プロローグ 初恋
郷愁を具体的な言葉にすれば、それはとても陳腐になることが常だ。
己がその年齢に達したことへの寂寥感が過ぎ去った時を神聖化して、それらを必要以上に美化するからだ。
人は、時代の当事者として青春の一ページを現在進行形で捉えているときに、それが将来、郷愁と共に懐かしげに思い返されることを想像もし得ないし、さして重要なことだとも考えない。
しかしあるとき、ふと立ち止まって大きく息を吸った瞬間に、それこそが『若さ』だったと気づくのだ。
もう、とうにセピア色になってしまったあのころ。
背伸びをしてあのシーンを描いた当時十七歳の私は、本当にこの『見知らぬ街角』で彼女と再会するなど想像すらしなかった。
「歩くんね? 私のこと、覚えているかしら」
一瞬で私をあの空の下へと連れ戻した、その柔和な声音。
ああ、忘れるものか。忘れられるはずがない。
あのころ、私の心をこれ以上ないくらいにいっぱいに満たしていたあなたのことを。
ありがとうも、さようならも、ちゃんと言えないまま私の手の届かない所へ行ってしまったあなたのことを……。
高校一年生 一〇月
恋は一瞬だった。
まさに『天高く』と呼ぶのに相応しい抜けるような空が、生徒会室前の窓いっぱいに広がっている。
パイプ椅子に腰掛けたままノックの音のほうへ目をやると、開いた扉の先でその透き通った声が響いた。
「あなた、文化委員長ね? 文化祭の展示希望はここでいいの?」
生徒会室にはいま僕しかいない。
やや逆光ぎみの柔らかなコントラスト。
ハッと息を飲む。
胸まである美しい黒髪をゆっくりと後ろへ払った彼女の姿は、まるで絵画のよう。
青色の上履きからすれば、彼女は僕と同じ一年生だ。
この高校に入学して半年、同じ学年にこんな綺麗な子が居たなんて知らなかった。
思わず視線を逸らした。
どうしたんだ。
なぜか耳の奥のリズムが勝手に駆け足を始めている。
僕は絶対に惚れっぽい性格じゃない。
それどころか、いままで誰かを恋焦がれたことすらない。
そんな感覚は安易で軽薄だって、ずっとずっと軽蔑してきたっていうのに。
なん組の子だろう。
廊下でまったく顔を合わせないほど教室が離れているんだろうか。それとも――。
「ねぇ、聞こえてる?」
「え? あ、えっと……、うん」
ちょっと眉根を寄せて身を乗り出した彼女。
同時に、その美しく長い髪がさらりと前に流れる。
僕は小さく咳払いをして、それからわざとらしく手元の大学ノートをパタパタとめくった。
「あ、えっと、な、何部?」
「文芸部」
彼女が言ったとおり、僕は生徒会執行部の文化委員長だ。
そしてなぜか、執行部で唯一の一年生。
来月行われる文化祭は僕にとって初めての経験だというのに、致し方なく僕は実行委員会の長として上級生たちを相手にその準備に追われている。
文芸部?
めくった大学ノートを見ると、文芸部の部員数は『一名』となっていた。
そうすると彼女は文芸部の部長にして、唯一の部員ということだ。
「えーっと……、部の展示希望だよね。申請用紙、書いてくれた?」
「書いてきたわ。これでいいかしら」
そう言いながら彼女はすっと僕のすぐ横まで歩み寄って、そのB5サイズの用紙を差し出した。
とっても綺麗な手だ。
『第十二回 創立記念祭 展示希望申請書』
この前、各文化部の代表に配った、僕の手書きプリントの申請用紙。
『部長 一年九組 野元奏』
字もすごく綺麗。
僕が文化委員長だって知っているということは、彼女はこの前の実行委員会の会合の席に居たってことだ。
壇上から僕が見たときは、こんな綺麗な子が居ることには気がつかなかったけど。
もしかしたらずっと後ろの誰かの陰になって見えない席に――。
「――で、申請用紙はそれでいいの? 悪いの?」
「え? あ、ああ、これでいいよ? えっと、部長はキミ? 野元さんね。野元……、『そう』さん?」
「最初から正しく読んでもらった試しがないのよね。『かなで』……、『野元奏』ね」
「あっ、ごめん。『かなで』さんね」
一年九組なのか。
九組は一年棟の昇降口を入ってすぐの一階。だから三階にある四組の僕とは、合同授業どころか廊下ですれ違うことすらなかったんだ。
「あの……、展示の量はどれくらいある? けっこう広いスペースが必要かな」
「量? そうね、机ふたつもあれば充分ね」
「そう? それなら新聞部とかと同じ教室で合同でも――」
「他の部と相部屋はイヤ」
突然、ぐいっと彼女の顔が近くなる。
「え? ああ、そう……なんだね。えっと……、教室まるまるひとつ使いたいってこと?」
「そうじゃないわ。他の連中と相部屋になるのがイヤなの。面積は狭くても構わないわ」
「そうか。じゃあ、クイズ研究会とか軽音楽同好会とかが使う特別棟の――」
「音を立てるうるさい部活の隣もイヤ」
さらにぐっと彼女の顔が近くなる。
思わず下を向いた。
「えーっと、その……、うん、分かった。できる限り希望に沿うようにするからね」
ずいぶん泳いでしまった目を無理に上げて、思い切り笑顔を作る。
たぶん、すごい顔。
そんな自分でもよく分からない僕の顔が面白かったのか、彼女は一瞬だけ横を向いてクスリと笑った。
とてもクールで綺麗なのに、その仕草はすごく可愛い。
すると次の瞬間、その素敵な笑顔がすっと消えて、眉根を寄せた半眼がじとりと僕へ向いた。
「ひっ?」
思わずのけ反る。
そしてそれから彼女はじわりと一歩踏み出して、そのしなやかな右手の人差し指をつーっと僕の胸へと近づけた。
トンッ。
小さな音を立てて、ネームプレートに突き立てられた彼女の指。
「できる限りじゃ……、ダメだから」
長く美しい黒髪がはらりと落ちて、その口角がほんの少し上がった。
吸い込まれそうな瞳。
その綺麗な瞳が、手を伸ばせば触れられるくらいの距離で真っ直ぐに僕を捉えた。
「う……、うん。分かった」
僕の頬は紅かっただろうか。
彼女の視線を避けながら返した僕の返事は、まるで独り言。
「お願いね? じゃ」
そう言って、ゆっくりと体を起こした彼女が背を向ける。
僕はすぐに居住まいを正して、上げた瞳で彼女を追った。
そして、開いたままの生徒会室の扉を通り過ぎた彼女が最後に見せた横顔は、この世のものとは思えない天使のように素敵な笑顔。
それから僕は、その背景が抜けるような空だけになったあとも、なかなか目を離せずに扉の向こうをぼんやりと眺めていたんだ。