4-1 触れた肩、初めての彼女の隣
なんだか、夢を見ているみたいだ。
手を伸ばせば触れられるほどの距離で、奏さんが笑っている。
春から今日まで、同じクラスになったのに一度も言葉を交わすこともなく、それどころか彼女を知ってからのこの九つの季節、近しくその声を聞くことすら叶わず過ごしてきたというのに。
その彼女が僕の馴染みのミキサールームで、いつも僕が座っている奥の椅子に腰掛けて、さも当たり前のように栞とワッピと笑っている。
「判決を言い渡したのでとりあえずこれでいいわ。咲美、まだお弁当が途中だったんじゃない?」
「そのとおり。まだ食べ始めたばかりでありました。はい」
「それなら、早く食べなさい。栞はこのあと部活でしょ?」
奏さんが、栞のことを『しおり』と名前で呼んでいる。
「うん。奏はどうするの? 吹奏楽、見学しに来ない? なんならあたしのトランペット吹いていいし」
「遠慮するわ。それに私、お昼は持ってきてないし」
栞も、奏さんのことを『かなで』と呼んでいる。
「おおうっ、それならアタシがおやつにと思って買ったパンがあるのですっ。栞先輩っ、奏先輩っ、ここで一緒に食べるのですっ! 帰るか見学かはそれから考えればいいではありませんか」
「でも、それって咲美のおやつなんでしょ? 私、恨まれたくないわ」
「アタシがそんなチンケな女に見えますか」
なんだか、ふわふわする。
この三人が同じフレームの中で動いているなんて、信じられない。
「咲美はいいかもしれないけど他の部員の子たちには迷惑よ。私、あまり良く思われてな――」
「いやいやいや、みんな歓迎なのですっ! ねっ? みんなそうでありますよねっ?」
ワッピがワーッと騒いで、みんなが苦笑いしながらスタジオへ歩きだして、それから奏さんとワッピが僕に何かを言いながら前を通り過ぎて……。
気がつくと、ガラスの向こうのスタジオでは長机を並べ直していて、ミキサールームの扉の先で立ち止まっている奏さんに、二年生の子がスタジオの中から「どうぞ」と促していた。
「……っくん。あっくん」
ふと、呼ばれていたことに気がついて、ミキサールームの奥へ振り返る。
見ると、肩をすぼめた栞が、胸の前で指先をモジモジさせながら、何やらバツが悪そうにしていた。
「どうした?」
「えっと、あの、その……、あの時はごめん。ほんとにごめん」
思わず、ミキサールームの扉のほうへ目をやった。
奏さんと目が合う。
一秒、二秒と無言が過ぎたあと、奏さんが小さく顎をしゃくった。
ハッとして栞へ向き直る。
「んんっ、その……、ごめん。僕のほうこそ悪かった」
やはり、僕自身もずっとどこかで引っかかっていたんだと思う。
突然、肩が軽くなった気がした。栞はうんうんと頷きながら下を向いている。
「歩くん、ちゃんとできるじゃない。まぁ、物書きらしいわね。めんどうくさくて」
呆れたように笑った、奏さんの笑顔。
すると、その後ろから奏さんの腕に抱きつきながらワッピが覗く。
「うひょー、歩先輩が素直になったのです。しかーし、めんどうくさい物書きというのはしっかり自分に返ってきてませんか? 奏先輩」
「何かしら? 咲美、ケンカ売ってるの?」
「はっはっはー!」
奏さんが冗談を言っている。
あんな顔して笑うんだ。
教室では絶対に見せない顔。絶対に見せない距離感。
ふと見ると、ほかの部員たちも言葉を失って、その姿をただただ眺めている。
しばらくして、栞が音楽室からお弁当を持ってくると、ワッピのおやつのお裾分けを貰った奏さんを囲んでささやかなスタジオ昼食会が始まった。
僕はもうお弁当を食べてしまっていたので、スタジオの入口付近に椅子を持って来て、購買で買った紙パックのコーヒー牛乳を飲みつつ彼女たちの談笑に耳を傾けた。
不思議な光景。
スタジオの真ん中に長机が並んでいて、奏さんと栞とワッピが座っていて。
それを囲む女子部員たちも、だんだん話の輪に入ってきて……。
奏さんがどんな話をするのかと思っていたら、いまふうにきゃぴきゃぴとは話さないものの、意外にも女子高校生座談会に馴染んでいて、なんとも微笑ましい。
今年の春から導入された『消費税』のせいで財布の小銭が増えて困るだとか、とある事件のように竹やぶで一億円拾ったら何に使うかだとか……。
いや、拾ったら警察に届けないとダメでしょ。
そんなどうでもいいことを笑いながら話していたけど、そのうち数学だの英語だのの話になって、秀才の胸を借りようと参考書まで取り出す子も出てきた。
