、予算がなくてどうするのかと尋ねても、創作にお金は関係ないとか、各部のアイデンティティの保持が最重要とか、そんなことしか言いやがらない。
そして結局、野元はどの部とも統合せず、文芸部の活動をやめてしまった。
いま思えば、もしかしたら本当はもっと個人的な理由があったのかもしれない。
あいつが、文芸部をひとりのまま続けたかった、本当の理由。
それがなんなのかは分からないが、いずれにせよ、もう終わったことだ。
ただ、あいつが放送部と一緒に居ることには驚いた。
あいつが宮本やあのちびっこに心を開き、放送部の連中と親し気に言葉を交わしていることがとても不思議だった。
そして何より、あの、宮本の目。
『ちょっと黙ってくれないか』
あんな目で、あんな語気で激しい怒りを露わにした宮本は、初めて見た。
宮本歩は次期生徒会長に指名されたのに、自信がなくて慌てまくって逃げ出した軟弱者だ。
女の子に混じって、マイクを持って毎日キャッキャと放送局ごっこをしている女々しいやつだ。
しかし、あの目はなんだ。
あれが、本当の宮本歩か。
正直、得も言われぬ畏怖を感じた。それは、宮本の威圧に対する畏怖じゃない。
己の足元の不確実さを感じ、己の主張が真に正しいのかと迷いを感じた、その畏怖だ。
『江上くんは、奏さんの詩を読んだことある?』
あいつは、野元のことを『奏さん』と呼んでいた。
そして終始、その言葉は野元に対する慈愛に満ちていた。
宮本にあの目をさせた、野元奏の真実。
彼女の詩を読めば、俺にも彼女を『違うもの』だと認めて理解することができるのだろうか。
「ふん。野元の詩? そのうち読んでやるよ」
自転車置き場で自分の自転車を探しながらそんな独り言が出て、思わずハッとして周りを見回した。
カバンを荷台に括り付け、サブバッグを前のカゴに押し込む。
来週はもう文化祭だ。
放送部は俺の取材どころじゃないだろう。
とりあえず、また宮本からアプローチがあるまで待つとするか。
野元は自分を『放送部スタッフ』だと言っていた。
あいつも放送部と一緒に何かするんだろうか。
高校三年生 十一月
「なんだ、吹奏楽部の演奏会はもう始まってたのか」
今日は、文化祭当日。
プログラムを手にして、俺は、俺が仕事を引き継いだ現生徒会執行部のお手並みを拝見してやろうなどと思いつつ、いくつかの展示を見て回った。
体育館では、我が学年の彼女にしたい女子ナンバーワンの藤田栞が率いる吹奏楽部が、実に高尚な演奏を披露していた。
ピロティ―から中庭を見ると、コンクリート敷の広場で放送部の女子たちが趣向を凝らしたイントロ当てクイズをやっている。誰が作ったのか知らないが、植木鉢をひっくり返して作った回答ボタンがなかなか秀逸。
放送室の前に来ると、視聴覚室からビデオ番組の音声が聞こえた。
例の、『センテニアルとの絆』……、まだ俺のインタビューが入っていない仮編集版を上映しているようだ。ドアを開けてチラリと覗いてみると、数人の生徒が退屈そうにスクリーンを眺めていた。
センテニアル高校との姉妹校締結式典は、再来週。
宮本の話では、いま上映している仮編集版に俺のインタビューを加え、さらに式典本番の映像も加えて完全版とし、それに英語のナレーションを付けてセンテニアル高校へ送るらしい。
仮編集というが、まぁ、よくできている。さすがは宮本だ。
しかしもうこれ以上、スクリーンに映し出された生徒会長時代の自分の姿をまじまじと見るのは耐えられないので、そっとその扉を閉めた。
すると、すぐ横のミキサールームのほうから話し声が聞こえた。見ると、ドアが少し開いている。
そっと覗くと、そこに居たのは、宮本と野元。
文化祭当日だというのに、ふたりは視聴覚室の投影係をやりながら、『センテニアルとの絆』の英語版の話を熱心にしている。
「歩くん、この江上くんが好きだって言った『紅茶』のことだけど、この『|straight tea』というテロップが修正されてないわ」
「あれ? そうだっけ」
「もう、ちゃんとメモしておいてって言ったのに。お砂糖もミルクも入れてない紅茶は、『black tea』よ? はい、やり直し」
「あはは、ごめんごめん」
野元のやつ、あんな顔して笑うんだな。
宮本だってそうだ。あのとき俺に向けた目とはまったく違う、これ以上ないくらい優しい目をしていやがる。
