第5話 『繰り返される罪科』
「…………ん……んぅ……?」
朦朧とする視界は白く、死後の世界と言われれば簡単に信じてしまいそうな光景だった。
ところが、目を開く瞼の微かな痙攣と、腕を動かすと肌に伝わってくる何かふわふわとした感触──
「…………ここ……は…………」
鮮明になる視界、少女の発した肉声は、少女を生の感覚へと引き戻す。
少女は今、白いベッドの上で寝ている。
「……何で…………だっけ…………」
意識が次第にはっきりし始めると、少女はその細い腕で頭を支え、経緯を考えていた。
──あの衝撃的な体験を思い出すまでに、時間はかからない。
「──そうだっ!……首っ……!」
そうして、反射的に首元を掌をで包む。
首に熱を感じたあの瞬間、そして最後に見たあの光景──今思い返してみると、自分の頸動脈が切られていたのだと理解した。
「…………えっ?……あれ……?」
首の前後左右を何度も触診するも、すべすべとした肌の感触が、少女の普通の指先に伝わるばかりである。
少女の肉体に残っていた傷痕は、例の左肩の火傷痕のみ。そのヒリつきは、未だ治まることを知らない。
「……夢……だった……の?」
状況整理を粗方終えた少女の結論に、まずそれが挙がった。
少女の置かれている今の状況も、そう結論付ければ納得がいく。平均的なリビング程度の広さの部屋、その片隅に設置されたベッドで眠りから覚めたのだ。
これほどまでに都合の良い状況はそう無い。
それに、あの体験が夢であった方が、少女の心は幾分か楽にはなる。
唯一、覚める直前に聞いたシステム音声が、今期の世界がどうとか言っていたような気もするが、それも夢ならば気に留める必要も無い
首の触診を終えた少女は、背後のヘッドボードの上に丁寧に置かれていたヘッドホンを自身の首に掛け、立ち上がった。
そして、部屋内の散策を始める。
部屋の家具は、まず少女の寝ていたベッド…………以上である。
目覚めた瞬間は全く視野が及ばなかったが、こうも何もないとなれば、始めた散策もほぼ徒労である。
残る調査ポイントとすれば、ベッドと対極の方向にある扉だった。
「……誰か……いる……のかな……」
自然と歩みが鈍化し、足音が消える。
いつからか人と話すのが苦手になった少女に、人との接触は緊張感を持つのに十分な理由だった。
夢の中では、どうにもその例外ばかりが起きていたらしくはあるが。
扉の目の前まで辿り着いた少女は、声を出したり、ノックをしたりすることもなく、暫く様子を伺っていた。
相手の素性が知れない以上、自分は保護されているのか監禁されているのか、その区別がつかない。
だからこそ少女は今、音を極力発さないよう、やけに慎重にノブを回していた。
──その瞬間だった。
「おっ? やっぱりもう起きてたか」
少女の回すノブが、反対側から数倍も強い力で回し返され、目の前の扉が開いた。
そこに立っていたのは、180センチ強の高身の男。顔をよく見てみれば、大して異性に興味の無い少女もそう思うほどの男前であった。
「……あっ……えっ……と……す、すみませ──」
「体調はもう大丈夫そうなのかい? 身体に怪我らしい怪我は無かったみたいだけど」
気の弱い少女の口からは、自然と謝罪が出かけていたが、それを遮る高身長の威圧感に、思わず少女は目を逸らす。
こちらの心配をする男の目を見ることができないまま、失礼だと分かっていながらも黙り込んでしまう。
「……? まだ、本調子じゃない……かな? なら、待っててくれ。今、食事を作り終えたところなんだ、持ってくるよ」
「……あっ…………」
踵を返し、階段を駆け下りる男の背中を見送り、緊張がやや緩まる。
自分が想像していたよりも、人と話すことが困難だった。
夢での女の子との会話では、このような息の詰まる感覚は無かったせいだろうか。
何にせよ、もう一度男が戻ってくる前に、準備をしておかなければならない。
男の態度からして、恐らくこれは保護の方だ。とりあえず今は安全と考えて良い。