「あたし、ちょっとお弁当箱洗ってくる」
勉強の話題になって談笑の輪から退く栞。
理数科の栞も奏さんに負けず劣らずの秀才の部類に入るのだが、ここでは奏さんに花を持たせたいといった様子。
空の弁当箱を手に僕の横へやってきた栞に、その疑問を投げかける。
「栞、どうして奏さんと仲良くなったの?」
「うん? えっとねー、秘密!」
「なんだよ、僕にはどうしても何が何だか分からなくてさ。話せないこと?」
「そうねー。いつか、いろいろまとまったら話すね。絶対。ただ、あたしもちゃんと理解できたよ? 奏のこと」
思わず、ハッとして栞を見上げた。
栞が眉をハの字にして続ける。
「奏、とっても誤解されやすいの。人付合いが苦手で、口下手で、でも本当はとっても純粋で一生懸命」
「そうか」
「でね? 今日は奏があっくんに物申すって言いだしてここへ押しかけたんだけど、実はあたしと咲美ちゃんには別の作戦があってね? あの、『監視役』の話」
「あれ、どういうことなの?」
「ちょっと強引だけど、『監視役』ってことにして奏をあたしたちの輪の中に引き込んでしまおうって、昨日、咲美ちゃんと電話で話して」
そういうことか。
なんとなく理解できた。
「分かったよ。そういうことなら、甘んじて監視されようか。で? 実際はどうやるの? 彼女を吹奏楽部に引き込むつもり?」
「ううん。それはちょっとムリ。奏が絶対うんって言わないもん。だから……」
「もしかして、ここ?」
「そう! 放送部の常連部外者にしちゃおうかって。あたしみたいに」
それは……、夢のような話だけど、毎日奏さんがそばに居るなんて、僕のほうが耐えられなくなるんじゃないだろうか。
談笑へ目をやると、奏さんを囲んでワッピと部員のみんながわいわい言っていた。
奏さん、素敵な笑顔だ。
ワッピも楽しそう。
「常連部外者か。奏さんがいいなら僕は構わないけど。いまもずいぶん楽しそうだし」
「そうね。キツい言い方もお得意のバッサリもさっきから連発してるんだけど、実は不機嫌なんじゃないってみんなも理解してくれたみたいね」
「言ったろ? 違うんだって」
「あはは。そうね。あっくんの言ったとおりだった。まぁ、そういうことだから奏のことよろしくね? あたしの親友なんだから」
「親友? そうか……、分かった」
どうして彼女たちが意気投合したのか、その理由を聞くことは叶わなかったが、互いに相手を大切に思う心の通った関係であることは理解できた。
栞もワッピも、あんなに奏さんのことを嫌っていたのに、それが微塵も感じられないほどに信頼しあえるようになるなんて、人間って本当に不思議だ。
「あっ、もうこんな時間! ちょっとゆっくりし過ぎた! あたし、部活に行かなきゃ」
空の弁当箱を持ったまま、時計を見てびっくりした栞。
座った僕越しに伸びあがって、座談会の真ん中に居る奏さんにちょっと高い声を向ける。
「奏ぇー? あたし、もう練習行かなくちゃー。悪いけど、ここで終わるまで待っててくれるー?」
ハッとしてこちらを向いた奏さん。
すごい顔。
「ええっ? あっ、あの、私、どうしたらっ……」
輪の中からひとり立ち上がって、両手を胸の前で握っておろおろしている。
これは、あの勝気な奏さんとは思えない、なかなかお目にかかれない希少なワンシーンだ。
思わず頬が緩んだ。
「な、何を笑っているのかしら? 歩くん」
「いや、別に笑ってないよ? 特に用件がないのなら、栞の部活が終わるまでここでみんなと話してたらいいよ。ワッピも居るし」
「え? でもっ、活動の邪魔に――」
「ならないよ? ここはいつもこんな感じなんだ。イベントがないときは単なる談笑クラブ」
「そ……、そう。本当に、いいの?」
ふわりと周りを見回す奏さん。
すると、奏さんを囲んでいるみんながニコニコしてうんうんと頷く。
さぁ、もうこれで常連部外者決定だ。
栞に目をやると、してやったりといった顔で僕を見下ろしていた。
「じゃ、あたし行くね」
栞が軽く手を挙げて扉から出て行くと、突然、スタジオでワーッと声が上がった。
見ると、奏さんがワッピを抱きしめている。
きっと、恥ずかしいのと嬉しいのが一緒になったんだろう。
そうして座談会の二次会が始まると、僕はいつもならミキサールームで過ごすところを、そのままスタジオの端の椅子に腰掛けて、本を読むふりをして彼女たちの弾む話に耳を傾けた。