はいはい、おアツいことで……なんて思いながら、俺はやつらに気がつかれないようにそっと扉から遠ざかった。
すると、何かがコツンと尻に当たる。
振り返ると、そこにあったのは一脚の机。
視聴覚室、ミキサールーム、スタジオの扉に囲まれた小さなエントランスに、その机は申し訳なさそうにこじんまりと置かれていた。
よく見ると、すぐ横に張り紙がある。
『文芸部特設コーナー ご自由にお持ち帰りください』
机の上には、ふたつの冊子が並べられていた。
タイトルは、『光風の伝言』と、『旅人を想うあなたへ』。
淡い緑色の小冊子、『光風の伝言』の著者名は、『文芸部 野元奏』。
そして、その横に並んでいる薄い茶色の表紙の『旅人を想うあなたへ』の著者は……。
『準文芸部員 宮本歩』
思わず、笑みが出た。
なんだ、野元のやつ、結局、放送部と統合しちまったじゃないか。
もう、なんともその字面がおかしくて、俺はミキサールームのふたりに聞こえやしないかと必死で笑いを噛みころしつつ、そのふたつの冊子をそれぞれ一部ずつ手に取った。
そして腹を押さえながら、サッと放送室の前の廊下へと飛び出す。
「きゃっ!」
その瞬間、何か柔らかいものにぶつかった。
小脇に抱えていた冊子が、ふわりと宙に舞う。
思わずハッと手を伸ばして冊子を捕まえようとすると、野元の『光風の伝言』がふわりと廊下の先へ飛び去った。
「あああ、ごめんなさいっ!」
俺にぶつかった柔らかいものはそのまま俺の前を通り過ぎて、慌てて『光風の伝言』を拾った。
藤田だ。
吹奏楽部の部長、デートしてみたい女子ナンバーワンの、藤田栞。
久しぶりに間近で見た。
「なんだ、藤田か。すまん。よく見てなかった」
「おーう、会長っ? ごめーん。痛くなかった?」
「いや、結構な重量物だったんで、それなりに痛かったな」
「うわぁ、失礼すぎて笑っちゃう。あはは」
本当に感じがいい女子だ。
宮本とは幼馴染みらしく、以前はよくふたりが話している光景を目にしていたが、そういえば最近はあまり見ない。
俺が茶色の冊子を拾うと、すぐに藤田が拾い上げた緑色の冊子を満面の笑みで俺に手渡した。
「はいこれ、ごめんね。あれ? 会長っ、奏の詩集を持って帰ってくれるのっ? うれしーい! 奏に知らせなきゃ!」
「いや、余計なことすんな。野元には黙っておいてくれよな。それから、俺はもう『会長』じゃねぇ」
「え? あはは、そうだった。元会長だ」
「もしかしてお前、俺の名前知らないんじゃないだろうな」
「えー? あはは、ちょっと忘れただけよ? ちょっとね」
まぁ、みんなが可愛いって言うはずだな。この天真爛漫さはぶりっ子みたいに作っているようには見えないし。たぶん天然なんだろう。
「でも、せっかく会長が詩集を読んでくれるんだし、あたし、奏に教えてあげたいなぁ。ちょうどいまからお昼で、奏たちと一緒にお弁当食べようと思って――」
「あー、いまはやめといたほうがいいと思うぞ? なんか、部屋の中がめっちゃアツいから」
「部屋が暑いの?」
「室温の話じゃねぇ。お前、宮本の幼馴染みだから知ってんだろ? あの宮本と野元のアツさを」
「あー……」
藤田が持っていた弁当の巾着袋が、手首からすーっと垂れ下がる。
あら、藤田って、もしかして。
その瞬間、放送室の中から声がした。
「あら、栞。お弁当持ってきた? 歩くんも待ってるわよ」
野元だ。
ちょうど、ミキサールームの扉からは俺の姿は見えない。
俺は、しーっと唇に人差し指を当てて、それからじわりと後ろへさがった。すると、藤田が背中の後ろで小さくパッと手を振って、声無く「ありがと」と口を動かした。
「ごめーん、奏。あっくんも。先に食べててよかったのにー」
そう言って、『文芸部特設コーナー』が設置されている放送室の小さなエントランスへ姿を消した藤田。
そうか、お前、宮本のことが好きなんだな。
この天真爛漫な藤田のことだ。ビデオ制作で放送部へやってきた野元とも、きっと上手く仲良くなったんだろう。
野元と藤田なんて、まったく正反対でたぶん本当は合わないと思うんだが。
そして、密かに想いを寄せている宮本が野元といい感じとなれば、そりゃあ藤田としては内心穏やかじゃないだろう。
まぁ、俺にはそんなことどうでもいいが、宮本にはどちらかというと野元のほうが似合ってる感じがするな。物書き同士、きっと話が合うことだろう。