大して深くもない深呼吸して、少女は心を落ち着けた。
あの世界が夢だったならば、この世界が少女の転生先、ということになる。
つまり、今戻ってくる男が、少女のファーストコミュニケーションの相手である。
──今度は失敗のないように。
「──すまない!……待たせたね。はいこれ、ここらの山菜のスープ。不味くはないと思うが……口に合わなかったら無理をしなくていい」
階段を上ってきた男は、挨拶代わりに湯気の立つスープを手渡した。
色味も、具材も、全く異世界らしくない。少女のいた世界で言う『味噌汁』の見た目と酷似していた。
「……あ、ありがとう……ございます…………あ、あの……ここ……は……?」
スープを受け取りつつ、少女は何とか質問をした。
未だ目も合わせず、間も空いた酷いファーストコミュニケーションではあったが、この際大した問題でもないかった。
「……そうだね。その辺諸々説明しないと……だよな。分かった、下から椅子を持ってくるから、座ってゆっくり話そう」
色々と察した様子の男は、またもや踵を返して行ってしまった。
今度の待ち時間を埋めたのは、少女が持っていたスープ。耐熱性の椀なのか、持っていても全く熱くない。
そっと口に運ぶと、同時にその匂いが鼻を突き抜けた。そして、少女の頭に迷うこと無く浮かんだ第一の感想──
「…………味噌…………だ……」
* * * * * * * * * * * * *
「──それで、俺が運んで寝かせておいた。ベッドしかない空き部屋が役に立つこともあるもんだね」
男はルーブ・オルテンシアと名乗った。
彼は自然を好んでおり、国内ではなく、山の中で一人暮らし、食料は近くの森で調達しているとのこと。
その森の中に偶然倒れていた少女を見つけ、保護したということらしい。
「ちなみに、こんな場所に住んでるけど、ちゃんと働いてるぞ? って言ってもまあ……人の愚痴相談所……みたいなもんだけど……」
浮気・不倫をされた人の相談や、将来に悩む人の相談を聞き、また明るく生きられるよう助言するのが彼の仕事らしい。
このような辺境の地まで来る人は、大抵一癖も二癖もある人ばかりだ、と。
しかしながら、ある程度の生活費をそれで賄っているくらいなのだから、意外とキャリアは積んであるのだろうか。
「……ありがとう……ございます…………その、助けて……いただいて……」
「いやいや、森の中で倒れてる女の子見捨てる方が普通おかしいだろ? 感謝なんていいよ」
目を合わせるのはまだ不可能だったが、時折顔を見るくらいならできるようになった。
彼は自分に害を与えない、むしろ親切に保護してくれている、という安心感は、今の少女が最も必要とする安らぎだった。
「そういえば……どうして君は倒れていたんだい? 怪我が無かったから…………誰かに捨てられた……とか?」
その問いに、少女ははっとした。
この質問に答えるかどうかというのは、乃ち少女が転生者であることを明かすかどうかということに直結するのだ。
「……え、えっと…………それは……」
真剣にこちらの表情を伺われているような気がして、また息が詰まるような感覚に襲われる。
転生者の存在など、到底信じはしないだろう。
夢とは違って相手は理解のある大人のようだが、理解があるからこそ、それこそ夢の話と言われて終わり。
それならば、と少女は重い口を開いた。
「……そ、そうです……!」
一旦捨て子ということにしてしまえば、彼の性格ならば養ってくれるだろうと踏んだ。
何とも図々しい考えだが、少女が生きるためには最も合理的な考えである。
唯一異性と暮らすことになるというのが懸念点だが、異形と暮らすよりかはよっぽど良い。
「……そう……か…………よし、それなら、しばらくここにいるといい!」
思ったよりも早く予想通りの答えが返って来たことで、少女の心の荷が軽くなる。
「ただ……知っての通りここは自然に囲まれた場所だ。そんな環境で、今までの倍の生活費を稼ぎ、倍の食料を確保するってのはかなり難しい。ある程度、手伝いはしてもらうけど、大丈夫かな?」