「宮本くん、居る?」
栞が部活へ行って、奏さんを囲む会が少々落ち着き始めたころ、スタジオを覗き込んだ紳士が僕の名前を呼んだ。
川上先生だ。
放送部の顧問で、数学科の主任。
川上先生が放送室に来るのはとても珍しい。
いままで数々の高校の放送部をNHK放送コンテストの全国大会へ連れて行ったすごい先生なんだけど、実は、めったに姿を現さない。
活動は基本的に生徒の自主性に任せるというスタンスで、僕らが番組制作で困ってアドバイスを求めたときや、何かよほどの用件がある時以外は登場しない、まるでツチノコのような先生だ。
「はい、ここです」
「おう、びっくりした。こんなとこに腰掛けて何してるの? 珍しいね、宮本くんがスタジオに居るなんて……、ん?」
扉のすぐ横に座っていた僕に驚いたあと、先生はすぐにその異変に気がついたようだ。
スタジオの奥へ目をやって、それから「ほほう」と顎を触った川上先生。
「これはもっと珍しい。野元くんじゃないか。ごきげんよう」
奏さんがサッと立ち上がる。
そして、いままでの柔らかな笑みがすーっと消えて、いつも教室で見るあの顔になった。
「みなさんの好意でここで少々時間を潰させてもらっています。活動の邪魔になるようであればすぐに退出します」
これが、いつもの彼女だ。
「いやいや、邪魔どころか、キミにも話があったからちょうどよかったよ。宮本くん、職員室に来てねって頼んでたの忘れてるでしょ。仕方がないのでこちらからやって来ました」
うわ、完全に忘れてた。ワッピの『旅は駅長よりエライ』のせいだ。
「すっ、すみません。忘れてました。大事な話ですよね」
「うん。ちょっとビデオ制作の企画でね。また校長先生がいろいろと……」
先生はそう言いながら、すーっと僕から奏さんへ視線を移した。
「野元くん、実はキミにも協力してもらいたいんだよねー」
「協力ですか? 私、放送関係の心得はありませんが」
「まあまあ、そんなに邪険にしないで」
先生は奏さんのしょっぱい対応をものともしていない。栞にも勝るものすごい『暖簾に腕押し』度だ。
スタジオに入りながら、「座って座って」とジェスチャーする先生に拍子抜けしたのか、奏さんは大人しくまたみんなの真ん中へ腰を下ろした。
先生が奏さんの正面に腰を下ろしたのに続いて僕もその隣に座ろうとすると、ワッピが突然立ち上がる。
「歩先輩はここなのです」
いや、そこは。
ワッピが座れと僕に促したのは、奏さんの隣。
奏さんがパッと僕を見上げる。
目が合う。
ど、どうしよう。
「宮本くん、ちょうどいい。一枚しか資料がないんで、そっちからふたりで見て」
「え? は、はい」
慌てて奏さんの横へ。
奏さんが軽く椅子を引いてくれて、僕に「どうぞ」と小声で言った。
すーっと息を吸って、「ありがと」と言って座る。
「ちょっと、これ見て」
対面の先生が、並んで座った僕らに見せたのは一枚のメモ。
同時にみんなが僕らの外側から覗き込んだ。
ギュッと押されて、突然近くなった奏さん。
ドキッとした。
あのときと同じ、柑橘系の爽やかな香り。
「これねぇ、校長先生がどうしてもやれっていうんだよ。再来月のセンテニアル高校との姉妹校締結が終わったら、それまでの取り組みをドキュメンタリー番組にしてセンテニアル高校に送れって」
先生の言葉が頭に入ってこない。
奏さんの肩が、ほんの少し僕の肩に触れている。
少しだけ横を向いて彼女を見ると、なぜか彼女と目が合った。
綺麗な瞳。
ほんの数秒、いや、ほんのコンマ数秒だったかもしれない。
放心したようにお互いを見つめたあと、ふたりともハッと気がついてまたメモに視線を戻した。
「特に、あの……、名前なんだったっけ、バンドマンの前生徒会長……、あの彼を中心に生徒会スタッフの懸命な姿を描く青春群像みたいにしてくれっていうんだ。そんな脚色できませんって言ったんだけどねぇ」
奏さんが小さく咳払いをして、ちょっと前のめりぎみにメモを覗き込んだ。
長い髪が前に落ちて、ふわりと僕の腕にかかる。
これはダメだ。
こんなことが毎日続いたら、本当に死んでしまう。
ふと見ると、僕に席を譲って先生の後ろへ回ったワッピが、なんとも意地の悪いニヤケ顔をしていた。
「どうだろう、宮本くん。できるかな」
「え? あ、えーと……」
「あれ、説明が悪かった? 要するに、姉妹校締結に尽力した前生徒会長とその仲間たちのドキュメント番組さ」
もう一度ちゃんとメモを見る。