では、とりあえず今日は、このふたりの冊子を持って帰って、高校生活最後の文化祭の記念にでもするか。
盛況のうちに幕を閉じた、最後の文化祭。
去年のオリジナルテーマソングの大合唱みたいなフィナーレイベントはなかったが、まぁ、それなりに楽しめた。
「お前、先に風呂入れ。俺はちょっと採点があるから」
そそくさと夕食を喰い終わった親父が、居間の端っこで束になったプリントを並べ始めた。
親父は中学校の数学教師。
学校で採点をやる暇がなかったのか、授業でやった小テストの答案を持って帰ってきたらしい。家に帰ってまで仕事をするとは、なんと熱心なことか。
「ああ、それなら先に入るぜ」
そう言って二階へ上がってタンスから着替えを出したとき、机の上に無造作に放った二冊の冊子が目に入った。
野元の『光風の伝言』、そして、宮本の『旅人を想うあなたへ』。
俺は着替えを抱えて立ったまま、なんの気はなしにその冊子を開いた。
風よ 届けて欲しい
心の旅人の 眼差しのその先へ
いつもの眼光鋭い野元からは想像し難い、柔らかな文章。
ふわりと情景が目に浮かぶ。
誰に宛てたものだろう。
自分を愛してくれた、いや、いまも愛してくれている、遠く離れた誰かへの想いを綴った詩。
その誰かを『旅人』に見立て、夢に破れて道標を見失ったその『旅人』を心から憂い、溢れる仁愛を伝言として風に届けてほしいと願う、少女の独白。
言葉のひとつひとつから感じられる、無限の慈しみ。
これを、本当に野元が書いたのか。
これを書いたのは、俺が知っている野元奏じゃない。あの、文化部部長連合会の会合で俺に怒号を吐きかけた、あの女じゃない。
ふと、あの彼女の強烈な意思の発現は、彼女自身のためではなく、席を連ねた他の物言えぬ者たちのためだったのでは……と、そう思った。
彼女は、本当はとても優しい。
そうでなければ、こんな詩を書けるはずがない。
信じる心 夢見る気持ち
小さな手のひら 手放さないで
俺はなんとも落ち着かない気分になりながら、そう結ばれたその詩集を完読した。
大きく息を吐いて、詩集を机に置く。
そして、やや放心気味に椅子に腰掛けると、それからもうひとつの詩集『旅人を想うあなたへ』を手に取った。
宮本歩の詩集。
タイトルからして、これは野元に宛てたものだろうとすぐに分かった。
時が流れて 大人になって
見知らぬ街角 あなたを見つけたら
信じる心 夢見る気持ち
忘れずにいたと 微笑みなげるよ
その言葉は、野元の詩集『光風の伝言』の結びへの答辞になっていた。
この詩の中に登場する『旅人を想うあなた』は、野元そのものだ。
本当は誰よりも優しく、誰よりも人を憂う彼女を真に理解し、そして、彼女が心に秘めている深い悲しみをどうにかして癒したいと願う、これは最高のラブレターだ。
いつか、時が流れて、いま抱いている悲しみや苦しみがすべて昇華して、旅人を憂う『あなた』自身が幸福になることを願う、すなわち野元自身が幸せになることを心から願う、慈愛に溢れたラブレター。
合理性の欠片もない。
直情的で、無欲な、俺には絶対に書けない詩。
こいつらはバカだ。
創作は美学であり、その美学は観る者、聴く者の感性に一定の合理的な解釈を与えて成せるものだ。
しかし、俺はいま、なんの合理性も感じていないというのに、このふたりの詩に共感している。
俺はいままで何をしてきたんだ。
俺はいままで、何を求めて音楽を綴ってきたんだ。
気がつくと俺は、階段を下りて居間へと向かっていた。
そして、小テストの採点に追われている親父の横を通り過ぎて、チェストの上の電話機に手を伸ばしていた。
「おい、早く風呂に入れ。あ? いまから電話かけるのか? もう九時過ぎだぞ?」
親父の声は、まったく耳に届かなかった。
そうだ。
俺は、あいつの声が聞きたいんだ。
そして、このどうしようもなく落ち着かない気持ちの答えを見つけたいんだ。
そんな心の声が響く中、俺は宮本の家の電話番号を知っているやつを探して、あちこちに電話をかけまくった。
それからしばらくして、やっとやつを受話器口に捉えたとき、時計はもう二十二時を回っていた。
「宮本か? 夜遅くすまんな。俺、読んだぞ」
なぜだろう。
俺はどうしても、そうやつに伝えずには居られなかった。