彼は終始穏やかな声で少女と話していた。
聞いているだけで、どことなく安心する──彼の今の仕事が成り立つのには、そういう理由もあるのかもしれない。
そんな声の主が提示した条件を、少女は頷いて承諾した。人の相談を聞くというのは少女には難しいが、山菜を集めるくらいならば、インドアの少女も無理をすれば可能である。
明るい未来を脳内に描いた少女は、一瞬ではあったが、漸く彼の瞳を見ることができた。
──その瞳は、せせらぐ河川のように澄んでいた。
「……じゃ……早速お仕事、頼んでもいいかな?」
そう言って男が立ち上がるのを見て、少女も足先に力を入れた。
──つもりだった。
筋肉が思うように作動せず、椅子ごと床に倒れる。
突然のことに全く理解が及ばず、不意に「あれ?」と口に出していた。
「……俺も慣れたもんだなァ。何となーくの配分で作った麻酔汁の効果が出始めるタイミングがしっかり分かってる。どうだ? お前みたいな華奢な身体じゃ動けないだろ?」
少女の頭上から聞こえてきたドスの効いた声が、次第に少女の眼前まで近づいてくる。
そこで合った瞳は、淀んでいた。
「…………えっ……?」
少女は信じられなかった。先程までとはまるで別人の声と瞳を持つルーブの存在が。
身体は既に力を入れることを許されておらず、思考ばかりが空回りする。
……似たような光景を、どこかで見た気がする。
「外はまだ明るいなァ……まっ、昼の方が『十の聖剣』の奴らも見回りなんてしねえだろうし、丁度いいか……ほら、立て。他の女は全員1回ヤったら捨ててきたが……捨てられたってんなら話は別だぜ?」
動かない身体を無理やり肩に担がれ、運ばれる。
目的地は当然、少女が目覚めた場所だった。
「……やめ……て…………」
声帯さえも上手く機能せず、絞り出した声は掠れているかのようだった。
そんな切なる願いも届くことはなく、容赦なくベッドに身体が投げ込まれる。
「安心しろよ……捨て子が行方不明になったところで誰も心配なんざしねェ…………だから、俺がたっぷり弄んでやる」
「…………こ、来ない……で…………!」
加速する鼓動が簡単に聞こえた。ルーブの血走る眼が鮮明に見えた。何度も何度も、彼の魔の手が近づくことを拒んだ。
しかし、少女の身体は一切動かない。少女の弱小の身体から神経の全てが抜け落ちたかのように、自由が利かない。
「ハッ!……健気だねェ。この期に及んでまだ抵抗しようってか? 大概の女は、俺の顔見りゃ抱かれてもいいってなる軽い女ばっかりだったがなァ……それとも、お前は若いからか? もしかして、初めて、ってヤツか? 全く……俺も随分と性格が悪くなったもんだぜ……」
終始楽しげなルーブは、部屋のカーテンを閉じ、自らの上体を露にした。
ジリジリと少女に近寄るにつれ、細身の割にしっかりと定着した筋肉が、暗闇の中でもはっきりしていく。
「……おいおい、何だよその顔。めちゃくちゃ怯えてんじゃねェか。会ったばかりの男前に犯されるのがそんなに怖いか?……安心しろって。すぐ楽になっからよ?」
ルーブが少女に馬乗りになると、少女の身体は震え出した。依然として、自由は利かないにも関わらず。
少女は無我夢中で拒んだ。また、同じ破滅が訪れてしまう。また、自分の人生がめちゃくちゃになる。
「……そんじゃま、その邪魔な服も脱いでもらうぞ……」
少女の胸元に、言葉通りの魔の手がゆっくりと迫ってくる。
お願い……来ないで……来ないで……来ないで……来ないで……来ないで……来ないで……
「──来ちゃ……だめっ!!」
とにかく、夢中だった。
その瞬間に麻酔の切れた少女の右手は、ルーブを突き飛ばしていた。と言っても、多少怯ませた程度で、体重のある男を突き飛ばすなど、少女には不可能だったのだが。
──眼前で、人間の下半身から鮮血の花が咲いた。その数秒後に、少女の視界全てが紅に染まった。
一瞬の出来事だった。
──あの体験は、夢ではなかったのだ。