表題は、『ビデオ「センテニアルとの絆」制作企画』と書かれていた。
なんとも昭和っぽいタイトル。
バンドマンの前生徒会長っていうのは、僕の代わりに生徒会長を引き受けてくれた江上惇くんのことだ。
江上くんは、シンセサイザーを使った音楽をやっている。聞けば、この街ではそれなりに名が売れているらしい。
実は、僕も何度か彼のカセットテープを買ったことがある。
どんなものかと思って、下通りにある有名なライトミュージック専門の楽器屋のカウンターに並んでいた彼のテープを買って聴いた。
詞は友人の作らしいが、それ以外の作曲、編曲、歌唱、営業、販売をすべて自分でやっていて、まぁ、アマチュアとしてはかなり聴けるレベルなので、いつか放送部の番組にオリジナルの主題歌を作ってもらおうかなんて考えていた。
その彼を主人公にして、番組を作れってことだ。
「あの、先生。私は……」
奏さんが顔を上げる。
「あ、ごめん。野元くんには翻訳と英語のナレーターをお願いしたいんだけど、やってくれないかな」
「翻訳と……、ナレーターっ?」
「うん。表敬訪問団が来たとき同時通訳してくれたろう? あの映像なんかは、日本語版ではしゃべっている英語に日本語のテロップを入れないといけないし、英語版では日本語に英語のテロップを付けて、さらに英語のナレーターが必要だし」
「わ、私、アナウンサーみたいなことなんてできません」
奏さんがちょっと慌てている。これも希少なワンシーン。
「大丈夫、放送部のみんなが教えてくれるよ。だから、ね? 頼むよ」
みんなが一斉に顔を上げて、それぞれに目線を送っている。
「はいはいはい! アタシっ、奏先輩にアナウンスを教えるのですっ!」
「おお、咲美っちが野元くんの先生になってくれるかい? それなら、翻訳のほうは宮本くんが原稿を作って、それを野元くんと検討して――」
これは、あまりにも驚きの展開だ。
常連部外者になったばかりだというのに、次は正式に準部員として作品制作に携わって欲しいという先生からの依頼。
しーんとなったスタジオ。
奏さんは焦点の合わない瞳を先生のほうへ向けている。
その向こうでワッピが、嬉しそうにうんうんと頷いている。
僕はじわりと奏さんのほうへ顔を向けて、ちょっとだけ彼女を覗き見上げた。
「まぁ、栞も文化祭までは部活がずっとあるし、奏さんも栞を待つ間の時間潰しができるだろうし……、特に支障がないなら僕からもお願いするよ」
「え? えっと、あの……」
みんなを見回す奏さん。
うんうんとみんなが頷く。
「野元先輩、一緒にやりましょう」
「熱烈希望」
「アナウンス、けっこう楽しいですよ?」
「私、英語を教えて欲しいなぁ。数学も」
「お願いしますっ。私たちを助けると思って!」
奏さんの頬が、みるみるうちに紅くなる。
そして、覗き見上げたままの僕に一瞬目をやって、それから彼女はピンと背筋を伸ばして咳払いをした。
「んんっ、もう、しょうがないわね」
その瞬間、ワーッと声が上がる。
先生の肩に両手をかけて飛び跳ねるワッピ。
「やったー! 奏先輩っ、今日から放送部員なのでありますっ!」
「ぶ、部員じゃないわっ。あくまで手伝いよっ?」
本人は、かなり嫌そうな雰囲気を出しているつもりだろうけど、口元がほんの少し笑っているのを僕は見逃さなかった。
でも、これから毎日彼女が放送室にやってくるなんて……、僕は生きて帰れるのだろうか。
「野元くん、それじゃ、宮本くんと協力して、頼むね? 僕もできるかぎり助力するから」
「は、はい。歩くんと……、協力……」
「じゃ、みんなよろしく」
ニッコリと笑った川上先生は、それから「みんなの邪魔してごめん」と、なんとも顧問らしからぬ言葉を残してスタジオを出て行った。
初めて、奏さんと言葉を交わした、あの生徒会室からちょうど二年。
あれからずっと手の届かない遠くに居る彼女を人知れず見つめてきたのに、その彼女がいま目の前で笑っている。
なんだか、いろんなことが急に起こりすぎて、まったく現実感がない。
栞と親友になっていたり、ワッピが遠慮なしに絡んだり……、僕の知らない彼女がたくさん目の前に現れて、僕の心をいっぱいにした。
そのうえ、一緒に番組制作をやるなんて。
こうして、僕の高校最後の秋は、なんとも特効薬のない熱病にでもかかってしまったような、真っ直ぐ歩けないほどくらくらと目まいがするような、そんな不思議な浮遊感に包まれながら始まった。




